近鉄南大阪線壷阪山駅→光永寺の人頭石→誕生釈迦仏出土地→ホラント遺跡→高取城の猿石→史跡高取城跡→香高山磨崖仏(五百羅漢)→安佐寺伝承地→馬佐蔵坂遺跡→比蘇寺→柳の渡→六田駅
藤原道長大峰参詣道を歩く 「道長は、寛弘4(1007)年、道長は御岳詣(金峯山登拝)を敢行した。道長の日記(『御堂関白記』)によれば、道長は8月2日早朝に平安京を出発。男山で奉賽し、宇治市広野町付近泊。3日は大安寺、4日は井外堂(天理市二階堂?)、5日は軽寺(橿原市大軽町)に宿泊。6日は壺阪寺泊。7日、壺阪寺を出発し、観覚寺に立ち寄り、その後現光寺(比蘇寺)を経由して野際(吉野町六田付近)泊。8日は雨天・逗留。9日は祇園(吉野山百丁茶屋付近)泊。10日、金峯山登頂を果たし山頂泊。11日に山頂で盛大な法要を挙行し、経筒を埋納。その後下山し、祇園泊。12日は祇園を出発した後、吉野山金照坊に立ち寄り、野際を経由して水辺(位置不明)に到る。そして、14日に平安京へ帰着した。」 「道長はこの道中不可解な行動をとる。壺阪寺に一泊後、通常であればそのまま吉野側へ下り現光寺を目指すはずであるが、なぜか再び道を引き返し、わざわざ観覚寺に立ち寄っている。」 「藤原道長が子島寺(観覚寺)へ立ち寄った理由 道長がわざわざ子島寺(観覚寺)に立ち寄った理由は ①真興の供養 ②亡き真興の霊に金峯山登拝安全祈願 ③金胎両界曼荼羅に長女彰子の男子(皇子)御懐妊祈願であったと思われる。 理由①について、真興は長保5(1003)年に行われた維摩会の講師を勤め、その際道長に優礼されている。つまり、観覚寺の開祖真興は、生前道長と親交があった。その真興は、道長御岳詣の二年前に観覚寺にて遷化している。 ②について、真興は吉野山で仁賀上人から真言密教の奥義を伝授されている。金峯山(大峰山・山上ヶ岳)は、役行者によって蔵王権現が湧出されたという修験道の聖地であり、道長は真興から金峯山についての情報を得ていた可能性が高い。 ③について、道長の長女彰子は、長保元(999)年に一条天皇に入内し翌年中宮となっていた。観覚寺には一条天皇から真興に下賜された金胎両界曼荼羅が所蔵されており、空海が唐から将来した霊験あらたかな曼荼羅を拝むことで、長女彰子の男子(皇子)御懐妊を祈願したことは十分考えられる。 ちなみに、金峯山上での法要では ①中宮彰子の男子(皇子)御懐妊祈願 ②厄除け祈願(道長は33歳の時大病を患い御岳詣発念。42歳の厄年に合わせて御岳詣挙行した)、 ③施福延命祈願(金峯山に埋納された経筒には「増長福禄」「以子孫繁昌為願」の文字が刻まれている)がおこなわれた。」 | |
壺阪山駅 | |
![]() | 昭和58年10月16日、「壺坂越え 吉野への道」以来、31年ぶりのコース。高取町上子島から高取城を経由して六田まで行程約16㎞、健脚向き。 集まった会員は99名。 おりしも天皇陛下が奈良県を訪問中。壺阪山駅交差点で陛下の車列を見送って例会スタート。 |
光永寺の人頭石 | |
![]() | 「壺阪山駅から国道を横切り土佐街道との交差点を左折して暫く進むと光永寺がある。門をくぐって右手、こぢんまりとした境内の片隅に大きな花崗岩(高さ103㎝・幅80㎝・厚さ110㎝)がある。門側からみるとただの自然石にしか見えないが、裏側に回って側面を見ると目・鼻・耳・口が彫られている。面相は異国の情緒が漂い、吉備姫王墓に鎮座する4体の猿石と同様、飛鳥時代の石像物の一つと考えられる。頭頂部に穴が穿たれ、後世手水鉢に転用されたようだ。この寺に伝えられた由来は不詳である。」 |
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土佐街並み | |
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![]() | 下屋敷の門が移築されている石川医院 |
![]() | 「四天王寺に所蔵されている銅造誕生釈迦仏立像(7・8世紀)は、明治8(1875)年に元高取藩家老林家の敷地内(現高取幼稚園)から出土した。像高8.6㎝。誕生仏は右手を挙げる姿態のものが多いが、この仏像は珍しく左手を挙げ、人差し指と中指を伸ばしている。頭部の肉髻から台座下のまで一鋳で造られ、裳の一部に僅かに鍍金の痕跡がある。」 写真上 高取城松ノ門 復元 写真下 銅造誕生釈迦仏立像出土地東側公園で解説を聞く |
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ホラント遺跡 | |
遺跡は、高市郡明日香村阿部山・同郡高取町上子島の二つの行政区にまたがって所在する。平成14(2002)年、ふるさと農道緊急整備事業に伴う事前調査で発見された。 農道南側の2区では石敷遺構、基壇遺構などが検出された。 北側の4区では石敷遺構、掘立柱建物、布掘遺構(柱穴の底に水平に溝をほり、枕木を埋める沈下防止機構)などが検出された。 ホラント遺跡で検出された飛鳥時代の石敷遺構の性格については、何らかの公的施設または有力豪族の邸宅の可能性が指摘されている。また布掘遺構は大壁建物と考えられ、朝鮮半島系渡来人との関連が想定されている。 | |
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北側4区 | 南側2区 遺跡を地下に保護するため農道は山なり。 |
![]() | 火薬倉が移設された思われる建物が 砂防公園の北側民家にある |
![]() | 高取城 黒門から七曲りにかかる |
![]() | 高取城 一升坂 |
猿石 | |
高取城下町から黒門を過ぎ、一升坂を登り切った二の門の手前、明日香村栢森へと下るルートとの分岐に鎮座している。高さ85㎝・幅73㎝・厚さ六68㎝。飛鳥時代の石像物の一つと考えられるが、高取城に運ばれた由来は不詳。猿石が乗る台座は方形の切石で、古墳の石材を転用しているようである。 | |
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高取城 | |
「標高583・9mの高取山山頂に築かれた山城で、平地との比高が日本一高い(400m以上)天険の要害である。高取山の東西に連なる山並みは、奈良盆地と吉野川との分水嶺であり、本丸からは奈良盆地と吉野川流域を見下ろすことができる。江戸時代初期、一国一城令が施行された後も大和国には郡山城と高取城の二城が存在したが、これは天領の南の守護の要(詰城)として高取城が残されたためだという。 高取城の沿革は南北朝時代に遡り、南朝方に与した越智氏によって築かれたとされる。越智氏の高取城は、いわゆる「カキ上げ城」で、尾根上に数段の郭(平場)と斜面に掘割を設けた簡単なもので、石垣は築かれなかった。戦国時代、越智氏は没落し、天正13(1585)年8月に脇坂安治(賤ヶ岳七本槍の一人)が、10月には本多政武が入城した。現在の城郭の築城は、本多氏からとされる。寛永14(1637)年、本多氏が没落し、代わって寛永17(1640)年に徳川譜代大名の植村家政が入城し、以来幕末まで植村氏が高取藩主を継いだ。高取藩の知行高は僅か2万5千石、これに城付近の山林等を5千石と見積もられ、都合3万石であったが、にもかかわらず壮大な城郭を維持できたのは、(雨が多く常に城郭の補修が必要との理由から)普請御免の許可を幕府から得ていたためだという。 高取城は、岩屋郭・赤土郭・八幡郭・橫垣郭・別所郭など山中のすべての郭を含んだ広義の郭内と二の門・壺坂口門・吉野口門で囲まれた狭義の城内からなる。郭内は周囲約30㎞・面積約6万㎡、城内は周囲約3㎞・面積約1万㎡の規模を有し、往時は三層の天守と小天守、27の櫓(含多門櫓5)、33の門、土塀2.9㎞、石垣3.6㎞、橋梁9、堀切5ヶ所を有していた。江戸時代に詠まれた歌に「巽高取 雪かと見れば 雪でござらぬ 土佐の城」があり、その威容を今に伝えている。また、別名芙蓉城の所以でもある。 なお、石垣修理の際に、古墳の石室や寺院の基壇石などが転用されていることが確認されている。」 (堅固な城にもかかわらず戦乱に巻き込まれたことがなく、唯一幕末に天誅組に攻撃されたが、少数の藩兵の砲撃で撃退している。高取町役場付近が鳥ケ峰古戦場) | |
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松の門を通過 | |
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大手門を通る | 二の丸に向かう |
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二の丸 | 本丸で昼食 |
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天守閣を望む | 天守閣 |
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二の丸のもみじ | 天守閣から二の丸 |
香高山 | |
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「壺阪寺の東側の谷を隔てて東方、直線距離で約500mの南面する山の斜面の露岩面に多数の磨崖仏が彫られている。香高山は壺阪寺奥の院と称される。磨崖仏の主な種類は、五百羅漢・釈迦・十一面観音・五社明神・両部曼荼羅などである。磨崖仏の年代は不詳であるが、壺阪寺に残る文書から室町時代には存在していたという。」 | ![]() |
安佐寺伝承地 | |
「壺坂峠から沢沿いに1.8㎞ほど下ると視界の開けた場所に出る。大淀町田口の集落である。この壺阪寺から田口に通じる現道は、明治二十三年頃軍用材切り出しを目的として敷設されたもので、古道は現道西側の尾根筋を通っていたという。延久2(1070)年の『興福寺雑役免西諸郡』の「吉野郡」に「田口庄九町四段百廿歩…」の記載があり、吉野郡で興福寺領の坪付けが明記された唯一の史料である。この史料から田口集落が平安時代中期には開けていたことが分かる。ところで、吉野町山口の西蓮寺に安置されている丈六の木造阿弥陀如来坐像(平安時代作、像高260.5㎝)の胎内には多数の墨書があり、その中に西蓮寺中興の還誉上人が、江戸初期、神告によって「馬佐安佐谷」からこの仏像を当寺に移安したという記述があるという。明治五年頃廃寺になるまで、田口には「安産寺」があり安産祈願の信仰を集めた。沢沿いには、現在も「安産の滝」があり、この谷間を古く安佐谷と呼び、寺を安佐寺と称したようだ。後世、「アサ」が転訛し「アンザン」となり、安産信仰が生まれたのだろう。現在寺の所在は不詳である。田口は、壺坂峠と比曽寺を結ぶルートの中間にあり、道長は壺坂峠を下ったこの地で休憩を取ったのかもしれない。因みに興福寺は藤原氏の氏寺であり、この地に興福寺領が置かれたのも道長の御岳詣と関係するのかもしれない。」 写真上 安産の滝 写真下 伝承地付近 | ![]() |
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馬佐蔵坂遺跡 | |
![]() | 平成4(1992)年、木材工業団地造成に伴い馬佐蔵坂遺跡が発掘調査された。この調査で田口集落から馬佐集落へ至る旧道西側尾根の南斜面で平安時代の火葬墓一基が検出された。火葬墓は、斜面を断面L字形にカットした平坦面に土師器甕を利用した蔵骨器を納めたものであった。平坦面は、長辺5.4m、短辺3mの不整形な平面形を呈し、背面カットの高さは60㎝を測る。臓骨器は、平坦面の中央の北東寄りに掘られた径二五㎝、深さ15㎝の穴に置かれ、炭を多く含む土で埋められていた。蔵骨器は口径16.2㎝、器高19.4㎝を測り、完形。内部から骨片・焼土・炭が検出された。平安時代の所産と考えられ、安佐寺の関係者の墓であったのかもしれない。 |
比蘇寺 | |
「現在は霊鷲山世尊寺という曹洞宗の寺院。他に吉野寺・現光寺・栗天奉寺とも呼ばれた。寺伝によれば聖徳太子創建という。『日本書紀』欽明天皇14年5月条に、「茅渟の海中で梵鐘の音がし、雷鳴の如くであった。また、太陽のように光り輝いていた。天皇が溝辺直に調べさせたところ、樟が浮かんでいた。天皇は画工に命じて、この樟で2体の仏像を作らせた。今、吉野寺に安置されている光を放つ樟の仏像がそれである」という記述があり、『日本書紀』編纂以前に存在した寺院である。また、寺域内からは単弁八葉蓮華文軒丸瓦や複弁八葉蓮華文軒丸瓦が採取されており、創建が飛鳥時代に遡る可能性の高い寺院の一つである。 『扶桑略記』「延暦僧録」によれば、天平元(729)年、小僧都に任ぜられた神叡は、20年間にわたって現光寺に籠もり自然智を得たという(自然智宗)。また、天平8(736)年に来朝した唐僧道も、晩年比蘇寺で余生を送ったという(「道和上伝纂」)。平安時代前期には、大峰修験中興の祖である聖宝理源大師が現光寺に弥勒菩薩像と地蔵菩薩像を納めたという(『聖宝僧正伝』)。これらの名僧のほか、清和・陽成・宇陀・後醍醐の各天皇や藤原道長を初めとする貴族たちもこの寺を訪れた。 寺域内に残る礎石から伽藍は、大門・東西両塔・中門・金堂・講堂の順で南北に配置されていた。礎石は、大門跡に六基、東塔跡に15基、西塔跡に14基、金堂跡に7基が確認されている。講堂については、本堂の周辺に20基、本堂床下に5基、廊下に2基、計27基が確認されている。なお寺伝によれば、東塔は聖徳太子が用明天皇のために、西塔は推古天皇が敏達天皇のために建立したという。また、東塔(三重塔)は、文禄3(1594)年、豊臣秀吉によって伏見城に移築され、さらに慶長6(1601)年には、徳川家康によって近江の園城寺(三井寺)に移建され、現存する。」 | |
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南門 | 東塔跡で説明を聞く |
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西塔礎石 | 東塔礎石 |
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本堂前の礎石 | 本堂裏の礎石 |
柳の渡 | |
「吉野川には、六つの渡があったと言われ、なかでも六田の柳の渡は、大峰修験中興の祖とされる聖宝理源大師が設けたものと伝えられる。また、大峰奥駆七十五靡(行場)の一つにも数えられている。現在は石灯籠と柳の木が往事を忍ばせるが、実際の渡は現在の位置より上流80メートルの地点にあったようだ。道長もここから舟で対岸へ渡り、金峯山上を目指したのであろう。」 | |
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柳の渡から吉野川上流 | 石灯籠と柳の木 |