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近鉄桃山御陵前駅→御香宮→指月城跡→乃木神社→明治天皇伏見桃山陵→桓武天皇陵→伏見城→大亀谷陵墓3考地→京都教育大学→藤森神社→京阪墨染駅

 
御香宮
集合は御香宮 参加者は160人を超えた。
ご案内は鶴見先生

「御香宮 創建年は不詳。神功皇后を主祭神とし、仲哀天皇.応神天皇他6柱を祀ります。当初は『御諸神社』と称しましたが、貞観4年(862)9月9日、境内から香りの良い水が涌いたため、清和天皇より『御香宮』の名を賜わりました。
 豊臣秀吉は伏見築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請しました。その後、徳川家康は慶長10年(1605)に創建当初の地に戻して本殿を造営しました。慶応4年(1868)正月、伏見鳥羽の戦いの時に、御香宮は薩摩藩の駐屯所となりましたが戦火を免れました。
御香水 伏見の7名水の1つ。徳川頼宣(紀州)、頼房(水戸)、義直(尾張)が産湯として使用しました。明治以降は涸れていましたが、昭和57年(1982)に復元され、昭和60年(1985)1月、環境庁(現環境省)より『名水百選』に認定されています。
本殿(重要文化財) 慶長10年(1605)、徳川家康の命によって建立されました。建物は彫刻が施され、極彩色で飾られています。平成2年(1990)から実施された修理によって極彩色が復元されています。拝殿は寛永2年(1625)に徳川頼宣(紀州徳川家初代)によって寄進されたものです。表門(重要文化財)元和8年(1622)、徳川頼房(光圀の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進したものです。正面には中国二十四孝を彫った蟇股(かえるまた)があります。平成9年(1997)6月に彩色が復元されました。」

本殿
拝殿
伏見城大手門が移設された表門
御香水
境内に残る伏見城残石
 
指月城跡
石垣出土地前で説明を聞く。

「伏見城は豊臣秀吉が天正20年(1592)に隠居屋敷を建設し、文禄3年(1594)に本格的城郭に改修したもの(指月城)が始まりで、文禄5年(1596)に起きた、いわゆる慶長大地震で倒壊したために城を木幡山に移しました(木幡城)。
 最初の伏見城(指月城)は不明な点が多いため、その存在が疑う見方もありました。しかし平成27年に実施された指月城推定地の発掘調査で石垣や堀を検出し、金箔瓦が出土していることから、存在は確実となりました。」

石垣出土地は手前幕の下。
本丸跡は東側、背後の少し高い公務員宿舎付近。
 
崇光・光明天皇陵
北朝第」2,3代天皇陵の前を通過。
 
舟入跡
宇治川に続く直線の道が舟入りの跡
 
乃木神社

「大正5年(1916)の創建で、陸軍大将乃木希典を祀っています。境内には少年時代に長府(山口県)で家族と過ごした旧宅(再現したもの)、日露戦争時に旅順で司令部として使われた民家(移築したもの)などがあります。神門は樹齢3000年とも言われる台湾檜で建てられました。乃木は第3代台湾総督でした。『明治天皇紀』には、明治天皇の大喪儀を終えた直後に乃木夫妻が殉死した時の状況や辞世の歌などが記されています。」


 
明治天皇伏見桃山陵

「墳丘は天智天皇陵をモデルにした上円下方墳です(その後の調査で天智天皇陵は上段が8角形であることが判明しています)。
 『明治天皇紀』によると、明治天皇は明治45年(1912)7月30日午前0時43分に61歳で崩御し、大正元年(1912)8月6日に大喪儀の期日を9月13~15日と定め、陵所を京都府紀伊郡堀内村堀内字古城山に決定、告示されました。
 この陵所は明治天皇の遺詔によるもので、明治36年(1903)に海軍大演習観艦式および第5回内国勧業博覧会開会式に臨御のために京都へ行幸した時に「朕が百年の後は必ず陵を桃山に営むべし」と話したと記されています。
 明治天皇の霊柩は9月14日午前1時40分に青山仮停車場の列車内に移御し、午前2時に発車、午後5時10分に桃山仮停車場に到着しました。そして八瀬童子に担がれて陵所へ遷され、祭場殿に到着したのは午後7時35分です。埋葬の次第が『明治天皇紀』に詳しく記されているので、その部分を引用しておきます。
 「霊柩を葱華輦(そうかれん)より台車に奉遷して、御須屋(おすや:仮小屋)の中、壙穴の上に牽き上げ、台車を除き去りて後徐に宝壙の底に斂めたてまつり、石槨内に安置せる木槨中に奉安す、次いで霊柩の周囲を充填し、上に御物を奉納し、槨蓋を蓋ひ、更に蓋石を以て石槨を蓋ひ、壙穴の四隅に神将の埴輪を据ゑ、陵誌を納めたてまつる、陵誌は伏見桃山陵の5字を刻す、大喪使総裁たる貞愛親王の書する所なり、陵誌奉安畢るや、貞愛親王壙穴に進みて拝礼し、手に清き土を把りて3度石槨の上に置きたてまつり、次いで清砂を以て上部を覆ひたてまつる、15日午前7時埋柩の儀畢り、次いで9時陵前祭行はれ、9時55分に至り奉葬の式全く了る、」
 なお、「神将の埴輪」は、天理参考館所蔵の武将姿の埴輪「武装した人」(高さ89センチ、彫刻家吉田白嶺作)が明治天皇陵に納めるために制作した余りとみられています。」


明治天皇陵への長い階段を上る
明治天皇陵は上円下方墳
明治天皇陵の後方が桃山城本丸
西側(左側)の二の丸が真の桓武天皇陵候補地
 
昭憲皇太后伏見桃山東陵
 
明治天皇陵参道に残る伏見城残石
 
 
桓武天皇陵

「延暦25年(806)3月17日、平安京の創設者である桓武天皇は崩御(70歳)。陵は当初、平安京の西北郊の山城国葛野郡宇太野(京都市右京区宇多野付近)に定められましたが、周辺の山で不審火が相次いだため、山城国紀伊郡(京都市伏見区)柏原陵に改められました。  『延喜式』諸陵寮は桓武天皇陵を「兆域東八町、西三町、南五町、北六町、丑寅角に二峯一谷を加ふ。守戸5烟」としています。桓武陵は平安時代から鎌倉時代にかけて朝廷から定期的に荷前使(のさきのつかい)が派遣され、国家の大事に際して告陵使が遣わされていましたが、朝廷の陵墓祭祀が衰退すると、桓武天皇陵の所在地が忘れられ、江戸時代後期の陵墓探索事業では、元禄年間の修陵で伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳に決定されました。現在の桓武天皇陵は、幕末に谷森善臣が紀伊郡堀内村字三人屋敷にあった高まりを桓武天皇陵としたものです。  しかし13世紀後半に桓武天皇陵が盗掘された時の記録には、「件の山陵、十許丈を登り、壇の廻り八十余丈」と諸陵寮の官人が報告したことが『仁部記』文永11年(1274)2月21日条にみえます。すなわち桓武天皇陵は周囲から10丈(約30m)以上高い丘陵上で、周囲80丈(約240m=直径約80m)以上だったことになります。  こうしたことから山田邦和氏は、伏見桃山陵となった伏見区桃山町の丘陵そのものを兆域とし、その中の1つの峯を山陵の本体としたと推定し、明治天皇陵の西北、二ノ丸跡にあたる丘陵の頂部を候補と考えています。」

 
伏見桃山城

「豊臣秀吉は慶長2年(1597)に伏見城(木幡城)が完成すると秀頼とともに大坂城から移りました。秀吉は翌年に伏見城で死去し、徳川家康が入城します。しかし慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前哨戦で伏見城は西軍に攻められ、家康の留守を守った鳥居元忠が討ち死に、炎上しました。
 伏見城は慶長7年(1602)頃に家康によって再建されましたが、元和5年(1619)に一国一城令により廃城されます。この時に伏見城の建物や部材は二条城、淀城、福山城など各地に移築されました。伏見城跡は桃の木が植えられたことから桃山と呼ばれるようになりました。
 伏見城から移築されたという建物は各地にみられます(伝承を含む)。
天守閣→2条城(京都市)
大手門→御香宮神社表門(京都市)
唐門→西本願寺(京都市)
唐門→豊国神社(京都市)
高麗門→浄照寺(田原本町)
薬医門→二尊院総門(京都市)
日暮御殿→都久夫須麻神社本殿(長浜市)
観音寺山門(京都市)
瑞宝寺旧山門(神戸市)
本山寺中の門(高槻市)
福山城伏見櫓(福山市)
金地院方丈(京都市)
 伏見城は廃城や明治天皇陵の造営、宅地の開発などにより地形が大きく改変されてしまっています。しかし、伏見城の南側2か所に「舟入」の跡が現在も残っています。舟入は南を流れる宇治川と接続しています。
 城下町は大名屋敷.武家屋敷が多く建ち並んだ場所で、現在の地名をみると、井伊掃部、板倉周防、金森出雲、筒井伊賀、長岡越中、羽柴長吉、福島太夫、毛利長門などが残っていて、城下町時代の様子をうかがわせます。
 城跡は昭和39年(1964)に伏見桃山城キャッスルランド(遊園地)となり、「洛中洛外図屏風」に描かれた伏見城を参考に鉄筋コンクリートの模擬天守が建設されました。遊園地は平成15年(2003)に閉園し、現在は京都市の運動公園として活用されています。」

旧キャッスルランド

昼食


北側堀に沿って進む                 
 
大亀谷陵墓参考地

「大亀谷陵墓参考地付近からは、花崗岩の板材を組み合わせた「石棺」または「石槨」と呼ばれるものが出土しています。これは長さ2.57m、幅1.28m、高さ1.10mで、現在は隣接する仏国寺(黄檗宗)境内に移転され、台石が古御香宮社に残っています。」
仏国寺石棺
旧御香宮台石
 
京都教育大学

「明治9年(1876)に京都府師範学校として創設され、昭和24年(1949)に新制の国立京都学芸大学となり、昭和32年(1957)に京都市北区から現在の場所に移転しました。昭和41年(1966)に京都教育大学教育学部と改められて現在に至ります。
 明治30年(1897)、第19旅団司令部、京都連隊区司令部、歩兵第38連隊がこの場所に設置されました。明治41年(1908)には、これらを統括する第16師団も深草に置かれました。
 昭和時代には第16師団は上海、南京へと転戦し、第19旅団は第19歩兵団へ編成替えされます。太平洋戦争でフィリピンへ移動すると、この場所には第53歩兵団がおかれましたが、ビルマ(現在のミャンマー)へ転戦し、昭和20年(1945)に京都地区司令部が入り終戦を迎えました。」

第19歩兵団司令部
 
藤森神社

「藤森神社では毎年5月5日に藤森祭が行なわれます。藤森祭(深草祭)は貞観2(860)年、清和天皇の宝祚に際し行なわれた奉幣の神事が始まりとされ、菖蒲の節句発祥の祭ともいわれています。菖蒲は尚武、勝負に通じ、勝運の神として信仰を集めています。
 旧御所の建物で重要文化財に指定されている本殿中央(中座)の祭神は、素戔嗚命.別雷命.日本武尊.応神天皇.仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の7柱です。神功皇后が新羅より凱旋して、山城国深草の藤森の地を聖地にえらび祭祀をしたことが始まりとされます。
 本殿東殿(東座)の祭神は舎人親王.天武天皇の2柱です。舎人親王は『日本書紀』の編者であることから、学問の神としても信仰されています。
 本殿西殿(西座)には早良親王、伊豫親王、井上内親王の3柱を祀っています。」
 
 
撮影協力 坂部征彦

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