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川西市勝福寺古墳→池田市池田城跡(昼食)→娯三堂古墳→池田茶臼山古墳→池田市歴史民俗資料館(五月ケ丘古墳)→鉢塚古墳→二子塚古墳

 「 」は会報から引用
阪急川西能勢口
 今回の踏査は、北摂地域で著名な古墳の幾つかを見学致しました。この地域は市街化が早かったことも有り、現状では遺跡と認識出来ないものもたくさんありますが、まだまだ木造家屋の下には多くの遺跡が残されているものと思います。この中で墳丘が目に付く古墳は、住宅街の中に埋没するようになっていますが比較的良く残されてきています。今回見学できた古墳は、時期的には古墳時代前期と後期に属するもので、何れも当該地域を代表する遺跡と云えます。今回のルートは山麓沿いを歩きますので、多少起伏が多いですが舗装された比較的歩き易い道をとりました。但し、交通量は多いですので充分に注意を払って歩いて頂ければと思います。
勝福寺古墳
 兵庫県川西市火打二丁目に所在する主軸を北から西に35度余り振る前方後円墳です。この古墳は、明治20年代に墳丘土が壁土として採取される過程で石室石積みに当たった事で発見されたものです。明治24年にその石積みを破壊し横穴式石室に侵入した際、画文帯神獣鏡、六鈴鏡、金環、管玉、土玉、銀象嵌大刀や刀剣類、鉄斧、馬具、須恵器等の副葬品が見つかっています。2001年から2004年にかけて川西市教育委員会・大阪大学考古学研究室による調査が実施され、その規模や構造が明らかにされました。
 発掘調査の結果、墳丘規模は全長41m、後円部径24.6m、前方部長16.4m、後円部側に巡っていたと考えられる周溝は幅1.5m、深さ0.3m以上と考えられています。
 後円部に位置する最大の埋葬施設は、東側壁に袖部を持つ片袖式の横穴式石室で、その規模は全長9.02m、羨道長4.31m、羨道幅1.43m、羨道高1.69m、玄室長4.71m、玄室幅2.03m、玄室高2.43m、袖幅0.9mを計測するものでした。それと共にこの横穴式石室前庭部付近から小型の石室が発見されています。石室内部からは須恵器の杯類や、高杯、提瓶、有蓋台付長頸壺、土師器壺等が発見されています。
 調査成果から、この古墳は六世紀前半に築かれたと考えられ、墳丘に立て並べられていた埴輪類には尾張型と呼ばれる特徴的な製作技法が見られること、更に石室は比較的初期の横穴式石室に位置付けられる事等が明らかとなりました。

後円部第2埋葬施設跡

前方部盗掘跡
猪名川を渡り、大阪府へ
池田城跡

西側段丘崖を登る
 池田城は室町時代から織豊期にかけて旧豊島郡1帯を支配した池田氏の居城です。北側の五月山山塊から南に向かって延びる標高35~55m余りの台地上に立地しており、直ぐ南側には近世以降に栄えた池田市市街地を真下に臨む位置にあります。池田城北側には深い渓谷で画され、南及び西側は段丘崖として自然の要害をなしています。
 戦後間もなく当地域には大阪第二師範学校附属中学校が建設、昭和32年の廃校遺構は大阪教育大学の学生寮として使用されてきた。平成元年から公園として整備することが決定し事前の発掘調査が実施されました。調査の結果、建物跡や庭園遺構、井戸、土塁、排水溝等が確認されています。文献の上では『大乗院寺社雑事記』の文明元年(1469)に大内軍による池田城攻撃の記事があり、これを裏付けるような地山面上に拡がる炭層が確認されている。これから少なくとも15世紀中葉には現在の場所に成立し、16世紀後葉迄続いたものと考えられています。

北側の深い谷
娯三堂古墳
 大阪府池田市綾羽に所在する南北径二七mの円墳で、猪名川流域でも数少ない古墳時代前期の古墳です。この古墳の発見は古く、明治30年に偶然発見・発掘され画文帯神獣鏡や石釧等の副葬品が出土しています。墳丘は五月山中腹の尾根線上に位置し、主に地山整形によって築造されたものです。発掘調査では盛り土は認められず、また埴輪、葺石といった外部施設も発見されていません。
 埋葬施設は、墳頂部に設けられた同1墓壙内に竪穴式石室と粘土槨の二つを納めたものでした。
 発掘調査は1989年に池田市教育委員会によって実施され、埋葬施設の構造や規模が明らかになりました。
 先ず竪穴式石室は、主軸をN--Eにとる全長5.5m、東側壁幅は下端で0.9m、上端で0.5m、壁高は1.32mを測るものでした。石室は流紋岩の板石を持ち送りして積み上げたもので、壁面にはベンガラの痕跡が見られました。
 石室を覆う天井石は13枚あると報告されていますが、現状で原位置を保つものは西端の一枚のみでした。天井石には花崗岩や流紋岩が使用されています。天井石を架構後、その上面を黄色粘土で被覆していました。

墳丘に散乱する天井石
池田茶臼山古墳
墳丘側面
墳丘 前方部から

石室天井石
 池田市五月丘一丁目に所在する全長約62m、後円部径約33m、後円部高約六・四五m、前方部幅約一八mを測る古墳時代前期に属する前方後円墳です。昭和32年に日本住宅公団によって買収され1旦は住宅建設用地となるも保存運動の結果、今日までその姿を残している古墳です。内部主体は後円部の中央に築かれた竪穴式石室です。石室の石材は石英粗面岩の割石を用い、全長6.35m、南壁基底幅1.1mを測るもので、花崗岩の天井石9枚で覆われていました。石室の内部からは管玉、ガラス製小玉、碧玉製石釧、土師器等が検出されています。また、墳丘には円筒埴輪が巡り、円筒埴輪棺等も確認されています。
池田市立歴史民俗資料館(五月ケ丘古墳)
 先に現地を見学した娯三堂・池田茶臼山両古墳からの出土品を見学する事が出来ます。又、資料館の裏手には五月ケ丘古墳が移されており、陶棺を納めた横穴式石室の状況を見る事が出来ます。
 五月ケ丘古墳は、昭和48年に大阪府教育委員会によって発掘調査が行われた七世紀に造られた無袖の横穴式石室です。直径8m余りの小さな円墳ですが、須恵質家形四注式の陶棺を納めたものでした。陶棺は、隣接する豊中市の千里川流域に分布する桜井谷窯跡群において数多く生産されており、この地域から運ばれて来たものでしょう。
鉢塚古墳

石室は見学せず。道端から巨石が見える。
 大阪府池田市鉢塚二丁目に所在する五社神社社殿背後にある古墳で、巨大な横穴式石室が開口していて、古くから信仰を集めてきました。
 明治5年から21年まで造幣局技師として来日し大阪に居を構えていた英国人ウィリアム・ゴーランドは、職務の余暇を利用し、日本各地の古代墳墓の調査を進めました。鉢塚古墳は、後に発表された彼の著作の1つである「日本のドルメンとその築造者達」に「テラスのある墳丘」と記されておりそれ以来、上円下方墳と考えられてきました。しかし平成5年に行われた池田市教育委員会による墳丘の外形実測では基底部約四五mの円墳である事が判ってきています。又、平成13年の調査で、幅7m、深さ0.8mの周溝を持つ事が明らかとなりました。石室については昭和9年(1934年)に京都大学の梅原末治氏、平成6年には池田市教育委員会が横穴式石室の実測調査を行っています。石室は全長14.88m、玄室長6.48m、高さ5.2m、幅3.2m。羨道長8.4m、高さ平均約2m、幅平均1.8mという全国でも屈指の規模を誇る大型の横穴式石室として良く知られています。石室に使われている石材は、大多数が花崗岩で、それ以外にチャート、粘板岩、輝緑凝灰岩が認められ、石棺と思われる熔結凝灰岩も見られます。石室奥壁前には鎌倉時代の石造十三重塔(国指定重要文化財)と不動明王の種子を刻む板碑、地蔵菩薩像が祀られています。墳頂は後世に経塚としても利用されており、昭和三九年、石室内漏水に関わり墳頂部に漏水防止工事を施した際、経塚関係の遺物が出土しました。謂わば古墳の墳丘をそのまま経塚として利用したもので、その構造は、墳頂に穴を穿ち、その中に須恵質の鉢を蓋とする須恵質甕を据え付けたものでした。この甕の周囲からは、方鏡、短刀、白磁製合子、鉄製片口容器、宋銭等が発見されています。甕の中からは銑鉄製蓋付筒状容器が発見されています。恐らくその中には、経典が納められていたと考えられます。
尚、見学当日は五社神社の祭礼もありますので、石室内部の見学は残念ながら出来ません。よって正面からの墳丘見学だけとなります。又、当古墳は生きた信仰の対象となっていますので、後日見学をされる方は、静謐な空間を乱す事がないよう、見学に際してはこの点を充分に配慮し静かに拝観されるようお願い致します。
二子塚古墳
 住宅街の中に埋もれるよう島状に残されている古墳です。古墳墳頂部には稲荷神社が鎮座する事から稲荷山古墳とも呼ばれています。調査の結果前方後円墳の可能性が高いと考えられています。東西2つの横穴式石室があったようですが、東側は判りにくくなっています。見学可能な西側石室は、天井部の石材が露出しており、墳丘土がかなり流失しているようです。石室長6.72m、玄室長4.5m、玄室高1.68m、幅1.54mをそれぞれ測るもので、両袖式の石室です。

撮影協力 坂部征彦