宝来山古墳→富雄丸山古墳→追分本陣村井家住宅→美努岡萬墓→忍性墓→行基墓→竹林寺古墳
暗越奈良街道をゆく (奈良~生駒編) 「一般的に「暗越奈良街道」と呼ばれる国道308号線は、大阪から生駒山の暗峠を越え、矢田丘陵を越えて奈良に至る道で、数ある奈良街道、伊勢参宮街道の一つです。江戸時代に奈良奉行所与力、玉井定時が著した『庁中漫録』には「闇暗越大坂道(中略)是奈良郡山ヨリ大坂ヘ参候道筋」とあり、また奈良市大和田町追分に立つ天保7年(1836)銘の道標には「右大坂道 左こほり山道」とあり、奈良側から見れば「暗越大坂街道」と呼ぶことのできる街道です。 この街道は江戸時代に整備が進み、奈良見物やお伊勢参りの往来で賑わいましたが、始めに設置されたのは奈良時代であるとする見方もあります。今回はそれよりも更に遡り、宝来山古墳、富雄丸山古墳、竹林寺古墳のあり方から、道が最初に開かれたのは古墳時代前期後半、4世紀中葉頃ではないかとの仮説を立て、それらの古墳の立地状況を確認しながら歩きます。また、通りすがりにある遺跡や建造物も見学していきます。」 | |
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小栗明彦先生の初めての例会。参加者は156名。 奈良盆地から西へ西ノ京丘陵を越えて、富雄谷を横切り、更に矢田丘陵を越えて生駒谷に入る。 | |
>宝来山古墳 | |
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「奈良市尼辻西町に所在します。西ノ京丘陵の東側に立地し、前方部を南に向ける大型前方後円墳です。墳丘は全長227m、後円部直径123mで、3段築成です。鍵穴形の周濠をもちますが、南東側は明治時代に外堤の一部が東へ拡張されて変形し、田道間守墓が新設されています。古墳周辺には直径40mの大型円墳である兵庫山古墳(陪冢い号)をはじめとして、陪冢がいくつか存在します。 嘉永2年(1849)9月に主体部が盗掘された記録があります。「東南方」を「幅深サトモ6尺計」を掘り下げたところ、棺身の長さ1.8m、幅90㎝、高さ90㎝、棺蓋の長さ2.1m、幅90㎝の石棺が現れたようです。石棺は「同覆ハ亀之形ニ相成」とあることから、長持形石棺と考えられます。また、嘉永年間に銅鏡が発掘され、奈良奉行梶田備中守から関白へ献上されたと伝えられています。」 | |
「平成23年(2011)秋、陵墓管理委員の現地視察にそなえて、巡回路の落葉を送風機で除去していたところ埴輪が多数確認され、869点が採集されました。採集された埴輪の種類には円筒形、鰭付円筒形、朝顔形、家形、蓋形、盾形、靫形があります。埴輪の時期は4世紀中葉(円筒埴輪編年のⅡ期)です。」 後円部西側で説明を聞く。 | ![]() |
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奈良街道は富雄川を渡る。 | ![]() |
赤米の田 | ![]() |
富雄丸山古墳 | |
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富雄川河川敷から見る富雄丸山古墳墳丘 林の後方 | |
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![]() | 墳丘は柵に囲まれ、木が茂り、よく見えない。 |
「奈良市丸山一丁目に所在します。矢田丘陵から東に派生する尾根の先端で、富雄川をすぐ見下ろす尾根上に立地する大型円墳です。墳丘の直径86m、高さ10mで、2段築成です。墳丘裾部周辺では、川原石を用いた葺石や埴輪片が見られたようです。」 「昭和46年(1971)、東急不動産によって大和田団地造成が計画されました。富雄丸山古墳は直径100mの範囲で保存されることとなり、翌年、既に大きく盗掘を受けていた主体部が発掘調査されました。 主体部は2段に掘り込まれた墓壙内に築かれた粘土槨で、主軸を南北にとっています。墓壙は上面が南北10.6m、東西6・4m、深さが1.4mの規模です。墓壙底には壙壁に沿って4周に溝がめぐり、しみ込んだ水を東南隅に造られた排水溝に集める構造になっています。壁溝および墓壙底全面に墓壙底から約20㎝の厚さで円礫を敷きつめ、更にその上に良質な灰白色粘土を敷きつめ、粘土棺床を造っています。粘土の残存状態から割竹形木棺が置かれたと思われ、木棺の長さは6.9m以下です。 発掘調査で出土した主体部に伴うと思われる遺物は、管玉5点、鏃形石製品1点、鍬形石片1点、短甲残欠、鉄剣76破片、鉄刀27破片、鉄鏃26破片、鉄鑓若干、斧1点、鋸形鉄製品1点、錐・鑿形鉄製品9点、鍬先2点、ヤス16破片、鎌1点、刀子3点、巴形銅器1点、筒形銅製品1点、銅鏃9点、不明銅製品1点があります。 このほか富雄丸山古墳出土品としては、明治末年出土と伝えられ昭和32年2月に重要文化財に指定された守屋孝蔵氏旧蔵品で、現在京都国立博物館所蔵品となっている「大和国奈良市富雄町丸山古墳出土品」の1群があります。指定当時は出土地についての積極的な根拠をもたなかったものの、鍬形石の一つが発掘調査で出土した鍬形石片と接合したことによって、それらが富雄丸山古墳出土品でほぼ間違いないことになりました。京都国立博物館所蔵品には斧頭形石製品9点、刀子形石製品6点、鑿形石製品1点、鑓鉋形石製品1点、鍬形石2点、琴柱形石製品12点、碧玉合子2点、碧玉管玉17点、有鉤釧形銅製品1点、銅板2点があります。ほかにも守屋孝蔵氏旧蔵品で、現在天理参考館所蔵品となっている銅鏡3面があります。それらは3角縁4神4獣鏡、3角縁5神4獣鏡、3角縁画像文帯盤龍鏡です。 また、発掘調査では埴輪も出土しています。埴輪の種類には円筒形、鰭付円筒形、朝顔形、家形、蓋形、盾形、草摺形があります。埴輪の時期は4世紀中葉(円筒埴輪編年のⅡ期)です。」 | |
追分本陣村井家住宅 | |
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「奈良市大和田町に所在します。昭和59年(1984)3月に奈良市指定文化財にされました。村井家住宅は奈良街道沿いにあり、奈良市内では珍しい宿場建築として貴重です。ここが大和郡山への分岐点であるために、追分の本陣と呼ばれています。 街道に面して草葺き大和棟の主屋が北向きにたち、その東に続いて棟門があります。門を入ると、主屋の南東隅に接して瓦葺きの別棟座敷があります。主屋は向かって右が土間と板間、左に4間どりの畳敷の部屋をとります。部屋の前面が幅狭の前土間となり、前土間の表構えは元は全面開放できたものと見られます。別棟座敷は間口2間の式台構えのある玄関が付き、控の間付きの上段座敷に続きます。座敷は床の間・書院付きです。主屋との続きの間から別棟座敷へは、1段床が上がっています。さらに座敷と控の間とも、1段高くされています。主屋は一般の旅人、別棟は大名や小名、役人の使用にあてたものと思われます。 建築年代は確認できていませんが、19世紀初め(文化・文政年間)頃と思われます。」 | ![]() |
![]() 追分本陣西方にある追分神社 | |
矢田山遊びの森(昼休憩) | ![]() |
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矢田丘陵を抜け生駒谷に入ると視界が開ける。 竜田川(生駒川・平群川)を渡り生駒山側へ向かう。 | ![]() |
美努岡萬墓 | |
「生駒市青山台に所在します。奈良時代の官人、美努岡萬の火葬墓で、生駒山から東へ派生する尾根の先端に立地します。昭和60年(1985)3月に奈良県指定史跡となりました。 明治5年(1872)11月、地元の青年萩本忠平氏が自宅の竈の塗土を採取しようとして、銅製の墓誌を偶然発見しました。その後、明治9年12月に墓誌の模造品が作られ、墓誌が出土したとされる位置に埋められました。明治11年(1878)7月には当時の堺県令、税所篤氏によって、その場所に石碑が建てられました。昭和59年(1984)、石碑の場所が宅地開発の波にさらされるに伴い、保存問題に対処するために、生駒市教育委員会と橿原考古学研究所が発掘調査を行いました。 調査は石碑とその台をクレーンで移動させて行いました。40㎝×30㎝の浅い土坑の中に、木箱に入れられて真綿で包まれた、明治9年12月銘の模造墓誌が埋められていました。更にその下に30㎝×24㎝の範囲に、深さ10㎝の掘り込みがあり、砂質土に混じって40数片の人骨片が含まれていました。人骨はいずれも3㎝以下の小破片で、火を受けていました。性別、年齢は不明ですが、成人骨と判定されています。周囲の堆積土から木炭片が比較的多く出土しました。墓の構造は、竪穴の土坑内に火葬骨を納めた木櫃などの有機質の骨蔵器を安置して墓誌を添え、木炭で覆い、封土を積み上げた、一般的な火葬墓と考えられます。この発掘調査によって、明治11年の石碑が建てられていた場所が、墓誌が出土した地点であることが、ほぼ確定しました。」 | ![]() |
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「墓誌は昭和30年(1955)6月に重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されています。縦29・7㎝、横20・9㎝、厚さ3㎜の鍛造の銅板に縦横の罫線を引き、一行17字、全11行にわたって銘文を刻んだものです。 美努岡萬は、『続日本紀』霊亀2年(716)正月壬午条に従5位下に叙せられたと見える美努連岡麻呂に当たります。岡萬は死亡年から換算すると、天智元年(662)の生まれで、23歳の時に連姓を賜ります。文武天皇の大宝元年(701)、40歳の時に遣唐使の一員として唐に渡ります。その後、無事帰国し、元正天皇の霊亀2年(716)正月、55歳の時に従5位下となって、宮内省主殿寮の長官に任ぜられました。神亀5年(728)、67歳で死去しました。墓誌が作られたのは天平2年(730)です。」 | ![]() |
忍性墓 | |
「生駒市有里町竹林寺境内の西の奥まったところ、歴代住職の墓の南の一画に所在します。良観上人忍性は、鎌倉時代に西大寺の叡尊と共に、真言律宗の興隆、社会福祉事業に力を注ぎました。嘉元元年(1303)に死去し、遺骨は遺命によって鎌倉の極楽寺、大和郡山の額安寺、生駒の竹林寺に3分されて納骨されました。極楽寺忍性墓塔の解体修理、額安寺忍性墓塔の解体修理では、銘文の刻まれた骨蔵器と遺骨が検出されています。 竹林寺では昭和61年(1986)、管理を行っていた唐招提寺によって忍性墓塔修復とその周辺の環境整備が計画され、橿原考古学研究所が発掘調査を行いました。 墓は南東に延びる丘陵の先端を利用した一辺10・5m、高さ0・9mの上面が平坦な方形墳です。墓壙を囲むように礎石の抜き取り穴がみられること、墳丘外に焼土、瓦片が多く散乱することなどから、当初は木造の建造物が建っていたと考えられます。一辺1・6m、深さ1・1mの墓壙中央には、花崗岩製の8角形柱状外容器の中に銘文の刻まれた忍性の銅製骨蔵器が安置されていました。同じ墓壙内から、円形石製外容器に入った平宗朝銘の銅製鍍金筒形骨蔵器、陶製三耳壺に入った銅製鍍金5輪塔形骨蔵器など、13個の同時埋葬の骨蔵器も出土しました。また、約1年後に追葬した東西23㎝×南北42㎝の室も検出され、内部には銘文入り水瓶形銅製鍍金骨蔵器、筒形銅製鍍金骨蔵器、灰釉陶器四耳三筋壺、褐釉陶器水注、白磁合子、青磁碗などが納められていました。墓の西側では、15世紀代の火葬場も検出されました。出土品は昭和62年(1987)6月、重要文化財に指定され、唐招提寺の所蔵となっています。」 | ![]() |
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行基墓 | |
「生駒市有里町の竹林寺境内に所在し、大正10年(1921)3月に史跡に指定されています。奈良時代の数々の社会福祉事業や東大寺大仏造営の勧進などで名高い高僧行基は、天平21年(749)に死去した後、遺命によって生駒山東陵で火葬されました。 鎌倉時代の文暦2年(1235)8月15日、竹林寺僧寂滅が竹林寺境内の行基墓所から八角石筒に入った二重の銅筒と銀製舎利瓶を掘り出したことが、寂滅の注進状『行基菩薩御遺骨出現記』に記載されています。それによれば、表に墓誌銘文を記した銅筒には銀製舎利瓶が納められ、これらは更に銅筒と八角石筒に入れられていました。銀製舎利容器は口のない水瓶形で、蓋には瓔珞が下がり、「行基菩薩遺身舎利之瓶」という銀札が垂れていたようです。 その後、多くは紛失しましたが、銅筒に刻まれた墓誌銘文のうち21字のみ残った断片が有里町の高瀬家に伝えられていましたが、現在は奈良国立博物館に所蔵されています。」 | ![]() |
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竹林寺古墳 | |
「忍性墓、行基墓と同様に、生駒市有里町の竹林寺境内に所在します。第2阪奈道路の敷地となっている谷の南側にあって、生駒山から東へ伸びる丘陵の先端近くの尾根筋からやや南東に下った緩斜面に、尾根筋と平行するように前方部を東に向けた前方後円墳です。 昭和14年(1939)8月に撹乱を受けたことがきっかけで、末永雅雄氏によって埴輪や副葬品の採集と埋葬施設の一部に対する簡単な調査が行われました。昭和55年(1980)1月には奈良大学考古学研究会によって詳細な墳丘測量図が作られると共に、埴輪の破片が数点採集されました。平成21年(2009)9月には、生駒市教育委員会によって墳丘の再測量調査がおこなわれました。 昭和55年の測量調査結果によれば、墳丘規模は後円部直径38m、全長は前方部先端が削られてしまっているため、現状では45mですが、本来は60m前後と思われます。 外表施設としては、円筒埴輪、家形埴輪が確認されているほか、昭和55年調査の際に墳丘各所で葺石が確認されています。 埋葬施設は、後円部ほぼ中央の墳丘主軸上に造られており、昭和14年調査の報告に簡単な所見と断面見取り図等が掲載されています。それによれば、底にまず礫層が敷かれ、その上に粘土で棺床が造られています。その上に安置された棺は割竹形木棺と考えられます。更にその上の構造は、「粘土を敷いて基底施設上へ厚さ5寸前後の板石を並べて蓋をし」て、その上を「覆うに礫石を以て」おこない、更に上部を「割石で厳重に封じ」た「特殊な構造」とされています。しかしこの状態は、割石を積み上げて造られた竪穴式石室の側壁が崩壊し、厚さ15㎝前後の板石を並べた天井石及びその上を覆っていた割石が、支えを失って全体的にそのまま落下した状況と見るのが適当です。埋葬施設は特殊な構造のものではなく、竪穴式石室の中に粘土棺床を造って割竹形木棺を安置するという前期古墳の特徴を備えたものであったと考えられます。 副葬品としては、撹乱を受けた後に残ったものとして、昭和14年調査において内行花文鏡が1面、石釧の完形品が6点と破片が若干、刀剣の破片の出土が報告されています。これらの出土遺物は現在、家形埴輪を除いて所在不明です。 昭和55年に採集された円筒埴輪の時期は4世紀中葉(円筒埴輪編年のⅡ期)です。」 | |
![]() | 竹林寺古墳後円部 前方部は削平されている。 |
後円部墳頂には葺石を用いたと思われる石垣と 天井石の一部が置かれている。 | ![]() |
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竹林寺古墳前方部下で最後の説明を聞き解散。壱分駅に向かう。 | |
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撮影協力 坂部征彦 |