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案内 滋賀県文化財保護協会 辻川哲朗氏
 (1日目)
 安土城考古博物館→高島歴史民資料館→鴨稲荷山古墳→上御殿山遺跡・天神畑遺跡→田中王塚古墳
 (2日目)
 北牧野古墳群(製鉄遺跡)→くちなし谷炭窯遺跡→西牧野古墳群→奥琵琶湖パークウェイ展望台(古保利古墳群遠望)→葛尾崎湖底遺跡資料館→姫塚古墳→長浜茶臼山古墳→米原市近江はにわ館→山津照神社古墳→(米原駅,京都駅)

京都駅

京都駅に集合。バス2台の分乗。
 
安土城考古博物館

展示を見学       

これから訪ねる鴨稲荷山古墳出土品  
同行いただいた木下副館長の挨拶

ご案内の辻川先生の講義を聞く       

記念写真(クリックすると拡大)      
 
高島市歴史民俗資料館

白井さんに鴨稲荷山古墳の説明を聞く       
 
鴨稲荷山古墳

■高島平野南半の平野部には鴨川が東流し沖積平野を形成している。その鴨川右岸の沖積平野の一端に鴨稲荷山古墳は立地する。古墳付近の標高は約91mであり,県内でもかなり低位部に位置する古墳といえる。

■1902(明治35)年,道路工事に伴う土砂採取がなされたさいに,石室が発見された。
 石棺が開けられ,豊富な副葬品が出土した。遺物の大半は東京帝室博物館に収蔵されることになった。その後,京都帝国大学考古學研究室により発掘調査が実施され,報告書が刊行された。戦前に滋賀県内で実施された,古墳を対象とする学術的発掘調査の数少ない例となっている。

■墳丘は土砂採取等により大半を失っている。周囲の田畑の畦畔等から,全長約45mの前方後円頂,もしくは全長約30数mの帆立貝式古墳に復元されている。さらに,周辺地割から周濠の存在が想定できる。埴輪(円筒埴輪)が出土しており、墳丘に埴輪が樹立されたいたことが分かる。

■埋葬施設は,後円部中心で石室の一部が確認されている。石室の遺存状態は劣悪で、横穴式石室と目されるものの,その構造等については判然としない。

■石室内には刳複式家形石棺が遺存していた。この家形石棺は二上山白石とよばれる凝灰岩製であることがわかっている。

■石室内からは,金銅製冠・履等の装身具や金銅装環頭太刀等の武器類等が出土した。さらに棺外では,金銅装の馬具類や須恵器が出土している。

■出土遺物からは,六世前半頃に位置づけられるものであり,継体期の古墳といえる。

 
上御殿遺跡
■上御殿遺跡は高島市三尾里にある。河川改修工事に伴う発掘調査が平成20~25年度にかけて実施された結果,縄文時代から平安時代にいたる複合遺跡であることが判明した。

■三尾里という地名から,継体大王が出生したと伝える「三尾別業」が推定される地域である。

■調査成果のなかでも他に例をみない「双環柄頭短剣」鋳型の出土が注目される。鋳型は,単独で,剣の彫り込みがある面を合わせてた状態で,低地(川か?)の岸に置かれた状態で出土した。

■鋳型には使用痕跡が確認できず,鋳型として未使用だ。その理由は明らかではないが,上下の鋳型に彫り込まれた柄の長さに長短がある点等から未完成もしくは失敗品の可能性も指摘されている。

■鋳型に掘りこまれた剣には次のような特徴がある。柄頭が双環を呈すること,一鋳式,樋のない直刀,柄に複合鋸歯文・有軸複杉文を施すこと,鋳造しても薄く鍔もないことから実用品といいがたいこと。

■春秋戦国時代(BC770~221)の中国北方地域〔中国河北省北部・北京北部・内蒙古中南部]に分布するオルドス式銅剣に形態は近いけれども,相違点も多い。

■今のところ,所属時期は文様・鋳型の素材等から弥生時代中期後半頃と考えられる。また,短剣の形状は中国北部に近いものの,文様・形状等から上御殿遺跡オリジナル(ただし,オルドス式短剣の情報・実物を人手した可能性あり)と考えられる。
■平成24年度の調査では、古墳時代前期から平安時代にかけての川跡(旧青井川)を検出し,それに伴って多くレの水辺の祭りに関する遺物が出土した。中でも形代(かたしろ)の出土が目立つ。奈良時代~平安時代の木製人形代51点と,木製馬形代23点が出土した。人形代は県内2番目の出土数であるし,馬形代にいたっては県内で最多級だ。

■人形代は,現在神社で行われている「祓」の儀式(紙製の人形に息を吹きかけて悪気や汚れを人形に移し,清らかな水に流すのと同じような使い方を万されたのだろう。上御殿遺跡は奈良~平安時代頃の一大祭祀場だったといえる。

■さらに興味深いのは「守君舩人(もりのきみのふなひと)」と7列に縦書きされた,国内では例のない墨書人名土器である。

■この墨書人名土器については,大橋哲弥氏の論考が興味深い。大橋氏は,次のように,本墨書土器出土の意義を解釈する。まず,「守君」が美濃国の国造級の豪族であり,同じく美濃国の豪族牟義都国造=牟義君ときわめて近い同祖氏族であるという。さらに「上官記一云」には,継体の祖母久留比売命の父が美濃の豪族牟義都国造伊自牟良君とあるので,継体擁立勢力と考えられる。となると,今回,継体の擁立勢カー三尾氏の本拠と推定される上御殿遺跡において発見された墨書土器に,やはり継体擁立勢力に関連する美濃の豪族守君一族の名が記されていたことは,継体擁立勢力間の交流を示すものではないか,と結論づけたのである。

【文献】大橋信弥(2014)「継体天皇と美濃 -「守君舩人」墨書土器発見の意義」『淡海文化財論叢第六輯』淡海文化財論叢刊行会
 
田中古墳群
■田中古墳群は高高市安曇川町田中に所在する古墳群である。安曇川右岸の泰山寺野段丘縁辺一帯に立地する。

■近年の分布調査で,総計70基以上の存在が確認された)。大半は小規模(10~20m程度)な方・円頂であるが,その中で,田中王塚古墳は全長58mと突出した規模を誇る。

■田中王塚古墳は「安曇陵墓参考地」として宮内庁管轄下にあり,立ち入りが制限されており,本格的な調査は未実施である。ただ,周辺で採集された埴輪片は中期後半頃(川西編年IV期)のものであり,古墳の築造時期を示唆する。



田中王塚古墳前で解説を聞く     

作り出し部から後円部へ廻る

周辺には小古墳が並ぶ        
■田中古墳群は,従来木棺直葬墓が主体をしめると考えられることが多かった。しかし,平成19年度に実施された36号墳(①)の発掘調査では,横穴式石室が検出され,横穴式石室墳が確実に存在することが判明した。

■田中36号墳の石室(③)は,玄室平面形態がL字形を呈する点が特徴的である。とくに,奥壁北側が側壁よりも突出する点は,奥壁手前に埋葬空間を作りだすことを意図していると考えられる。西牧野古墳群の斉頼塚古墳の「石棚」と類似するものであり,九州的な要素として評価できる。

36号墳墳丘       

      発掘中の36号墳(2007年)
 
サンブリッジホテル
琵琶湖に昇る朝日
出発前に記念写真(クリックすれば拡大)                      食事中のスナップ写真
 
牧野製鉄遺跡群 北牧野A遺跡くちなし谷遺跡
■高島市北部一旧マキノ町域には製鉄遺跡の分布が知られる。はやくに森浩一氏が調査した北牧野A遺跡をはじめ,現在のでは約11遺跡の存在が知られている。その分布は海津・小荒路地区の遺跡群と,マキノスキー場付近(牧野遺跡群)に大別できる。

■北牧野A遺跡は,森浩一氏が調査され,製鉄炉と目される遺構が検出された。この製鉄炉の構造については,長方形箱形炉をはじめ諸説がある。

■遺構周辺からは,奈良時代前半頃と考えられる須恵器が出土しており,製鉄活動の稼働時期をうかがう手がかりとなっている。

■1983年に地元住民によって,通称「人穴」という洞穴が再発掘された。その結果,この洞穴は丘陵斜面に水平方向に穴を掘り,その脇に立坑を取り付けた構造であることがわかった。
さらに,この洞穴は,四壁が焼けて黒くなっており,底面には木炭屑が堆積していた。そのため,木炭窯の可能性が考えられた。
 本遺構については,より積極的に「六世紀ころの大型黒炭窯ではないかとする説が強い」(マキノ町前編さん委員会編1987, p138)とみる意見もある. しかし,「六世紀ころ」に時期を限定できる根拠を,正式な報告書が未刊行である現状では,しりえない。もとより出土遺物はないようであるし,構造的にも時期を限定するのは現状で難しいから,さらに検討が必要であろう。

     キャンプ場を登る

    くちなし谷入り口で解説を聞く

     くちなし谷を登る


大型黒炭窯へ               

煙筒への横穴          
 
北牧野古墳群
■マキノスキー場の南東側一帯には,多数の古墳が存在する。これまでに約96基が確認されている。けれども,滅失した古墳も多く,総計150基程度に達する可能性もある。径10m前後横穴式石室墳から構成された,比較的等質な大規模後斯群集墳である。2000年度に3基が発掘調査されたほかは,本格的な調査はない。

     スキー場駐車場には多数の石材を見ることができる
 
西牧野古墳群 斉頼塚古墳

■北牧野古墳群から南西約800mの丘陵裾部付近にも後期群集墳が展開する。これが西牧野古墳群である。現状では47基が確認されており,4群の支群から構成されている。


    墳丘上で説明を聞く

周辺には墳丘が散在する    
■構成墳の大半は小規模な円頂であるけれども,41号墳(斉頼塚古墳)は約20mの迫出し付円頂となる可能性が高く(②),他の古墳にくらべて規模が大きく,盟主墳とみることができる。
I斉頼塚古墳の埋葬施設は横穴式石室である。この石室の特徴は奥壁中段に扁平な石材を構架する「石棚」を持つ点である。さらに,「石榴」下には立石が一部遺存しており,石棚と立石からなる埋葬空間を形成した可能性がある。この構造は「石屋形」と類似するもので,本石室にみる九州的な要素として評価できる。

■盗掘のため出土遺物は少ないが,出土土器は6世紀前葉頃のもので,本地域の導入期石室例である。



       墳丘にある丘の急坂を登る


      石室内の石棚         


     石室内の立石        
 

北牧野古墳群と西牧野古墳群のあいだにある
防風林として植えられたメタセコイヤの並木
 
菅浦集落
菅浦は琵琶湖に面した集落。
須賀神社の祭神は奈良時代の淳仁天皇。廃位になり淡路に流され死んだといわれるが、ここ菅浦に流されたとの言い伝えがある。
菅浦の村に入る東西の道には、四足門と呼ばれる茅葺きの門が残っていが、主要な交通手段は舟といわれ門が何のために造られたのか。
鎌倉時代から明治時代初めにかけて作られた村落や漁村生活を記した菅浦文書が残されており、菅浦郷土資料館に保存されている。

神社へお参りするには靴を脱ぐ。   

参道から琵琶湖を望む         

西の四脚門       
 
東の四脚門       
 
つづらおで昼食
ベランダから葛籠尾崎と竹生島
 
葛籠尾崎湖底遺跡 古保利古墳群
■奥琵琶湖の沿岸は大小の岬が北から南の琵琶湖へ向かってのびている。そのうち,塩津湾の西側でひときわ「長く竹生島へ向けて突き出た岬が葛寵尾崎である。その東西斜面は急斜面をなし,湖岸部もほとんど平地はない。
とくに東斜面は湖中へ続き,水深60~70mの湖底谷となっている。この付近を中心にして南北1600m・東西2000mあまりが遺跡の範囲である。

■この付近では,イサザ漁にしばしば土器等の遺物が引き上げられていた。それに注目した地元尾上出身の故小江慶雄氏(元京都教育大学学長)は出土遺物の保全につとめ,湖底遺跡の成因を検討した。

■出土した遺物は,縄文時代から平安時代にまでわたるもので,完形品が多い点が特徴的である。
また,湖中で付着したと目される湖成鉄が器面に付着している例も少なくない。

■遺跡の成因については,小江氏をはじめとして,複数の研究者によって,以下のような説が示されている。①地盤沈降説,②奉貪ないし遺棄説,③自然営力による二次堆積説等。しかし,確定にはいたっていない。

奥琵琶湖展望台から湖底遺跡と古保利古墳群のある丘陵を望む
■湖北の賤ケ岳から山本山にかけて,湖岸に沿って南北に長く丘陵が約7kmのびている。丘陵南半部の頂部付近には約3㎞にわたり,数珠つなぎ状に古墳が連続して分布する。これが古保利古墳群である。湖北最大の古墳群であり,総数約130基におよぶ。

■古墳時代前期から中期頃の古墳が主体をしめるようであるものの,北部には横穴式石室を有する小円頂もあって,後期古墳が含まれることは間違いない。

■分布状況から,A~Fの6支群に大別されている。

■発掘調査が実施された事例は一部に限定されるので,詳細はあきらかではないものの,各支群には前方後円墳ないしは前方後円頂が1基以上含まれている。これらの支群は,それぞれが一定独立した首長系譜であり,複数の首長系譜が一つの丘陵上に設定したと考える。

■さらに,琵琶湖からしか視認できない位置に立地する古墳の存在は本古墳群の性格の一端を物語っている。

被葬者については、
余呉から西浅井には古墳がなく北琵琶湖海運を支配したこの地域の首長が墓を築いたのかもしれない。
さらに敦賀まで範囲を広げられるかもしれないとのこと。
 
葛寵尾崎湖底遺跡資料館
 
物部古墳群姫塚古墳
■余呉川中流域左岸の平野郎に築造された古墳群である。従来は,中期から後期の古墳群と考えられ,一部が県指定史跡となっている。分布状況から,南北二つの群に分けられることもある。このうち,北群は横山神社古墳(方円32m・後期),兵主神社古墳(方円?).大将軍古墳(円)・上生塚古墳(方円?)からなる。一方,南群は姫塚古墳・父塚古墳・五位塚古墳等から構成される。

■姫塚古墳は,水EH中に前方後円形の墳丘が遺存しており,立地等から中期古墳として推定されていた。平成12~14年度にかけて,墳丘測量調査と確認調査が実施された結果,以下のような点があきらかとなった。①墳形は前方後方墳であり,全長72~80mに推定できること。②周濠をもつごと。③後方部で葺石が確認できたこと。③後方部に段築をもつと推定されたこと。④出土した土器はいずれも墳丘盛り土層に属するか由来するものであり,確実に古墳に伴う遺物はない。以上の点に加えて,周濠形態等の点も加味して,調査担当者は,古墳の築造時期を3世紀後葉以降,4世紀前半頃と推定している。

■全長約70~80m規模の前方後方墳は,滋賀県内でも最大の前方後方墳であり,古墳時代前期前半ごろの地域首長墓といえ,物部古墳群の造営時期が前期まで遡上することが明らかになった。

後方部から前方部を望む
 
長浜茶臼山古墳
■長浜古墳群は,湖北を代表する古墳群の一つである。長浜平野の東端に,南北にながくのびた丘陵(横山丘陵)の北端付近一帯に展開する。前期から後期まで連綿と首長墓が継続する一系列の首長系譜と解釈されることも多い。しかし,実体の不明な古墳を前提としたその解釈には疑問が残り,その間に何度かの断絶期をはさむ可能性もあるのではないかと考えている。

■長浜古墳群中で,最大規模を誇るのは,全長約90mの前方後円墳長浜茶臼山古墳である。

■長浜茶臼山古墳は,丘陵頂部という立地等から,前期古墳とみなされることも多かった。しかし,採集された埴輪片は,細片ながらも黒斑は確認されず,穴窯導入以後の古墳一中期古墳とみておくのが穏当と考える。

■付近には同時期の中小墳である西山古墳や神塚古墳が確認されていて,それらにも埴輪の樹立がみとめられるほか,越前塚遺跡でも同時期頃の埴輪棺が検出されていて,地域首長とともに,下位首長まで埴輪を樹立する点が特徴である。
以上から,長浜古墳群は,現状では,中期の長浜茶臼山古墳を代表とする中期中葉,さらに垣寵古墳の後期初頭から前葉頃に盛期が認められる。

後円部から小谷城と姉川を望む     
陸軍大演習時の李王世子李垠殿下御展望所碑も近代史遺跡 
 
 
米原市近江はにわ館 息長古墳群塚の越古墳

近江はにわ館から望む塚の越古墳   
 
息長古墳群山津照神社古墳
■息長古墳群は,長浜古墳とともに湖北を代表する古墳群である。横山丘陵の南端付近一帯に展開する。前期から後期まで断続をはさみつつ首長墓が造営されるようである。

■とくに,後期前半には築造された2基の前方後円墳(塚の越古墳〔全長約40m〕と山津照神社古墳〔全長約46m)は注目される。

■塚の越古墳は,墳丘の大半を削平されたが,戦前に多様な副葬品が出土した。周壕部の調査では石見型埴輪を含む埴輪群と,新羅系土器が出土した。。
■山津照神社古墳は明治期に後円部で石室が発見され,多種多様な副葬品の出土をみた。埋め戻され現在は実見できないが,残された絵図から,石室奥壁側に石棺もしくは石屋形状施設があったことがわかる。
■近年の発掘調査で円筒埴輪・石見型埴輪が出土している。


山津照神社へ         

山津照神社拝殿       

山津照神社古墳墳丘まえで説明を聞く   
 
撮影協力 坂部征彦