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海柘榴市観音堂→城島遺跡→谷遺跡→文殊院西古墳→文殊院東古墳→艸墓古墳→谷首古墳→上之宮遺跡→中山遺跡→コロコロ山古墳→生田遺跡→奥山久米寺跡→雷丘東方遺跡→近鉄橿原神宮前駅


 「 」は会報から引用
 「推古16年(608)4月、隋使裴世清が前年4月に隋に渡った小野妹子に率いられて筑紫に到着した。裴世清は外国使節の接待を掌る鴻臚寺という官庁の役人である。裴世清一行は筑紫に派遣された難波吉士雄成に率いられて同年6月に難波津に到着し、難波津では飾船30艘が彼らを出迎えた。難波の高麗館の近くには、裴世清らを迎えるために新しく館が造られていた。
 同年8月3日、宮殿に向かうため海石榴市の術に到着した裴世清一行を飾騎75頭が出迎えた。同月12日に裴世清は小墾田宮に招かれ、朝庭で信物を献上して国書を読み上げた。裴世清らはその後一ヶ月あまり滞在し、9月5日に難波の大郡で饗応を受けた後、11日に第二回遣隋使らとともに帰国した。
 今回見て歩くのは、裴世清らを飾騎七五頭で出迎えた海石榴市から小墾田宮にいたる阿倍山田道。裴世清らを迎えた頃に阿倍山田道沿いに存在した遺跡を巡り、彼らが目にした景色を体感することを目的とする。」

海石榴市の南、隋使裴世清を出迎えた初瀬川川岸に並んだ飾騎
集合はJR万葉まほろば線三輪駅
参加者は159名
「万葉の四季彩」ラッピングカー
海石榴市
 「海石榴市は現在の桜井市金屋にあたり、金屋には今でも海柘榴市観音、海柘榴市地蔵がある。『万葉集』には「海石榴市の八十の衢」(巻第12-2951・3101)と詠われていることからわかるように、海石榴市は四通八達の交差点で交通の要衝にある市であった。また、『日本書紀』武烈即位前記には武烈天皇と平群臣鮪とが影媛を争った歌垣の場所としても登場する。さらに、海石榴市には敏達天皇の皇后である炊屋姫(のちの推古天皇)の宮(海石榴市宮)が営まれるなど(『日本書紀』用明元年5月条)、人々が行き交う場所であるとともに皇族の宮が造営されるような特殊な場所であった。
 裴世清等一行は難波館から大和川による水上交通によって海石榴市に到着したという見解が有力だが、陸上交通が利用されたという見解もある。裴世清等一行はこの海石榴市で多くの飾騎によって出迎えられ、小墾田宮へ向かうまでの10日間、海石榴市にある館に滞在したものと思われる。」


海柘榴市観音で説明を聞く。
海石榴市の南、初瀬川川岸に並んだ飾騎
城島遺跡
 「海石榴市の南に初瀬川と粟原川に挟まれて城島遺跡が位置する。磯城嶋には欽明天皇の磯城嶋金刺宮が営まれ、また、『日本書紀』推古17年10月8日に新羅使と任那使を迎えた阿斗河邊館が桜井市粟殿~外山にかけた初瀬川沿いにあったという説もある。『日本書紀』敏達12年条に百済の日羅を迎え入れた阿斗桑市の館が登場するが、この阿斗も粟殿~外山であったとすると磯城嶋付近にも海石榴市と同じように市と外交用施設が営まれていたということになる。
 城島遺跡では城島小学校建設にともなう調査で7間×3間の大型の西庇付建物1棟、3間×3間の倉庫とみられる総柱建物2棟、塀3条、大溝1条を検出している。これらの建物の造営方位はいずれも北で東に14度振れるもので、大型建物と総柱建物は柱筋が通っており、計画的な建物配置がうかがえる。大型建物の柱直径は30~40cmである。出土遺物から、6世紀末~7世紀前半頃の邸宅跡と考えられる。
 邸宅の時期から、万葉集にみられる大伴氏の跡見田庄との関連が考えられるとし、大伴氏一族にゆかりのある人々の居館と想定されている(桜井市文協1992)。」

写真上 城島小学校前で説明を聞く
写真下 桜井茶臼山を通過
谷遺跡
 「上ツ道の西側で上ツ道から阿倍山田道へと繋がるあたりに谷遺跡は位置する。済生会中和病院の増築等にともなう発掘調査で遺構が確認されている。
 一次調査では、7世紀初頭の鉄滓や鞴羽口が出土した溝や七世紀後半の4間×2間の掘立柱建物、塀、井戸を検出している(橿考研1983)。沼地からは5世紀後半から7世紀末にかけての遺物が出土しており、5世紀代の須恵器杯身に滑石製小玉、責金具、鹿角製柄頭などが入った状態で出土した。
 2、5次調査では、6世紀中頃~後半の碧玉を中心とする玉の未成品が出土しており、玉作工房の存在が想定されている。5次調査で検出された井戸には暗渠状の溝が取り付き、池状遺構へ流れ込んでいて、園池の可能性も考慮されている。また、6世紀末~7世紀初頭の竪穴住居も検出されており、玉作工房は住居群の西側に位置するものと想定されている(桜井市文協1994)。
 南側のシヨブ地区では、飛鳥時代(7世紀後半か)の土器とともにガラス玉鋳型が出土している(桜井市文協1991)。2次調査の北側に位置する12次調査では、5世紀末~6世紀前半の竪穴住居群を検出し、5次調査の東側に位置する13次調査では、6世紀末~7世紀初頭の塀や溝を検出している(桜井市文協1999)。
 14次調査では、鍛冶関連遺物(鞴羽口、炉壁、鉄滓など)が多量に出土した。丘陵上の玉作り、ガラス工房に対し鍛冶関連工房が存在していた。
 これらの調査成果から、一之坪(2、12次)で5世紀末~6世紀前半に住居群が造営され、その東の六之坪(5、13次)で六世紀末以降に豪族居館が造られたものと想定されている。」
安倍文殊院
文殊院西古墳
 「安倍文殊院の境内にあり特別史跡に指定されている。墳丘は削平が著しいが、直径約13.6m、高さ約6.6mの円墳と推測されている。横穴式石室は室町時代には開口していたようで、『菅笠日記』や『西国名所図会』によれば江戸時代には石室内に仏像を安置し、信仰の対象となっていた。石室は花崗岩の切石積で両袖式横穴式石室である。全長12.5m、玄室長約六㍍、同幅約2.9m、同現存高約2.8m、羨道長約7.4m、同幅約2m。石積みは玄室で五段に互い違いに積み上げており、羨道では巨石を一段に積んでいる。築造時期は七世紀後半と考えられる。」
文殊院東古墳
 「安倍文殊院の境内にあり、県史跡に指定されている。現在、閼伽井窟と呼ばれており、石室内に石仏が安置されて、石室内の井戸水で習字をすると上達するという民間信仰の対象になっている。石室内の井戸は元禄年間にはすでに存在していた。墳丘は変形が著しく、円墳なのか方墳なのかも定かではないが、直径15~18m、高さ5m程度の円墳という推測もされている。埋葬施設は横穴式石室で、全長13.0m、玄室長4.7m、同幅2.3m、同現存高2.6m、羨道長8.3m、同幅2m。石積みはほとんど加工していない自然石を玄室、羨道ともに2~3段に積む。築造時期は艸墓古墳よりも古い7世紀前半頃とみられている。」
谷首古墳
 「史跡阿倍寺跡の東約300mに位置し県の史跡に指定されている方墳である。墳丘規模は東西35m、南北38mと推測され、高さは8.2mが残る。埋葬施設は横穴式石室であり、玄室の長さは約六㍍、幅二・八㍍、高さ約四㍍、羨道の長さは約7.2m、幅1.7mである。玄室側壁の石積みは三石三段である。玄室内には石棺の存在を示す凝灰岩の細片がみられ、須恵器の細片が出土している。7世紀前半頃の造営と考えられている。」
艸墓古墳
 「国の史跡に指定された方墳で、阿倍文殊院の東側300mほどに位置する。南東にのびる丘陵を利用した南側二段築成の古墳である。埋葬施設は横穴式石室であり、表面を平滑にした巨石を用いて構築されている。羨道の一部に二段積みが見られる以外は一段で造られている。玄室側壁の石積みは二石一段である。玄室の長さは約4.5m、幅約2.7m、高さ約2m、羨道の長さは約8.7m、幅約1.9m。側壁と天井石の間には漆喰を充填している。玄室の中央には長さ約2.4m、幅約1.5mの大きな家形石棺が安置されている。7世紀中頃の造営と考えられている。」
コロコロ山古墳
 「六世紀後半に築造された一辺30m、高さ五㍍以上の方墳で、現在は移築保存されている。埋葬施設は横穴式石室であり、墳丘中央部に第一埋葬施設が、墳丘の東側に小石室の第二埋葬施設が設けられている。第一埋葬施設は全長11.0m、玄室長は5.35m、幅2.5mである。玄室側壁の石積みは四石四段と推測されている。玄室の床面は二層あり、当初の副葬品には金環やピンセット状の毛抜き、刀剣の金具などがある。玄室床面の上層には小礫が敷かれて釘を打ち込んだ木棺が二つ以上追葬されていた。土器の年代や和同開珎の出土から追葬の時期は7世紀中頃~八世紀前半と考えられる。第二埋葬施設は長さ1.8m、幅0.6m。出土土器から7世紀中頃に造営されたものと考えられている。また、墳丘外には7世紀末~8世紀初頭頃の木棺墓と土壙墓が8基存在する(桜井市教委1989)」
生田遺跡
 「県営圃場整備事業にともなって調査が行われ、弥生時代中期~後期の竪穴住居四棟、古墳時代前期2棟と中~後期2棟の竪穴住居とともに飛鳥時代の大型掘立柱建物一棟と総柱建物1棟、塀2条、区画溝1条が検出されている。大型掘立柱建物は6間×2間の母屋の南に庇が付く。柱間寸法は桁行、梁行ともに2.2mである。総柱建物は一部が検出されただけだが、大型掘立柱建物の東に柱筋を揃えるように並ぶ。建物の北側には塀二条と区画溝が配置されている。これらの飛鳥時代の遺構は豪族居館の一部であった可能性が指摘されている(橿考研2001)。
 生田遺跡の周辺には円墳からなる古墳群が分布しており、北西の勘定山と石堂山の古墳群、南の山田戒場様古墳群、ゴダ古墳群、オスゲ古墳群などからなる群集墳を形成している。5世紀後半から7世紀前半までの長期間にわたり築造された群集墳である。」

写真上 生田遺跡
写真下 勘定山古墳群
生田遺跡から三輪山を望む
生田遺跡から山田道を望む
山田寺跡
引計皇子神社(近飛鳥八釣宮跡)
近飛鳥八釣宮伝承地にある
第23代顕宗天皇を祀る引計皇子神社を通過
奥山久米寺跡
 「阿倍山田道の北側約200mに位置する飛鳥時代の寺院で、塔・金堂が一列に並ぶ四天王寺式の伽藍配置と推測されている(奈文研1990)。奈良時代には回廊内に瓦を敷いて整備された。推古朝に造営された小治田寺と推測されている。
 現奥山久米寺の本堂から南へ約130mの地点で、寺域南限と推定される東西塀三条と東西道路を検出している。東西道路は藤原京十一条大路と十二条条間路の中間に位置する。東西塀と東西道路の造営年代は7世紀中頃とみられ、東西道路は八世紀中頃まで機能していたものと考えられている。また、現本堂の南約170m、塔心礎から東へ65.5mの位置で寺域東限の可能性がある南北溝も検出されている(奈文研1978)。
 塔跡には礎石が十個残る。心礎位置には鎌倉時代の十三重石塔が立ち、四天柱礎石は礎石を立てるために中央寄りに移動している。塔の基壇は一辺約12mで基壇外装は残っていない。側通りの礎石はほぼ旧位置を保っており、基壇高は1.45mに復原できる。塔の造営は山田寺式軒瓦を用いた7世紀後半とみられ、基壇土に7世紀前半の瓦が多く含まれることから前身の建物が存在した可能性も指摘されている。
 塔基壇北辺から13m北に金堂が位置する。金堂基壇の規模は東西23.4m、南北19.2m(奈文研1988)。金堂の造営は塔に先行する七世紀前半と推定されている(奈文研1990)。
 講堂は金堂北の微高地に推定されており、講堂推定地に隣接して礎石が発見されている(奈文研1996)。」
阿倍山田道
 「石神遺跡第19次調査で検出された道路SF2607が阿倍山田道にあたる可能性が高い(奈文研2008)。道路SF2607の路面は、沼沢地SX4050を埋め立てたのちに基礎部分の水はけの悪い部分に枝葉を敷く敷葉工法を用いて盛土されている。造営時期は7世紀中頃であり、当初の北側溝は検出されておらず、南側溝SD4270のみが確認されている。南側溝は、7世紀後半には南側のSD4275に付け替えられ、藤原宮期には北からSD4280、4285の二条が並行するものに付け替えられている。藤原宮期の北側溝は山田道第二、三次調査で検出したSD2540であり、南側溝をSD4280とみた場合の路面幅は約18m、側溝心心間距離で21~22mである。」
「「城山」「上ノ山」と呼ばれる丘は「雷丘」の有力な候補であり、この「雷丘」東方に位置するのが雷丘東方遺跡である。「雷丘」は『日本霊異記』上巻第一話に「古京の少治田宮の北に在り」と説明されている。
 これまでの調査で、7世紀前半、7世紀後半、8世紀後半~9世紀中頃の3時期の遺構が確認されている(奈文研1971・1993・1994・1995)。このうち、8世紀後半~9世紀中頃の遺構は、一辺約1.7m四方の井戸SE01から「小治田宮」もしくは「小治田」と墨書された九世紀前半の土師器が12点出土したことから、小治田宮に関連する遺構群と考えられている(明日香村教委1988)。この「小治田宮」の北限と推定されている築地塀跡の基底部SX3130と内濠SD3131が検出されており、奈良時代の「小治田宮」の範囲は飛鳥川までの南北300m程度と推測されている。
 明日香村教育委員会による二次調査では、推古朝の園池遺構の護岸が検出されており、雷丘近辺に裴世清が迎えられた推古朝の小墾田宮が存在した可能性は高い。」

写真上 菜の花が咲く山田道
写真中 山田道から石神遺跡を望む
写真下 山田道から雷丘を望む
かつて小墾田の宮跡とされた古宮土壇
後方に畝傍山