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法隆寺駅→斑鳩大塚古墳→斑鳩文化財センター→上宮遺跡→駒塚・調子丸古墳→中宮寺跡→三井瓦窯跡→瓦塚古墳群→笹尾古墳→小泉大塚古墳→六道山古墳→JR大和小泉駅

 「 」は会報から引用

奈良盆地の西北部に南北に延びる矢田丘陵の南から丘陵東部裾部に位置する古墳を中心に見学します。この地域は大和の中でも人気のある歴史的なロマンを感じる土地柄であり、飛鳥時代の著名な寺院を眺めながらの見学となります。

斑鳩・小泉地域の古墳
 この地域には奈良盆地の他の地域のように150mを凌駕するような大型の前方後円墳は認められないが、前期古墳から後期において着実に地域の首長の系譜を追える古墳が築造されている。その系譜をたどると、先ず小泉地域に竪穴式石室を内部主体とする小泉大塚古墳が3世紀後半から4世紀にかけて築造され、ついで斑鳩地域に竪穴式石室もしくは粘土槨を内部主体とする駒塚古墳が4世紀後半、さらに粘土槨の斑鳩大塚古墳が4世紀末から5世紀初めに築造され、小泉地域に近い瓦塚1号墳・2号墳は5世紀前半、そして小泉地域に六道山古墳が5世紀中頃に築造され、この地域で最終の前方後円墳である小泉東狐塚古墳が六世紀前半に築造されたと考えられる。それ以後、前方後円墳は築造されない。6世紀以降、斑鳩地域、特に西部は上宮王家に関わることが指摘されている。しかし、東部にあたる小泉地域の笹尾古墳は6世紀末から7世紀の大型横穴式石室を有する円墳で、この地域の支配者層を考える上で重要な位置を占めている。


法隆寺駅
9時半から降り始めた雨は10時には上がった。
参加者は130名。
今日のメインの見学先は笹尾古墳。
周辺の古墳を中心に見学する。
斑鳩大塚古墳

南になだらかに広がる矢田丘陵端部に位置する直径35m、高さ約4mの円墳である。葺石、埴輪が墳丘に施されていた。この古墳は、1954年に墳丘上に忠霊塔が建設された際、埋葬施設が検出され、調査へと移行した。調査の結果、墳頂部の南側に偏った埋葬施設の粘土槨は大部分が破壊されていたが、一部遺存していた。この粘土槨からは銅鏡2(二神二獣鏡、鋸歯文縁鏡)、石製石釧1、石製管玉1、筒形銅器1、短甲1、肩甲1、頸甲1、鉄族、刀剣14等である。2013年度奈良大学と斑鳩町が墳丘の確認調査を実施したが、円墳か前方後円墳かを判断する結果は得られていない。


埋葬主体が見つかった忠霊塔

藤ノ木古墳
斑鳩町文化財活用センターと藤の木古墳を見学
斑鳩町文化財活用センター
上宮遺跡
 1991年度に「ふるさと上宮歴史公園整備事業」に伴い調査され、発見された遺跡である。遺構は奈良時代のコの字に配置された大型掘立柱建物群や平城宮や平城京で使用された瓦が出土することから『続日本紀』神護景雲元年(767)にみえる称徳天皇の行宮「飽波宮」の有力な推定地と考えられている。
 聖徳太子が晩年を過ごした「飽波葦垣宮」の跡を寺にしたとの伝承を有する成福寺は、この遺跡の南側に位置し、7世紀前半の井戸等が検出され、宮の候補地である。

南側掘立柱建物跡
東側の掘立柱建物跡
調子丸古墳
 上宮遺跡の北、約200m、北の駒塚古墳の南約100mに位置する径約一四mの円墳である。調査は実施されておらず、埋葬施設や葺石、埴輪の有無については不明である。この古墳の名前は聖徳太子に仕えた百済の聖明王の弟の長男と言われる「調子磨」を埋葬したとの伝承に由来する。5世紀代の古墳と考えられている。現在駒塚古墳とともに斑鳩町の町史跡に指定されている。
南から望む調子丸古墳 左奥は駒塚古墳
北から望む調子丸古墳
駒塚古墳
 平成12~14年度の3カ年にわたって調査され、この古墳の実態が明らかになった。この古墳は矢田丘陵からなだらかに延びる丘陵縁辺部に築造されている前方後円墳である。古墳は主軸を南北に取り、全長約55m、後円部径34m、同高さ約5.5m、前方部長約21m、高さ約2mである。前方部は河川によって一部流失している。
 墳丘の構造は、後円部、前方部ともに二段築成であるが、後円部は三段であった可能性も考えられる。墳丘には葺石が二段に巡るが、埴輪は伴わない。墳頂には径約12~13mの平坦面が存在し、その下には棺を納める墓坑の存在が確認されている。しかし埋葬施設は調査されていないため竪穴式石室か粘土槨かを含めて不明である。築造時期については出土した赤色顔料が塗布された二重口縁壺から4世紀後半と考えられている。この古墳の名は、聖徳太子の愛馬「黒駒」を埋葬したとの伝承に由来する。
中宮寺跡
聖徳太子建立七ヶ寺の一つではあるが、その創建は明らかではなく、現在の中宮寺から東に約400mの所に位置する。現在の場所は十七世紀初めには移ったと考えられている。昭和三十年代から十四次にわたり調査が実施され、平成十五年には国史跡に指定されている。
 中宮寺は門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置であるとされているが、門および講堂は明確には確認されていない。
 金堂は塔の北に接するように位置する東西五間(一三・五m)、南北四間(一〇・八m)の四面庇の建物で、柱間は約二・七mである。七世紀前半の創建時は凝灰岩製切石積基壇と推定され、規模は東西一七・九m、南北一五・二mと考えられている。塔は遺存状況が悪く規模は明確ではないが、一辺一四m余りであると考えられている。しかし基壇中央下二・五mの所に長方形の心礎が据え付けられていた。心礎には心柱を固定する根巻き粘土が残存し、心柱の直径が約八〇㎝であることがわかっている。さらにその粘土の内側には金環、水晶角柱、ガラス玉など舎利的な役割を持つ遺物が出土している。
 出土した飛鳥時代の軒瓦には「奥山廃寺式」と「高句麗系」の二種類が認められ、六二〇年頃の製作時期が考えられている。
富郷陵墓 参考地
 法起寺の西に位置する独立丘陵の頂部に築造された直径約30mの円墳である。この丘陵は「おかのはら」と呼ばれ、聖徳太子と刀自古郎女の間に生まれた山背大兄皇子の墓であるとの伝承があり、宮内庁により陵墓参考地として管理されている。この古墳付近では埴輪片が採集されていることから、この古墳の時期は七世紀を遡ることは確実と思われる。
三井瓦窯跡
 瓦塚古墳群が位置する北から南に延びる丘陵の西斜面に位置する。1932年、国の史跡に指定された。この窯跡は、焚口を西南方向に向けた地下式登窯で、燃焼部は平面を半円形とし、焼成部床面は約40度の勾配を持ち、10段あまりの階段となっている。焚口から焼成部最上段までの水平距離は約4.9m、現存高約3.8mである。焼成部の側壁はアーチ状に迫り上がり天井を形成している。この窯から出土した瓦は平瓦・丸瓦片であるため、この窯からどの寺院に瓦が供給されたかは不明である。しかし、窯焚口付近で発見された軒瓦から、7世紀末から8世紀初めに法隆寺や法輪寺に供給された可能性が考えられる。

瓦窯後方が瓦塚2号墳。左森が1号墳。
瓦塚古墳群

1号墳後円部西側で説明を聞く。
 法起寺の北西、南北に延びる丘陵上に所在し、2基の前方後円墳と1基の円墳からなる古墳群である。
 1号墳は最も北に位置し、丘陵に主軸を合わせた前方後円墳である。この古墳は、1975年度に範囲確認の調査が実施され、全長約97m、後円部径約60m、同高さ約8m、前方部幅約47m、同高さ約2mである。墳丘は盛土の二段築成からなり、各段には朝顔形埴輪や壺形埴輪を含む円筒埴輪列と葺石が施されている。くびれ部から出土した魚形土製品(8~11㎝)や円盤形土製品(3~5㎝)は全国的にも珍しい。この古墳の築造年代は埴輪等から五世紀前半と考えられている。
 2号墳は、1号墳の南側に隣接するように築造された主軸を東西にとる前方後円墳である。この古墳は全長約95m、前方部を東に向け、丘陵に直交するように築造されている。築造時期については1号墳と同じ頃と考えられている。
 3号墳は、2号墳の南側に位置する直径約30mの円墳である。
笹尾古墳
 1981年の当時の国立療養所松籟荘内の宿舎建設工事の際、発見された古墳である。翌1982年発掘調査が実施され、この地域では非常に珍しい巨石横穴式石室であった。
 古墳は丘陵東斜面に位置し、墳丘は古くに削平を受けていた。調査の結果、この古墳は径約27mの円墳であった。内部主体である横穴式石室は両袖式であり、その規模は全長12.5m、玄室長4.5m、同幅2.63m(中央)、同高さ2.2~2.6m、羨道長8m、同幅1.81m(中央)、同高さ1.7~1.85mであった。玄室の奥壁は2段横積みで、東側壁は4段、西側壁は3段積みであり、2枚の天井石が横架されていた。羨道には東側壁に2枚、西側壁に1枚の巨石を据えていた。玄室床面には扁平な石が一面に敷かれ、羨道には排水溝が設けられていた。石室内は盗掘が著しく、出土したのは凝灰岩製家形石棺片、鉄釘、須恵器等であった。この古墳は6世紀末から7世紀前半に築造されたと考えられている。
小泉大塚古墳
 矢田丘陵東南隅部に延びる丘陵の頂部に位置する前方後円墳である。現在、県史跡として指定され、後円部のみ保存されている。この古墳の前方部は古くから削平されていたが、1962年の調査ではその痕跡は残っていたことが報告されている。その報告によるとこの古墳は2段築成の全長88m、前方部を西に向けた前方後円墳であり、後円部径50m、同高さ7m、前方部幅約40m、同高さ2mの規模である。当時、埋葬施設である竪穴式石室も調査され、銅鏡、鉄製品、土器が出土したが、調査期間の問題等で石室構造には不明な点も多かった。幸いにして1996年、この古墳の整備を目的として石室の再調査が実施された。
 その調査の結果、この古墳には埴輪、葺石などの外部施設は後円部には認められなかった。埋葬施設は墳丘主軸に直交する形で、南北約10m、東西7.5m、深さ約3mの楕円形を呈した墓坑に構築された竪穴式石室である。この石室は不定形な隗石を小口積みにして構築し、石室平面は隅丸長方形を呈している。天井石や側壁上部は1962年の調査時にはすでに失われていたが、石室は全長五・五m、幅(北小口)1.1m、高さ(北)1.5m、幅(南小口)0.8m、高さ(南)1.3mの規模を有することが確認された。
 2回の調査で石室内から出土した遺物は、銅鏡七(長宜子孫内行花文鏡1、内行花文鏡3、二仙四獣帯鏡1、画文帯神獣鏡1、獣首鏡1、剣1、刀子2、刀子状製品1、短冊形鉄斧1、土師器(直口壺片2、二重口縁壺片1)などである。これらの遺物の中で鏡は古い鏡群であり、土師器は布留Ⅰ式にあたるため、古墳の築造は3世紀後半から4世紀頃と考えられている。

手前が前方部
六道山古墳
 小泉大塚古墳の所在する丘陵から東南に派生する丘の先端部に位置する前方後円墳である。前方部は1970年代に削平を受け、現在に至っている。この古墳は、南北に主軸をとり、前方部を北西に向ける。その規模は全長約100m、後円部径約七五m、同高約14m、前方部幅約50m、同高約6mである。後円部は2段築成である。埴輪は確認されているが詳細は不明であり、葺石は確認されていない。2度の調査が実施されているが、時期を決定する確実な資料は得られていない。おそらく中期中頃の築造と考えられる。

削平された前方部で最後の説明を聞く。
JR小泉駅に向かう。

 矢田丘陵南から東裾部の6世紀以前の古墳の様相は、奈良盆地の北部、東南部、南部、西部とは異なる古墳の築造形態を見ることができる。この地域の有力者層が大和の中枢部との連携の中でどのような役割を果たしたのかを考える絶好の場と言える。また六世紀以降、小泉地域と斑鳩地域は、上宮王家の斑鳩進出によって大きな相違が認められる。その中で小泉地域における笹尾古墳の築造は、この地域を支配した勢力集団を考える上で重要である。
撮影協力 坂部征彦