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鴨山口神社(櫛羅銅鐸出土地付近)→名柄銅鐸出土地→鴨都波遺跡(鴨都波神社)→近鉄電車御所駅


 「 」は会報から引用
 「『銅鐸出土地をめぐる』は、展示室で観ることの多い銅鐸を出土地から検討するシリーズです。今回は第四弾です。第一弾で訪れた奈良盆地東部の斜め向かいにあたる奈良盆地南西部から出土した銅鐸の出土地点・発見地点をめぐります。
 奈良県内から出土した、あるいは出土したと伝えられる銅鐸は二九件三一点あります。二〇〇九年に私(北井氏)が企画しました「銅鐸-弥生時代の青銅器生産-」の図録に掲載した奈良県出土銅鐸集成を加筆・修正したものを六頁に掲載しました。この一覧は二〇一四年一一月二〇日に作成したものですから一二月例会までに新たに発見されることがあれば当日お伝えします。
 この集成表をみますと、奈良県内からは現在二九件三一点の銅鐸が出土、確認されていますが出土・発見地点をみると、その多くが奈良盆地に集中しています。ただし、盆地中央部ではなく、盆地縁辺部の山麓部分に偏ります。この分布の偏りについて今回の例会で検討します。また、今回は訪れませんが、奈良県内では奈良盆地のほかに、吉野川流域でも三点の銅鐸が出土・発見されています。吉野川流域から出土・発見される銅鐸の傾向から奈良盆地南西部の銅鐸についても考えていきます。」

集合:近鉄御所線「近鉄御所」駅10時
「今回訪れる葛城山・金剛山麓には北から上牧銅鐸、櫛羅銅鐸、名柄銅鐸と銅鐸が発見されています。櫛羅銅鐸と上牧銅鐸の中間地点の葛城市竹内に弥生時代の大集落である竹内遺跡があります。集落との関係を推定するならば、竹内遺跡の西側のどこかに銅鐸が埋納されている可能性が高いと推定できます。奈良盆地の東側では山町早田銅鐸、高瀬川出土銅鐸、石上銅鐸、竹内銅鐸と一定の間隔で銅鐸が出土しています。こうした状況は葛城・金剛山麓においても同様と考えられます。」




鴨山口神社へ向かう途中、二上山を眺め説明を聞く
櫛羅銅鐸出土地点
  「本鐸は昭和二五年に、鴨山口神社東方から出土したとされます。出土後、御所高等学校に寄託されますが火災にあい、その後所在不明となっています。
 この銅鐸は「銅鐸」展開催後、銅鐸を研究されておられる豊中歴史同好会の野田昌夫氏から奈良県出土銅鐸集成表から漏れ落ちているとご教示いただいた銅鐸です。本鐸を確認し、野田氏に相談された同会の津島隆治氏が会報誌『つどい』に「銅鐸をみつけました」という小文を投稿されております。

「銅鐸をみつけました」 豊中歴史同好会

この中には、奈良県史で銅鐸を確認した経緯、各氏の銅鐸集成表に本鐸が漏れ落ちていることへの疑問、そして野田氏による本鐸の確認調査の成果について書かれています。これらの内容にふれる前に奈良県史に掲載されている内容について整理します。掲載書は『奈良県史』第十四巻地名(地名伝承の研究 一九八五年刊行)です。出土場所・出土状況、発見者の氏名などのメモと銅鐸のスケッチが掲載されております。掲載された図に書かれた内容は次のとおりです。

御所市大字櫛羅小字高間田
地下一尺
 昭和二十五年 横になって出土

(スケッチ)

青銅       御所大正郵便局長
高四十センチ~五十センチ 田中幸弘

 メモには①出土地の住所、②発見した年、③出土状況、④スケッチ、⑤材質、⑥法量、⑦発見者の職業と氏名が記載されています。出土地・出土状況・法量・スケッチの具体性から御所市櫛羅で銅鐸が発見されたことは間違いないと考えられます。
 次に掲載されているスケッチをみると、次の四点に注目できます。
①全体が描かれていること。
②鐸身中央部に横帯文が描かれていること。
③鐸身部左下側に三人の「人」が描かれていること。
④ヒレの表現がないこと。
まず①から破片として出土したものではないことがわかります。②の横帯文は現在発見されている他の銅鐸の文様にもみられるものです。水平方向の横帯文だけで、垂直方向には描かれていません。名柄銅鐸同様二区横帯文とも考えられます。本鐸の横帯文はスケッチから斜格子文で充填されていたことがわかります。③の絵画ですが、現在見つかっている銅鐸約五百点のうち、約五十点で絵画が確認されていますが、「人」が並んで表現されたものは確認されておりません。④は銅鐸の型式で考えると菱環鈕式となります。しかし、メモ書きに「高四十センチ~五十センチ」とあることからこの可能性は限りなく低くなります。おそらく、ヒレが全く残っていなかったのか、ヒレと鐸身部を一体で表現したものと思われます。後者の可能性が高いでしょう。
 現品が確認できない今となってはこのメモとスケッチから銅鐸の型式を考える必要があります。高さ四十~五十センチということから菱環鈕式の可能性はなくなります。総高が一〇〇㎝を超えるものが多い突線鈕三~五式の可能性も低くなります。法量と絵画の存在から外縁付鈕式から扁平鈕式と推定されます。
 次に野田氏の追跡調査についてふれます。野田氏は発見者の「田中幸弘」氏を探しだし、話を伺おうとしましたが寝たきりであったことからご子息に話を聞かれました。ご子息によると、田中幸弘氏が御所高校三年の時に自宅裏の畑を耕していた際に銅鐸を発見し、高校の歴史の先生に預けたが、昭和三三年に御所高校が火事にあい、行方不明となったということであった。ご子息は、田中幸弘氏が郵便局長の職にあったのは後年のことであることから、局長時代に当時のことを思い出しながら描いたものだろうと推測されています。奈良県史第十四巻の執筆者である池田末則氏に野田氏が話を聞いた際に、田中幸弘氏が目の前でこの絵を描かれたことからこの銅鐸について事実と感じた、と言われたとあることからもご子息の推測された通りでした。こうして野田氏によって『奈良県史』のメモとスケッチの書かれた経緯がわかりました。改めてメモをみると、先ほどあげた注目すべき点の④のヒレ表現がない点については、後年になって当時のことを思い出しながら描いたことによる情報の欠落と考えられます。鐸身部分の文様表現がない点も、現物を目の前にして描いていないことによるものと考えられます。「人」の絵画はよほど強く印象に残っていたのでしょう。
 田中幸弘氏の自筆メモとそこに記載された詳細な情報、関係者の証言などから御所市大字櫛羅小字高間田から銅鐸が出土した可能性は高いと考え、「櫛羅銅鐸」として奈良県内出土・発見銅鐸の集成に加えました。
 次に、櫛羅銅鐸の出土した地点と周辺遺跡の関係についてみていきましょう。本鐸の出土した地点は鴨都波遺跡の西約二㎞の地点にあたります。柳田川と葛城川の合流地点の西側、鴨都波神社を中心に拡がる鴨都波遺跡は弥生時代前期から後期にかけて継続する集落です。本鐸の出土地の詳細は特定できませんが、「大字櫛羅小字高間田」という地名から御所市鴨山口神社の東方付近とわかります。この辺りの地形は葛城山麓から東にのびる尾根上に位置し、南・北を谷に挟まれています。南側には柳田川が流れています。尾根を東側に下ると柳田川の対岸に鴨都波遺跡がみえてきます。本鐸は鴨都波遺跡で生活していた人々によって埋納されたと想定されます。」

 鴨山口神社 鳥居
 鴨山口神社で説明を聞く
 鴨山口神社 社殿
 鴨山口神社東方の畑


九品寺から葛城古道を行く。
途中綏靖天皇高丘宮跡の碑を通過。
一言主神社を目指す。
一言主神社
昼食 休憩
長柄遺跡
長柄遺跡
名柄銅鐸・銅鏡出土地点
「本鐸・鏡は御所市名柄字田中(大和国南葛城郡吐田郷村大字名柄字田中)から一九一八(大正七)年五月五日、溜池工事中に偶然出土しました。出土した場所は、葛城山と金剛山とを区分する水越峠の東口にあたる、東にのびた台地の東北端に近い標高一七六m前後の地点にあたります。鏡の出土状況は、当時の地表から約七十㎝前後の土砂の中から鏡面を上にして、ほぼ水平に置かれた状態でした。さらにこの鏡の南方約三十㎝の同じ土層中から鈕部を西に、鐸身を東に向けた状態で銅鐸が発見されました。銅鐸と多鈕細文鏡がほぼ一緒に出土したということで注目されました。
 出土した銅鐸は総高二三㎝、鐸身一七・一㎝、裾径一一・七㎝×七・九㎝、重量七九四gで、A面には二区流水文が、B面には二区横帯文が描かれていました。その特徴から、外縁付鈕一式に分類されます。同じく出土した多鈕細文鏡は、直径一五・六㎝で、鏡背部に二つの鈕がつけられています。一部欠損している部分は発見時の鶴嘴によるものです。鏡背面の文様は、縁近くの鋸歯文は鮮明に残っていますが、中央部の文様は手ずれのためか摩滅しています。縁は、断面かまぼこ形をしています。
 この「多鈕細文鏡」という名称は、奈良県桜井市出身の考古学者である森本六爾氏により命名されました。弥生時代前期末から中期にかけて朝鮮半島からもたらされたもので、日本列島内での出土は少なく、現在十面出土しています。佐賀・福岡・山口県内で計七面、大阪府・奈良県内から各一面、長野県内から垂飾に転用された破片が一点出土しています。
 名柄銅鐸・銅鏡が出土した当時、奈良県桜井市出身の考古学者である森本六爾氏が現地を訪れています。その際に撮影されたのが上の写真で、森本六爾氏の遺品の中に残されていたガラス乾板写真の一枚です。ガラス乾板写真には撮影内容を示す記録がなかったため、この写真がどこを写したものかはっきりしませんでした。ガラス乾板写真の中にはこの写真と共に大阪府柏原市大縣の多鈕細文鏡出土地の写真が残されていました。森本六爾氏は昭和二年に「多鈕細文鏡考」という論文を発表されています。この論文の中には大縣出土の多鈕細文鏡にもふれられています。大縣の写真はこの論文を執筆するために現地を訪れ、聞き取り調査をした際に撮影したことがわかりました。そこで、改めて上の写真を見直すと、山の斜面から平地部を見下ろすように撮られたもので、中央付近に独立した山が写っています。畝傍山です。論文執筆にあたり柏原市大縣を訪れていることからこの写真も同じ多鈕細文鏡の出土した名柄の地を訪れ、撮影したものと考えられました。現地を訪れることの重要性をこの写真は物語っています。」


出土地を東から撮影

出土地から東を撮影
長柄小学校の校舎と森が同じように並ぶ
鴨都波遺跡
「次に、銅鐸を埋納した集団を推定するために奈良盆地の南側に位置する吉野川流域の状況をみていきます。本例会では現地を見学しませんが、名柄銅鐸出土地点の隣接地域でもありますので、検討対象とします。
 吉野川流域で現在確認されている銅鐸は三点あります。五條市火打野銅鐸、滝銅鐸、伝佐名伝銅鐸です。いずれも出土地・発見地の周辺に弥生時代の同時期の集落を認められます。奈良盆地では銅鐸を埋納した集団を特定するのは困難ですが、吉野川流域では銅鐸発見地点に対応するように集落が認められます。安易に関係性を指摘するのはよくありませんが、集落の隣接地から発見されていることからこれらの銅鐸は各集落でそれぞれ使用され、埋納されたものと考えられます。
 吉野川流域で確認したように銅鐸出土地と集落の関係を認めるのであれば、今回の例会で訪れる櫛羅銅鐸も鴨都波遺跡との関係を想定できます。名柄銅鐸は現在のところ相当する遺跡は不明ですが、今後周辺地域で集落遺跡がみつかる可能性があります。」


鴨都波遺跡(鴨都波神社)
撮影協力 坂部征彦