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史跡穴太廃寺跡→史跡崇福寺跡→史跡南滋賀町廃寺→榿木原遺跡→史跡近江大津宮錦織遺跡→大津市歴史博物館

 
JR唐崎駅
集合はJR湖西線唐崎駅。
今回は、重見 泰先生の案内で、天智天皇が造営した近江大津宮を中心に、同時代に造られた遺跡を廻って、天智天皇が造営した宮殿と都について考える。
 
穴太廃寺
大津宮から北西に約3㎞に位置する穴太廃寺では、当初、北で東に大きく振れる造営方位であったものが、7世紀後半になると、同じ位置でほぼ正方位に再建されている。再建された時期から、穴太廃寺の再建は、大津宮の造営に起因したもので、都市計画に沿ったものであるという指摘がある。
 現在に残る条里地割は、穴太廃寺よりも北側で斜行し、南側で正方位を向く。これが大津宮造営時の都市計画を反映していれば、穴太廃寺はその北端に位置することになる。
 なお、穴太廃寺の金堂は、創建時と再建時ともに瓦積基壇であり、創建軒丸瓦は外縁に輻線文のある単弁蓮華文であるなど、渡来系氏族の寺院とされる要素が強い。

現地説明板写真
 
倭(しどり)神社
倭(しどり)神社(赤塚明神、赤塚古墳)横を通過。

赤塚古墳は5世紀前半の前方後円墳または直径30~40m、高さ2.5~4mの円墳。朱の痕跡が認められる板石5、6枚発見された。
 
志賀八幡神社
 
志賀の大仏(おぼとけ)

崇福寺跡へ

金仙滝
 
崇福寺跡 弥勒堂基壇
天智七年(668)正月、天智天皇は大津宮北西の山中に崇福寺を建立したという。塔心礎には舎利容器と鉄鏡が納められていた。大津宮に佛殿が備えられていた。天智天皇は、都の守護を期待して寺院や仏殿を造営したのだろうか。
 
塔跡 小金堂跡
 
伽藍は2つの谷を隔てて築かれている。
 
崇福寺 金堂講堂跡
 
百穴古墳群

後期の古墳群で、横穴式石室の天井はドーム状になっている。

石室内には多くの土器も一緒に納められ、ミニチュア炊飯具セット(カマド・カマ・コシキ・ナベ)も含まれていた。

渡来系の特長である。
 
桐畑古墳
百穴古墳群と同じ丘陵の北側東尾根に6基の円墳で構成される後期の桐畑古墳群がある。
1号墳宗福寺参道にある直径20mの円墳で両袖式の石室を持つ。
 
南滋賀町廃寺跡へ向かう
 
南滋賀廃寺跡
大津宮の北約500mに位置する南滋賀町廃寺一帯には、周辺の条里とは異なる特殊条里があり、この特殊条里が南滋賀町廃寺の寺域を示しているものと考えられている。特殊条里は310~315m四方である。
 南滋賀町廃寺は川原寺式の伽藍配置をとり、伽藍の中軸線は特殊条里を五分割した西から二つめの軸と一致する。大津宮の中軸線は、南滋賀町廃寺の伽藍ではないものの、寺域の中軸線と一致しており、大津宮を基準とした地割計画線が存在したことを示している。
 
榿木原遺跡
寺域の西端にあたる榿木原遺跡では築地塀跡が検出されており、築地塀の西側には瓦窯が築かれていた。
西大津バイパスと山中越えの交差点に挟まれて瓦窯が保存されている。
交差点北西の福王子神社境内には後期の古墳群がある。
 
福王寺古墳群
南志賀二丁目の紀貫之を祭神とする福王子神社の境内にある古墳時代後期(6世紀後半)の群集墳。この古墳群は横穴式石室をもつ15基の円墳からなる。発掘調査された7基は直径10メートル前後で4基からミニチュア炊飯型土器が出土した。石室が露出しており、今も見ることができる。
 
近江神宮
天智天皇をまつる近江神宮を通過
 
錦織遺跡 内裏南門跡
 
錦織遺跡 第一地点
第一地点には南西側に内裏南門、南に回廊、東側に塀があったものと推測されている。
 
近江大津宮 第2地点
写真上
右の家辺りに朝堂南門か?
 
皇子山公園にて解散

希望者は県立博物館に向かう。
 
新羅善神堂
博物館への途中にある、智証大師ゆかりの新羅明神像を安置する新羅善神堂は、 足利尊氏による再興の伝えをもつ社殿で、貞和三年頃の造立とされてる。
源頼義が東北の安倍頼時を攻めるに当たって、新羅明神に詣でて戦勝を祈ったとの記録があり、その子で甲斐源氏の祖義光も新羅明神の前で元服し、新羅三郎義光と名乗ったという。
 
弘文天皇陵
博物館北側、県庁の西に弘文天皇(大友皇子)陵がある。
天智天皇の第一皇子。
壬申の乱において叔父・大海人皇子に敗北。
 
大津市歴史博物館
大津商業グランド越しに琵琶湖を望む。
 
撮影協力 坂部征彦