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佐紀石塚山古墳→佐紀陵山古墳→佐紀高塚古墳→西隆寺跡→西大寺→菅原はにわ窯公園→菅原天満宮→喜光寺→宝来山古墳→(唐招提寺→薬師寺)→大池→七条廃寺→西市跡推定地・船着場推定地

 
『続日本紀』によると、710年(和銅三)3月10日、平城京に都が遷された。平城京は東西4.3㎞、南北4.8㎞の長方形を基本とし、東側に東西1.6㎞、南北2.1㎞の張り出し部分が取り付く(外京)。さらに後になって、北西部分にも張り出しが設けられた(北辺坊)。
 平城京は平城宮の朱雀門から南に延びる朱雀大路を境に東の左京、西の右京に分かれる。京内は532mおきに大路が通り、碁盤目状の区画を形成した。大路は東西方向を「条」、南北方向を「坊」と呼び、大路に区切られた区画の呼称にも坊が用いられた。一坊は東西、南北に各々三つ通る小路によりさらに16の坪(町)に分割されていた。道路は朱雀大路の幅74mが最大で、大路にはいくつかの基準があり幅37~15m前後、小路は幅9~6mであった。平城京の設計は、下ツ道を中心軸とした上で、東西南北に碁盤目状に等間隔でひいた大路の基準線をもとにしたとみられる。道路はこの基準線から等距離の位置に側溝を掘って設定された。このため、一坊の面積は朱雀大路や二条大路などの幅広の道路に面する区画では狭く、逆に幅の狭い道路に囲まれた区画は広くなっていた。一坪の面積も同様である。この設計は平安京では見直され、道路幅が組み込まれている。
 平城京は一条から九条まで、坊は東西に各々四坊あり、左京東側の外京は二条から五条まで三坊分張り出す。以上は遷都当初からの設計であったと考えられるが、右京の北で二町分張り出す北辺坊は後に新たに付加されたとみられる。北辺坊設定の理由については、760年代以降の西大寺・西隆寺造営に伴なって宅地を新たに確保するための措置と考える等、諸説ある。なお、北辺坊の名称や、坪(町)は奈良時代の記録にはみられない。
 都城が造営され、奈良時代を通して多数の寺院が建立されたが、遷都以前にも人々の営みがあったのは確実であり、平城京の下層で旧石器時代から飛鳥時代までの遺構・遺物が確認されている。そして都の廃絶以降は、興福寺や元興寺などの大寺院を中心に賑わいを保った外京域を除いて大半が水田化した。条坊道路は水田区画や地割として痕跡で残ったり、幅を狭めつつも道路として踏襲されたりしている。今回は平城京右京を北から南に縦断し、平城京右京二坊から四坊の間に点在する遺跡を秋篠川や遺存する条坊道路をたどりながら巡りたい。同時に平城京造営以前の遺構として、点在する古墳時代の遺跡を訪問する。
 
近鉄平城駅
台風接近で参加者は56名。
まだ雨は降っていない。
 
佐紀古墳群(陵山古墳・石塚山古墳・高塚古墳)と北辺坊
 佐紀古墳群は平城京の北に展開する古墳群である。東西二群、または中央群を設けて三群で群構成の検討や個別古墳の研究等が進められている。佐紀古墳群には全長200mを超える前方後円墳が七基あり、いずれも三段築成で、主軸を南北にとり前方部を南に向ける。また、渡り土堤の有無に差はあるが、周濠を有する。この七基のほか古墳群中の多くが陵墓に指定されているため、墳丘に立ち入ることはできない。当然、それらは埋葬施設の発掘調査も行われておらず、築造時期は周濠の修築に伴う墳丘調査や過去の盗掘の記録等からの推定による。
 今回訪問するのは西群の佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)・佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)・佐紀高塚古墳(孝謙天皇陵)の前方後円墳三基である。奈良山丘陵から南に派生する中位段丘の西端に近接して築造されている。このうち陵山古墳が最高所に位置し、現在知られる古墳の外表施設や出土遺物からも先行して築造されたとみられる。近年まで佐紀古墳群中では五社神古墳(神功皇后陵)が最古と想定されていたが、埴輪や籠目土器の確認により、古墳時代前期末葉から中期初頭頃まで築造時期を引き下げる傾向にある。この結果、前期後葉と考えられる陵山古墳が佐紀古墳群で最初に築造されたとする見解が有力となっている。陵山古墳は全長207mである。幕末まで神功皇后陵とされていたが、明治初め日葉酢媛陵に治定替えされている。Ⅱ期2段階(埴輪検討会編年、以下同じ)の円筒埴輪が出土しており、形象埴輪にはさらに古い特徴がみられる。
 大正5年(1916)、いわゆる帝陵発掘事件が起こった。陵山古墳の石槨が二度にわたって盗掘され(二度目は未遂で、現行犯逮捕)、鏡や石製品などの副葬品が出土した。関係者の逮捕、調書の作成などが行われると、当時の宮内省はただちに乱掘によって荒らされた古墳の復旧工事を実施している。副葬品は記録作成後にすべて石槨内に埋め戻された。この記録により、他の古墳より埋葬施設や副葬品の様相をやや詳しく知ることができる。後円部墳頂には形象埴輪を巡らせた方形壇があった。その内部に南北方向に主軸を向ける、長さ8.55m、幅1.09m、高さ1.48mの長大な竪穴式石槨が設けられていた。石槨の両側壁は板石を小口積みにする通有のものだが、両小口には高さ、幅とも2m内外の一枚の板石を立てる。天井には矩形の切石を五枚用いている。天井石一枚ごとに内面には浅い刳りを施し、両側面には縄掛突起各二個をつくり出している。基底構造は不明であるが、巨大な切石を底石としているらしい。この埋葬施設は類例の少ない特異な構造である。副葬品には、鏡四面、石製品22点(鍬形石、車輪石、石釧、石製臼、石製合子蓋、椅子形品、高杯形品、帆立貝形品、琴柱形品、斧形品、鏃形品、管玉、不明)があった。盗掘の状況を勘案すると、これらは本来の副葬品のごく一部に過ぎないと思われる。
 順序が前後するが、平城駅出発後に最初に訪れるのは石塚山古墳とその北側に立地する三基の方墳(陪塚に指定)である。全長204mで、墳丘東側には造り出しがある。周濠は鍵穴形で、後円部の北側に渡り土堤がある。陵山古墳により制約を受け、東側の周濠は著しく狭くなっている。前方部南辺中央の拝所は文久3年(1863)の修陵の際に周濠を埋めて設けられた。盗掘の記録が複数残っており、そこから埋葬施設の内容が推定されている。おそらく長持形石棺を有し、石棺内には「太刀、短刀、鏡」や相当量の朱と管玉があったようである。また、東西に二つの石棺(石槨の可能性もあり)があったとする記録もある。埴輪には楕円筒、鰭付を含む円筒、形象があり、時期はⅡ期二段階またはⅢ期にまで下るとみられ、陵山古墳に続く前期末葉から中期初頭の築造と考えられる。
 高塚古墳は全長一二七mで、主軸を東西にとり、前方部を西に向けている。丘陵先端の南西斜面に造られているためか不整形である。周濠は鍵穴形で、七カ所にある渡り土堤については修陵による改変とする見解もある。古墳の内容を知る手がかりがほとんどなく、石塚山・陵山古墳に制約された墳形から築造時期は両古墳築造後というにとどまる。
 これら3基は結果的に北辺坊の北東隅にあたる位置を占める。北辺坊は奈良時代の後半になって設定されたとする説が有力である。ただし、どこまで北辺坊の施工が徹底されたかは不確かで、北への張り出しは一町分とする説もある。実際の発掘調査でも条坊道路が検出されない場合がある。北辺坊の実態についてはまだまだ不明な点が多い。
石塚山・陵山古墳の間を抜ける。

石塚山古墳

陵山古墳
 
西隆寺跡[右京一条二坊]
 称徳天皇の発願によって神護景雲元年(767)に造西隆寺司が設置され、西大寺東側の右京一条二坊の北西四町に建立された尼寺である。 西大寺と一体のものとして造営されたとみられる。当初は官寺として厚い保護を受けていたが、次第に衰退し、13世紀中頃には廃絶した。1971年の発掘調査で、金堂や塔など主要伽藍の位置が確定した。南大門の北に中門、金堂、講堂が一直線に並び、南大門北東に三重塔が建つ。金堂・回廊・塔の位置関係は「西大寺伽藍絵図」に描かれた西隆寺の伽藍図とほぼ等しい。逆に、複廊の回廊は中門から延びて講堂には取り付かずに金堂を囲んで閉じるようで、回廊や東門の規模、寺地東北部の様相も発掘調査成果とは異なる。現在、駐車場敷地内に発掘調査で確認された塔の基壇の範囲がコンクリートブロックで示されている。ショッピングセンター(ならファミリー)の西隅の一角には回廊の北東部分の遺構が復元展示されている。また、伽藍の中央を横断する現行道路をかさ上げして施工し、金堂の遺構を保護している。
 西隆寺の下層にあたる縄文から古墳時代の複合遺跡を近年西大寺東遺跡と仮称している。古墳時代の遺構が多数確認されている。そのうち幅20~30㎝の溝に囲まれた大型掘立柱建物は御所市極楽寺ヒビキ遺跡のそれと構造の類似が指摘されており、二つの柱穴には断面長方形のヒノキ製の柱が遺存していた。この柱は建物の壁に長辺を合わせて据えられている。これには時期を特定できる遺物が伴なわなかったが、年輪年代測定によると西暦250年以降の伐採で、古墳時代前期以前と考えられている。

ショッピングセンター(ならファミリー)
ショッピングセンター(ならファミリー)地下に復元された遺構
コンクリートブロックで示されている塔の基壇の範囲
 
西大寺[右京一条三坊・四坊]

 西大寺の創建は藤原仲麻呂の乱を端緒に、天平宝字八年(764)に孝謙上皇がこの平定のために金銅四王像と 寺院の造営を発願したことに始まる。翌年の天平神護元年(765)から造営が始まり、宝亀三年(772)頃にはほぼ伽藍が完成したようである。重祚した称徳天皇と道鏡が西大寺の造営を推進した。当時の寺域は三一町に及ぶ広大なものであったが、平安時代には再三の災害に遭って一時衰退した。鎌倉時代半ばに叡尊が寺の復興に尽力し、現在の境内はこの時整備された伽藍をほぼ踏襲している。奈良時代に伽藍のあった場所はほとんどが市街地化している。伽藍は右京一条三坊にあり、5~16坪の十二町分と推定されている。一条南大路に開く南大門を入ると東塔・西塔があり、その北に中大門を挟んで金堂院があった。薬師金堂と弥勒金堂が南北に並んで中門から回廊が延び弥勒金堂に取り付く。講堂はない。


菩提樹
主要伽藍の周囲には多数の堂宇が配され、東には最初に造営された四王院があった。現在もこの位置を踏襲して四王堂が建つ。また、東塔の基壇が残る。両塔の発掘調査では径26.7mの八角形基壇の造営途中で一辺17mの四角形基壇に変更されたことが確認されている。
 今回は、食堂院跡付近から入って西へ進み、金堂院の回廊を踏襲したと考えられる道路を通り、現在の西大寺南門へ向かって、境内に入る。なお、2009年にイスラム陶器や大量の木簡等が出土した調査地はこの南門から西150mの位置である。
 近鉄西大寺駅の南から延びる二車線道路は残念ながら西二坊大路を踏襲したものではなく、近年の敷設である。この道を通って菅原はにわ窯公園へ向かうが、実際の西二坊大路はこれより東側にあり、発掘調査でも遺構が確認されている。
 
菅原はにわ窯公園 菅原東遺跡

 近鉄西大寺検車区あたりから西の喜光寺にかけて広がる旧石器から室町時代の複合遺跡が菅原東遺跡であり、古墳時代の遺構には前期の集落跡と首長居館(に伴う可能性のある方形区画溝)、後期の埴輪窯跡等がある。遺跡一帯は後に菅原氏に改姓した土師氏の居住地として知られており、現在も菅原の町名である。土師氏には埴輪生産に関わる伝承がある。
 調査で検出した窯跡を切り取って移築展示し、史跡公園として整備したのが菅原はにわ窯公園である。菅原東遺跡の東寄りの場所にある。発掘調査で発見された埴輪窯跡は六基あり、すべて登窯で、床面は2~9面ある。操業時期は1~3号窯が六世紀前半から後半で、4~6号窯はこれに先行する。出土した埴輪はいずれもⅤ期に該当し、円筒埴輪と形象埴輪(人物・馬・鶏・家・蓋・石見形等)がある。埴輪は秋篠川の水運を利用し、大和北・中部の古墳に供給されたと推定されている。
 
菅原神社で昼食。
雨が降り始める。











百日紅
 
喜光寺(菅原寺)[右京三条三坊]

 行基により建立されたとされる寺院で、養老五年(721)に施入された寺史乙丸の居宅に精舎を建てたことに始まる。造営は養老六年(722)に開始されたようで、天平二〇年(748)には完成していたようである。行基が没したことでも著名である。行基は東大寺造営にあたり、この寺の本堂を参考にしたことから、本堂は「大仏殿試みの堂」としても知られている。ただし、明応八年(1499)に焼失しており、現本堂は室町時代の再建による。また、南大門は2010年に再建された。寺域内では発掘調査が実施されており、奈良時代の遺構を確認している。現在の喜光寺を中心に寺地は右京三条三坊九・十・十四・十五・十六坪と考えられている。
 ここから西三坊大路を下り、三条大路を東へ進んで宝来山古墳をめざす。
 
宝来山古墳(垂仁天皇陵)
 全長230m以上の前方後円墳で、佐紀古墳群からはやや距離を置き、西ノ京丘陵からのびる中位段丘に位置する。同古墳群に含めるか否かは見解が分かれる。近鉄線からの眺望はよく知られており、東から側面をよく観察できる。三段築成で、前方部を南に向ける。鍵穴形の周濠がめぐるが、南東の一部は後世に拡張されている。ここに垂仁天皇の忠臣田道間守の墓に治定されている中島がある。古墳か否かの問題はあるが、周囲にはこのほか五基の陪塚が指定されている。幕末の盗掘の記録によると、後円部に長持形石棺があったらしい。また、近年公表された埴輪はⅡ期二段階に位置づけられるようである。現状では石塚山古墳とほぼ同時期と推定される。
 宝来山古墳の東を通る西二坊大路を南下して、唐招提寺を通過し、一端秋篠川へ出て薬師寺・西ノ京駅方面へ向かう。

陪冢い号
陪冢ろ号
陪冢は号
 
唐招提寺[右京五条二坊]

 日本に戒律を授けるため天平勝宝五年(753)に招来された唐の高僧鑑真が、天平宝字三年(759)に故新田部親王の旧宅を下賜されて開いた私寺が唐招提寺である。伽藍は南大門が四条条間路に開き、その北に中門、金堂、講堂が並び、中門と金堂が回廊で結ばれる。講堂の東西に僧坊、北に食堂がある。金堂は、奈良時代建立の金堂として唯一現存する建物である。1998年~2009年まで行われた「金堂平成大修理事業」に伴なう金堂基壇の発掘調査では、現在の基壇下で創建当初の金堂基壇外装と考えられる凝灰岩・列が検出された。当初基壇は現在のものよりひとまわり大きかったこと、二重基壇であった可能性が指摘された。また、創建時基壇の版築土から出土した須恵器により、その上限年代を8世紀第四四半期に位置づけた。なお、この時の部材の年輪年代測定では天応元年(781)の伐採との結果が出ている。講堂は平城宮の東朝集殿を施入しており、寺院建築であると同時に宮殿建築の遺存例である。また、校倉造の倉二棟も奈良時代に造られたものである。
 
秋篠川
 平城京造営に伴ない、条坊に合わせ直線的に付け替えられている。秋篠川の水運は西堀川として西市や京内への物資運搬のために活用された。唐招提寺、薬師寺等寺院の造営にも秋篠川が利用されたと推測されている。
 
薬師寺[右京六条二坊]

 薬師寺はもと天武天皇が皇后の病気平癒を願い天武天皇九年(680)に発願した寺院である。藤原京右京七条二坊にあった本薬師寺がこれであり、「薬師寺縁起」によると平城京へは元明上皇が養老二年(718)に移したと伝える。しかし、平城京の薬師寺出土の木簡によると霊亀二年(712)にはすでに造営が始まっていたことがうかがえる。寺地は右京六条二坊にあり、中心伽藍は南西の四町である。六条大路に面して南大門が開く。そのすぐ北にある中門から左右に伸びる回廊は講堂に取り付き、その中に金堂と東西二基の塔が配される。薬師寺では復元事業に伴なって伽藍の発掘調査がかなりの面積で進められてきたが、平城京への移転をめぐっては長年論争があった。1990年代の本薬師寺の発掘調査成果を受け、規模・構造の比較、出土遺物の検討などが行われ、本薬師寺(藤原京)は奈良時代以降も存続し、薬師寺(平城京)は本薬師寺を範に新築されたものであることが判明した。創建以来の建物は東塔のみで、平成30年度完成を目指して現在解体修理が進められている。
 
大池

 『萬葉集』巻十五「勝間田の池はわれ知る 蓮無し 然言う君が 鬚無き如し」と詠われる勝間田池を大池と考える説が一般にも浸透している。勝間田池の所在地は不明であるが、この比定は「君」である新田部親王の邸宅が唐招提寺の地にあったことを根拠とする。大池から見える薬師寺の伽藍、遠望できる東大寺大仏殿、若草山、春日山原始林など、奈良盆地の眺望は「奈良県景観資産」にも登録されている。良好な東への眺望は、西ノ京丘陵の一角に立っていることを実感できる。
 
七条廃寺(三松寺跡)
 三松寺跡については創建時期、寺域等不明である。現在の三松寺については18世紀に建立されたとされるが、三松寺跡付近は「七条廃寺」との関連性が注意されている。現三松寺周辺から北東の天武神社西側にかけて飛鳥から奈良時代の瓦が出土し、以前は土壇の一部や礎石もあったことから、七条廃寺と称して寺院の存在が推定された。平城京造営前にも三松寺跡付近に何らかの施設があったようである。奈良医療センター内の発掘調査でも、わずかではあるが奈良時代の瓦が出土している。右京八条三坊九坪の調査では飛鳥時代の土器が出土した溝が検出されており、七条廃寺との関連が推定されている。
 三松寺から七条大路を東へ進み、再び西二坊大路に入る。さらに東へ進んで秋篠川のほとりへ進み、最終訪問地をめざす。
天武神社
現在の三松寺
 
平城京西市跡 船着き場跡(推定地)[右京八条二坊]

 平城京の東西市は10万人ともいわれる京の人口を支えた官営市場である。その位置については文献を中心とする研究により、東市は左京八条三坊、西市は右京八条二坊、各々市域は五・六・十一・十二坪の四町を占めたと推定され、ほぼ定説となっている。西市の推定は現推定地に隣接して「市田」の地名が残ること、西堀川である秋篠川に沿った地であること、西の京丘陵による地理的制約、などを根拠とする。今回の訪問地はその推定地の一角で、秋篠川沿いに碑や看板等が設けられている。西市推定地付近は奈良文化財研究所・大和郡山市教育委員会によって数次にわたる発掘調査が実施されているが、調査地付近は遺構の遺存状況も悪く、市の実状を知りうる遺構・遺物は確認されていない。奈良市教育委員会等が調査を進める東市についても同様の状況である。
 なお、秋篠川は西市推定地付近で大きく東へ曲がり、佐保川へと注ぐが、これは文禄五年(1596)、増田長盛が郡山城外堀の普請の際に付け替えた流路である。秋篠川のそれ以前の川跡は外堀に利用され、今日もその痕跡が残っている。
秋篠川縁にある船着き場跡
平城京西市跡
強い雨の中解散。近鉄九条駅に向かう。
 
撮影協力 坂部征彦