yushikai.jpg

JR北宇智駅→居伝瓜山瓦窯→高宮廃寺→高鴨神社・葛城の道歴史文化館→朝妻廃寺→二光寺廃寺→鳥井戸バス停

 平成23年の秋季特別展「仏教伝来」に関連する古代寺院を巡る3回目として、今回は奈良県五條市北部~御所市南部の地を歩きます。
 五條市北部は古墳時代後期の須恵器窯に始まり、飛鳥・奈良時代の須恵器・瓦窯など奈良県内においても窯業遺跡の豊富な地域です。飛鳥の川原寺などの創建瓦もこの地に所在する荒坂瓦窯群で製作され、飛鳥まで運ばれたことが知られています。その中で今回訪れるのは、京奈和自動車道の建設に先立つ発掘調査で発見された居伝瓜山瓦窯(八世紀:瓦窯は現地の地下に保存され、見ることはできません)です。
 その五條の地と奈良盆地との間には風の森峠があり、現在、ここには国道24号線が通り、奈良盆地の南西の窓口となっています。風の森峠の西側に位置する鴨神遺跡の発掘調査では、古墳時代(六世紀)の道路遺構が確認され、この峠越えの道は遅くとも古墳時代には存在することが確認されました。
 この風の森峠から北に広がる金剛山・葛城山の東側を中心とする一体が葛城の地で、古代には二つの山をまとめて葛城山と呼んでいました。古墳時代の豪族葛城氏の本拠地として注目されているのが金剛山の東山腹で、それを考古学的に確認できたのが南郷遺跡群と考えられます。これまでに五・六世紀頃を中心とする時期の住居遺構・祭祀遺構・生産遺構・古墳群が確認されています(平成一八年度春季特別展『葛城氏の実像』)。その葛城氏は古墳時代の間に勢力を失いますが、この葛城の地では飛鳥地域・斑鳩地域と同じく、飛鳥時代には古代寺院の建設が進められたことが近年の発掘調査によって再認識されています。特に古墳時代から飛鳥時代への変遷という一大画期を、考古学的に良好な状態で確認できた調査成果も、当研究所が実施したこの地での発掘調査で得られています。どうやら葛城氏傘下の中小豪族が飛鳥時代のこの地で活動し続けていたようです。今回の見学先は彼らの足跡を訪ねることになります。
 遺存地名という視点からも、この地域は極めて興味深い地です(当研究所編1980『大和国条里復原図』参照)。例えば今回は、御所市南部の東佐味・西佐味、僧堂、朝妻、伏見、北窪などの大字の地域を歩きますが、『日本書紀』などの文献史料との関連、あるいは発掘された遺跡の性格を考える上でも、多くの示唆を与えてくれる地名が現存しています。したがって今回は遺跡の所在地に加えて、現在に伝えられた興味深い地名の所在地も歩きます。
JR北宇智駅
2007年12月例会以来の北宇智駅 新駅舎
昔はスイッチバックの駅だった。
居伝瓜山瓦窯
京奈和自動車道の建設に先立つ発掘調査で、8世紀に操業した一基のロストル式瓦窯(平窯)が丘陵の東斜面に確認された。窯の規模は、焼成室が長さ2.2m、幅2.3mで、その床面には六条の分焔牀、七条の焔道があり、奥壁には四ヶ所の煙道が開けられている。瓦窯の北側には平坦地が確保されており、造瓦作業に関連するとみられる掘立柱建物の存在も確認された。出土した瓦は八葉蓮華紋軒丸瓦・均整唐草紋軒平瓦、そして方形と円形の四葉蓮華紋垂木先瓦である。このうち円形垂木先瓦の類似品が北窪遺跡(二光寺廃寺隣接地)から出土しており、圏線・蓮弁・珠紋の特徴から同笵の可能性が高い。発掘された瓦窯は、現地に設置されている解説案内板に向かって後方の地下(遺跡は橋げたの間にあり、遺跡の部分だけ橋桁間隔が広い)に保存されており、瓦窯そのものは見学できない。
葛城山に登る
麓には柿木が。
高度があがると林が広がる。

右こうや 左よしの道標
高宮廃寺
 奈良県が実施した大正時代の調査によって、字名から水野廃寺と呼称されたこともあり、現在は史跡指定を受けて保護されている。塔・金堂と考えられる建物遺構の礎石が現存し、東面する伽藍配置を採用して7世紀後半に創建された寺院と考えられる。現在、中心伽藍が所在する場所には貯水池があるが、塔と金堂の位置関係を鑑みれば、双塔式の伽藍配置である可能性も指摘されている。出土瓦は複弁蓮華紋軒丸瓦・偏行唐草紋軒平瓦であり、朝妻廃寺・二光寺廃寺と同笵関係にある。建立氏族として渡来系の高宮村主を挙げる説があり、瓦の同笵関係からみても、葛城地域の渡来系氏族の関与を想定できる。『日本霊異記』「巻上」にある百済僧円勢が住した「高宮山寺」(原本では高宮止寺)、『行基菩薩伝』にある行基に菩薩戒を授けた僧徳永の寺「高宮寺」は、この高宮廃寺との関連が指摘されている。

写真上 金堂跡
写真下 塔跡
遺跡全景 左金堂跡 右塔跡
高宮廃寺を振り返る
高鴨神社
 阿治須岐高日子根命を主祭神とし、全国の「カモ」神社の総本社とされる。延喜式内社に数えられている。当社の本殿は国指定の重要文化財(三間社流造・檜皮葺・天文十二(西暦1543年)、摂社東神社本殿は奈良県指定の有形文化財(寛文十二(西暦1672)年)となっている。現在は春に開花するニホンサクラソウの栽培で著名である。この地は古代豪族賀茂氏(葛城賀茂氏・鴨君・賀茂朝臣)の本拠地とみられており、近接する鴨神遺跡をその遺跡とみる説もある。なお山城の賀茂氏とは出自を別とする説がある。
国指定重要文化財
本殿

奈良県指定有形文化財
摂社東神社本殿
神通寺廃寺

民地内に保管されている礎石

 高鴨神社の境内地周辺の地名に「神通寺」があり、その小字には「堂ノアト」がある。かつてその水田耕作時に瓦や礎石の出土もあったとのことで、礎石のうち数点は近在の民地内に保管されている。遺跡地は高鴨神社に近接することから、神宮寺の性格を持つ寺院遺跡がこの地に存在する可能性がある。『新抄格勅符抄』第十巻抄(平安時代の法制書)「寺封部」にある「神通寺 廿戸 同六年施 上野国」が、この神通寺廃寺に相当する可能性が高い。ただしこれまでに発掘調査は実施されておらず、軒瓦・創建時期・伽藍配置も明らかでない。遺跡の現状は宅地と耕作地になっている。
朝妻廃寺
 飛鳥時代(7世紀後半)に創建され、東面する法隆寺式の伽藍配置の可能性がある。発掘調査では回廊と金堂と推定される建物基壇が確認されている。出土瓦には大和の高宮廃寺・二光寺廃寺・巨勢寺、紀伊の名古曽廃寺との同笵瓦・同紋瓦が知られている。建立氏族は渡来系氏族である朝妻氏が有力視されている。元興寺(飛鳥の飛鳥寺)の塔露盤名には金属加工を担当した「阿沙都麻首未沙乃」の名があったと伝えられており、これを朝妻氏の同族とする可能性も指摘される。遺跡の現状は宅地・耕作地となっているが、遺跡の解説案内板が最近になって設置された。現地の地名には大字「朝妻」・「僧堂」や、小字「大門」があり、僧寺であったことや東面する伽藍配置、建立氏族を想定するうえで有力な根拠となっている。

写真上 説明板の前で解説を聞く。
写真下 遺跡周辺
北窪古墳群
 圃場整備事業に先立つ発掘調査で確認された古墳時代後期(六世紀頃)の古墳群である。複数の横穴式石室の内部主体からミニチュア炊飯具・金属製釵子などが出土し、被葬者像に渡来系氏族を挙げることができる。一部の古墳は水田に戻された現地の地下に保存されている。

古墳跡で二光寺廃寺の解説を聞く。
二光寺廃寺
 北窪古墳群に隣接して所在する飛鳥時代(七世紀後半)に創建された寺院である。圃場整備事業に先立つ発掘調査で存在が確認され、調査地の小字「二光寺」から遺跡名が命名されている。確認されたのは金堂と考えられる建物基壇(南北一七・二m、東西推定一九m)で、その周囲から多量の瓦とともに二〇〇点以上の仏、土製の螺髪一点も出土した。おそらくは堂内の壁面が仏で荘厳され、須弥壇に丈六仏が安置されたと考えられる。伽藍配置の確定には至っていないが、南から塔・金堂・講堂が一列に並ぶ伽藍配置を想定できる。出土瓦には朝妻廃寺・高宮廃寺、飛鳥の檜隈寺、紀伊の名古曽廃寺との同笵瓦がある。軒瓦の同笵関係や、被葬者に渡来系氏族を想定できる北窪古墳群に近接して建立されていることから、この寺院の建立氏族も渡来系氏族である可能性が考えられる。調査後の現地は耕作地に戻されている。
遺跡はビニールハウス周辺。
撮影協力 坂部征彦