高茶屋大塚古墳跡→四ッ野B遺跡→高茶屋大垣内遺跡→加良比乃神社→池の谷古墳→南が丘駅
久居駅 | |
![]() | 博物館で2月1日から開催している特別陳列「東海地方からの新しい風~古墳出現期の東海系遺物~」では、S字状口縁台付甕(以下、S字甕)をたくさん展示しています。今回はS字甕製作地の周辺遺跡を歩きます。 なお、一昨年歩いた雲出川下流域の平野部北部の台地を歩くことになります。前回は伊勢湾までわずか2㎞のところまで行ったにもかかわらず、平坦で全く伊勢湾を臨むことができませんでしたが、今回は眼下に見下ろすことのできる場所を巡ることになります。 伊勢湾からみて、一番最初に見える台地であり、その立地こそが重要な遺跡と考えられます。また、前回は山間部から吹き下ろす強風を体験していただきましたが、今回は強風の当たらない土地です。地図上では至近距離に位置しますが、立地環境の相違を大いに体感していただくこともできるかと思います。 |
![]() | 忠犬ハチ公の飼い主、上野 英三郎氏は、久居市の出身。1911年(明治44年)に農科大学(後の東京大学農業工学科)教授。大正14年5月に大学で講義中に脳溢血で倒れ急逝、53歳。 久居駅前に銅像が建つ。 |
高茶屋大塚古墳 | |
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このほど博物館に寄託され、特別陳列「十二の考古学-午-」に出陳された馬具が出土した地点です。馬具は6世紀末から7世紀にかけての馬具で、龍文の透かし彫りを施す杏葉やパルメット文の透かし彫りを施す轡などがあります。馬具と共に保管されてきた大正4年の発掘届によると、当時の「一志郡高茶屋村大字小森字大塚」から馬具が出土したことが知られます。 この資料が寄託されるにあたり出土した地名について調査したところ、高茶屋村大字小森は戦前に公有地化され地番変更がなされたことと戦災にあっていることから、すでにかつての住所との対応を照合できる記録は残っていませんでした。そこで、現在の地図に、明治時代初期に三重県庁に提出された古地図を重ね合わせて現在地を特定しました。その結果、現在の津市高茶屋4丁目・5丁目・高茶屋小森町の一角に相当することが分かりました。 また、明治から昭和期にかけて古墳の存在が新聞などで記録されており、かつて古墳群が存在していたことも確認できました。戦時中の本格的な造成によって、平坦になっていますが、国道一六五号線を西からずっと歩くと、旧高茶屋村字小森大字大塚の位置した交差点付近を最後に、東方に向かって台地を下っていく状況が分かると思います。また、交差点で南へ南下していくと一段下がることも分かります。つまり、東西方向と南北方向のいずれもで最も標高の高い地点に相当しているようです。 | |
四ツ野B遺跡 | |
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![]() | 旧石器時代から古墳時代にかけての複合遺跡です。とりわけ注目されるのは、弥生時代から古墳時代中期にかけての集落遺跡に隣接して高茶屋銅鐸が出土していることです。 昭和六一年に工事中に複数個体の銅鐸が出土しています。いずれも突線鈕式の近畿式銅鐸で1号銅鐸は高さ66.3㎝、2号銅鐸は86.3㎝を計ります。そのほかにも、二個体分の破片資料の存在することが確認されています。 弥生時代後期から古墳時代中期の集落跡からは70棟以上の竪穴住居が重複して検出されています。 写真左 銅鐸出土地周辺 |
雲出井 | |
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![]() | 高茶屋台地から東へ下って、参宮街道を北上します。台地の南東端部を通る「雲出井」にも注目して下さい。慶安二(一六四九)年に藤堂藩の西嶋八兵衛が造成にあたったもので、現在も水田耕作に重要な役割を担っています。 銅鐸出土地近くの水分神社脇を流れる「雲出井」。 |
![]() | JR高茶屋駅でトイレ休憩 近くに高茶屋神社 |
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![]() | 浄土宗称念寺前で昼食 伊勢湾を望む |
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高茶屋大垣内遺跡 | |
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古墳時代前期の方形区画施設と集落や古墳時代中期から後期にかけての集落などが見つかっています。 行程順に記載します。台地の南部のF地区では古墳時代中期の土器焼成坑が見つかっています。この地区は8世紀代の遺構も集中して存在しているために、古墳時代の遺構と重複しています。しかし、古墳時代中期のボロボロに焼けた土師器片が多量出土することや台付鉢のように台付甕の脚部から体部まで製作し途中でやめてしまった土器が出土する特徴もあります。このような土器は流通していませんので、土師器を製作していたことを裏付ける資料といえます。 つづいて、台地縁を東へ進みます。以前は視界が開けていたのですが、雑木が大きくなり見晴らしが悪くなってきました。 G地区では古墳時代前期の古墳時代前期の方形区画施設と集落が並んで見つかっています。見晴らしのよい東側に方形区画施設が配置されていることが特徴です。大型建物は何らかの構造物によって遮蔽されていたと推定されています。区画溝の溝底部がデコボコと起伏があることから、構造物が板塀などの基礎のある構造物であったことが分かります。出土遺物は皆無に等しいのですが、竪穴住居から出土している土器は古墳時代前期の布留式期の資料が出土しています。なかでも、河内型庄内式甕の出土は特筆されます。 | |
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![]() | 再び、台地を下って参宮街道を北上します。相川を渡ります。今日でも相川は潮の満ち引きがあり、例会下見の日には全く水がありませんでした。 |
加良比乃神社 | |
![]() | 式内加良比乃神社に比定されています。加良比乃神社は土師氏の祖神可美乾飯根命を祀った神社です。また、『皇大神宮儀式帳』に記載の藤方片樋宮にも比定されています。 |
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池の谷古墳 | |
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![]() | 墳丘長90mの前方後円墳です。時期的には、前期末から中期に相当する古墳です。逆三角形の透孔のある円筒埴輪が出土しています。 中世に築かれた砦によって、墳丘の形態は分かりにくくなっていますが、付近のなかでは最も高い場所に立地していますので、歩いた場所は全て見渡せます。また、天候の良い日は、伊勢湾の対岸にある知多半島も見えます。 |
![]() | 近鉄南が丘駅で解散 |
撮影協力 坂部征彦 |