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巻向駅→メクリ1号墳→東田大塚古墳→矢塚古墳→勝山古墳→石塚古墳→纒向遺跡辻地区→珠城山古墳群→纒向遺跡巻野内地区→上の山古墳→渋谷向山古墳→ヲカタ塚古墳→櫛山古墳→行燈山古墳→天神山古墳→黒塚古墳展示館→黒塚古墳→柳本駅

纒向遺跡 巻野内地区
巻向駅集合

天気が心配されたが台風一過。速度の遅い台風は厚い雲を残す。
参加者は予想以上の173名。
坂先生に纒向遺跡から柳本古墳群まで案内いただく。
集合場所は巻向駅西南の旧巻向小学校跡。ここではメクリ1号墳が見つかっている。


「近年、纒向遺跡辻地区の調査がすすんでいます。庄内式期の中心建物が検出され、邪馬台国との関わりが注目されました。それに重なるように、異なる時期の遺構もあります。今回は、庄内式期ばかりでなく、布留式期やそれ以降の時期にも留意しながら、纒向遺跡を歩き、北側にある柳本古墳群とどのような関係にあったのかを考えてみたいと思います。」
 
メクリ1号墳

「墳丘長28.5mの前方後方墳です。上面は完全に削られていました。周濠出土の土器は庄内式期に遡ります。」

庄内式期なら突出部を持つ方形周溝墓もいえるが、庄内期以降をここでは古墳と呼ぶとことする。
右後方が箸墓古墳。

 
東田大塚古墳

 「墳丘長120mの前方後円墳です。墳丘の下層に布留0式期の遺構があり、布留式期に築造されたものと考えられます。」


西から墳丘をみる。右側が後方部。

 
矢塚古墳

 「墳丘長96mの前方後円墳です。周濠出土の土器は庄内式期に遡ります。」
 
勝山古墳

「墳丘長115mの前方後円墳です。周濠から、刀剣把・槽・団扇形・U字形・船形など多数の木製品が出土しています。また、古墳外の北側から、陶質土器と鍛冶関連遺物が出土しています。周濠出土の土器は庄内式期に遡り、周濠出土木製品の年輪年代は198年、推定伐採年代が210年以前と推定されています。」

「纒向大溝は 幅五㍍で、長さ60m以上の西南流する「北溝」と、幅五㍍で長さ140m以上で西北流する「南溝」が、纒向小学校の運動場で合流しています。合流点では井堰が設けられ、北溝と南溝は、さらに西南方向へ流れています。護岸には矢板が打ち込まれており、大規模な土木工事がおこなわれた人工水路です。溝のなかからは庄内式期~布留式期の土器や、全国各地から人がやってきたことを示す外来系土器が大量に出土しました。南溝の延長線上には、箸墓古墳があります。常設展示室でも確認してください。」

写真右、巻向小学校から纏向大溝が箸墓へ伸びる。
 
石塚古墳

墳丘長99mの前方後円墳です。周濠の南西側(小学校の方)からは、鶏形木製品、南側のくびれ部付近からは、弧文円板、その近くの前方部寄りの位置からは木柱や鋤・鍬などの木製品が出土しています。墳丘の下層、周濠内から弥生土器や庄内式土器が出土していて、初期の調査を担当した石野博信氏は、日本列島で最古の前方後円墳とされています。常設展示室に木柱・鶏形木製品・弧文円板などが展示されています。
 また、近年の調査で前方部の北東に墳丘長20mの帆立貝式古墳の石塚東古墳が確認されました。円筒埴輪が出土していて、5世紀後半~末に築造されたものと考えられます。さらに、勝山古墳の東側にも、石見型木製品や埴輪が出土した勝山東古墳があります。一辺25mの方墳で、6世紀前半代に築造されたと考えられます。」


 
纒向遺跡 辻地区

「県営住宅の建設を契機に発掘調査がおこなわれ、多くの土坑や川跡などが検出されました。とりわけ、湧水点まで掘りぬいた直径五㍍、深さ1.2mを測る土坑四と呼ばれた大型土坑から、庄内式と布留式期が交わる時期(布留0式)の大量の土器と、丸木弓・竪杵・機織具・腰掛・朱彩大型高坏・籠・箕・船形・鳥船形木製品などとともに燃えさし、籾殻などが出土し、「纒向型祭祀」と呼ばれる祭祀がおこなわれたと考えられています。さらにその南西、巻向駅を挟んで東西のトリイノ前地区には、庄内式期の東西に並ぶ柵や掘立柱建物が検出されたことは、冒頭に述べたとおりです。それに重なるように布留2式期(4世紀半ば頃)の方形区画溝、5世紀末~6世紀初頭の石組溝、奈良時代の土坑などがあり、辻地区一帯が長期間にわたって、纒向遺跡の中心部であったことがわかってきました。」


布留1式の遺跡はどこにあるのか。
これから訪ねる巻野内地区にあるのか。今後の発掘が楽しみ。


 
珠城山1~3号墳

 「古代の官道である上ツ道と、現代の国道を横断したのち、垂仁天皇纒向珠城宮跡の石碑を左にみながら、坂をあがっていくと珠城山古墳群があります。1955年に1号墳、1958年に3号墳が発掘調査されました。1号墳の埋葬施設の横穴式石室からは金銅製や鉄製の馬具類・三葉文環頭大刀・胡?金具・挂甲などの武器類・金銅製勾玉・銀製空玉などの玉類やミニチュア甑などの土器類のほか、鉄製鎹・鉄釘など多数の遺物が出土しました。石室は現在開口しています。3号墳には、前方部と後円部にそれぞれ横穴式石室があり、ここからも金銅製馬具や大刀、三輪玉をはじめ多数の遺物が出土しています。とりわけ、心葉形杏葉・鏡板は、藤ノ木古墳の馬具に匹敵するような優品です。復元品を常設展示しています。3号墳の墳丘のほとんどは失われてしまいましたが、1985年・2004年の調査で前方部の端部の埴輪列が検出され、盾持人埴輪が出土しています。1・3号墳はいずれも6世紀後半代に築造されたものと考えられます。」

 2号墳墳丘


 手前2号墳と1号墳墳丘     


 1,2号墳の間から墳丘へ登る

 2号墳後円部       


 1号墳石室

 墳丘からは箸墓、耳成、畝傍、金剛葛城山が望める     

 

「珠城山古墳群の北側で、布留式期のV字形溝や土塁が検出された地点があり、居館に関わるものと推定されています。また、その南側で韓式系土器、絹製巾着袋などが出土しています。この西側の国道沿いの場所で、導水施設が検出されていて、このあたり一帯が布留0~1式期(3世紀後半)における纒向遺跡の中心部と考えられます。纒向遺跡は、この頃盛期をむかえ、遺跡の範囲は約2.7kmという日本列島最大規模の集落遺跡となります。」
 
渋谷向山古墳

「墳丘長300mの前方後円墳です。やや前方部が長く、墳丘は三段築成で広い平坦面をもつことが特徴です。関西大学に本古墳出土という石枕(重要文化財)が所蔵されています。宮内庁書陵部による発掘調査で鰭付埴輪が出土しています。柳本古墳群の大型前方後円墳のなかでは最後の4世紀半ば頃と考えられます。」
 
ヲカタ塚古墳

「柳本古墳群のなかで、東端部の標高148mという高所に築造された古墳です。2001年に墳丘裾部の発掘調査がおこなわれました。須恵器片などが出土していることから、6世紀に築造されたと推定されています。北東に前方部がつく墳丘長55mの前方後円墳と考えられてきましたが、南西に前方部がとりつく前方後円墳である可能性も指摘されています。」
 ヲカタ塚古墳へ向かう。晴れ間が出て暑い。
 西から望む。左端がヲカタ塚古墳。
 西側の高低差が大きく、南西にに前方部があるとすると大きく削平されていることになる。


 墳丘の南はため池になっている。      


 金剛葛城山、二上山が望める。

 
昼食
 
櫛山古墳

「墳丘長148mの双方中円墳です。1948・49年に発掘調査がおこなわれました。中円部中央で竪穴式石室が検出されましたが、盗掘がはげしく、石棺の破片と副葬品の一部である管玉・滑石製合子・石釧・車輪石・鉄鏃などが出土しました。後方部では、東西3,4m、南北5m以上の白礫を敷いた特殊な方形施設が検出されました。海軍の施設によりその上面が荒らされており、原位置をとどめる遺物はありませんでしたが、莫大な量の石釧・車輪石・鍬形石がすべて破片の状態で出土しました。また、多数の土師器高坏片、「位牌形」の石製品も出土しました。祭祀がおこなわれたと考えられています。中円部の墳頂部では大型の楕円形埴輪列が検出されています。さらに、その後の外堤部の調査では、柵形埴輪が出土しています。古墳の築造年代は4世紀後半代と考えられます。」
 
 櫛山古墳墳丘


前方部から中円部に登る    

   


東側の方形施設      

    
 
行燈山古墳

「墳丘長242mの前方後円墳です。墳丘は三段築成で、前方部がやや短い形態になっています。幕末の修陵時に長辺70cm、短辺53mの内行花文状、方格規矩状の文様を描いた銅板が出土しています。また、宮内庁書陵部による発掘調査で、口縁部とその下にある凸帯までの長さが短い初現期の円筒埴輪が出土しています。近くの大型古墳のなかでは、西殿塚古墳やメスリ山古墳より後出し、渋谷向山古墳より遡るものと考えられます。古墳の築造年代は、4世紀前半代と推定されます。さらに、追祭祀がおこなわれたのか、大型須恵器が出土しています。また、幕末まではこの古墳が景行天皇陵とされていましたが、修陵がおわってから崇神陵に治定替えされました。『日本書紀』では、崇神天皇は、山辺道勾岡上陵に葬られたとされています。」


 
大和天神山古墳

「墳丘長103mの前方後円墳です。墳丘の東半分は国道の法面と道路によって失われています。1960年に後円部の竪穴式石室が調査されました。その後、1998年に再測量がおこなわれ、石室内の木棺について再検討がおこなわれました。木棺中央には41kgの水銀朱が埋納され、これをとりまくように鏡面を上に向けて20面の鏡と、その外に3面の鏡が並べられていました。鏡がならべられた空間の長さが1.4mと狭く、人体埋葬がなかったとも考えられます。その空間の内外には鉄剣、鉄刀、鉄鏃、刀子、鎌などが出土しています。 鏡の内訳は方格規矩鏡六面、内行花文鏡四面、画文帯神獣鏡四面、獣形鏡4面、画像鏡2面、三角縁変形神獣鏡2面、人物鳥獣文鏡1面で、典型的な三角縁神獣鏡がなく、後漢鏡が多く含まれることに特色があります。鏡の一部は、奈良国立博物館からお借りして、常設展示室に展示しています。墳丘に埴輪は樹立されていません。築造年代は、行燈山古墳と同時期の4世紀前半と考えられます。」


伊謝奈岐神社社殿と背後の天神山古墳墳丘   

 
黒塚古墳

「墳丘長約130mの前方後円墳です。1997~98年に後円部の埋葬施設の竪穴式石室が発掘調査されました。石室壁面は、下段が春日山の塊石、上段が芝山の板石で、その上部で持送る構造で、その断面形は合掌形となります。石室底部では粘土棺床が検出され、この上に割竹形木棺が安置されていたと考えられます。被葬者の頭部位置には水銀朱が残存しています。その北側に立てられた状態で画文帯神獣鏡、両側からは鉄刀・鉄剣が出土しています。さらに、棺外の東壁側15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を石室壁のわずかなすき間に立てかけていました。こちらは、棺内の中国鏡のほかは、三角縁神獣鏡ばかりであることにその特色があります。その他に刀剣類や鉄鏃・小札・U字形の鉄製品などが出土しています。さらに、その後の墳丘の調査で前方部側に石室構築のための大規模な作業道や、石室の排水溝が存在したことも明らかになっています。築造年代は、3世紀後半~4世紀前半と考えられます。」




黒塚古墳展示館          

 

 「以上、纒向遺跡を出発して、柳本古墳群の大型古墳をめぐり、最後は黒塚古墳までたどりつきました。纒向遺跡は、布留式期に盛期をむかえ、それと同時にすぐ北側の柳本古墳群では大型古墳が次々と造営されています。両者の関係こそもっと注目されるべきではないでしょうか。」