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JR木津駅→上津遺跡→安福寺 (平重衡十三重石塔)→(平重衡首洗池・不成柿)→(和泉式部墓)→木津惣墓五輪塔→岡田国神社 (昼食予定地)→馬場南遺跡 (遠望)→上人ヶ平遺跡 (上人ヶ平古墳群・市坂瓦窯跡)→歌姫瓦窯跡→JR平城山駅→ウワナベ古墳 (平塚一号墳・二号墳、 告知札)→コナベ古墳→法華寺の鳥居→近鉄新大宮駅
(距離約13km)

JR木津駅
 集合場所となるJR木津駅には、 関西本線、 奈良線、 片町線の三路線が乗り入れている。 今も昔も木津は交通の要衝である。 古代には、 木津川の水運を利用した泉津としてその役割を発揮した。 『萬葉集』 巻150の 「藤原宮役民の作れる歌」 には泉津の情景が歌われている。
・・・石走る 淡海の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧の嬬手を もののふの 八十氏河に 玉藻なす 浮かべ流せれ・・・泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手を 百足らず 筏に作り 泝すらむ・・・
 藤原宮造営の木材が、 近江国の田上山から伐り出され、 筏に組んで宇治川を流れ下り、 木津川を遡上して泉津で陸揚げされる。 さらに、 平城山を越えて、 藤原の地にもたらされた情景を歌う。 実際、 藤原宮跡出土の柱根には、 筏穴を残すものがみつかっている。
 都が藤原から平城へ移ると益々、 泉津の重要度が増した。 従来からの木材調達とともに淀川と結んだ西国からの物資陸揚げ地となる。 泉津は平城京の 「外港」 として位置づけられるようになる。 平城宮跡出土木簡にも、
 泉進□材一二条中桁 一 □ [條ヵ]  又 八 条 □ 付宿奈麻呂
の出土があり、 実際に宮中へ木材が進上されたことがわかる。
 諸大寺の造営や維持にも泉津に集積された木材が用いられた。 天平6年 (734) 5月1日の 「造仏所作物帳」 は興福寺西金堂の造営工事の収支決算報告書で、 ここにあがる西金堂は、 天平5年に光明皇后が母の県犬養橘三千代の供養のために建てたもの。 造営工事は皇后宮識の手による。
買檜久礼一千二百八十枚七百枚各十一文
五百枚各十文
直銭十三貫五百二文
自泉津運車六十四両賃銭二貫八文車別卅二文
とある。
 また天平19年 (747) 2月11日の 「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」 には、 山城国相楽郡にある荘のひとつとして、
一 泉木屋并薗地二町 東大路 西薬師寺木屋 南自井一段許退於北大河之限
があがる。 大河は木津川のことであり、 大安寺の木屋と菜園が南岸に存在した。 西側には薬師寺の木屋がならぶ。  
暑い日にも関わらず出席者144名。

 平城京へは 「平城山」 を越えなくてはならず、 幾つかのルートが想定可能だが、 今回の例会はなかでも、 奈良時代にもっとも一般的に使われたと考えられる平城京東三坊大路の北延長道路で関西本線の線路沿いの谷間の道である 「ウワナベ越え」 を体験する。
上津遺跡
JR木津駅東側を北へ懇願寺を通り、 御霊神社に到る。 境内を中心に木津川堤防を含んだ東西750m、 南北200mほどが遺跡範囲である。 1976年の発掘調査で、 奈良時代の遺物・遺構が続々と見つかり泉津に関連した遺跡となることが明らかとなった。 須恵器・土師器、 黒色土器、 奈良三彩、 墨書土器、 円面硯、 転用硯、 土馬、 製塩土器、 銭貨など、 また平城宮や恭仁京と同笵の軒瓦類の出土もある。
安福寺(平重衡十三重石塔)
平重衡は治承四年 (1180)、 南都焼き討ちを決行する。 一ノ谷に敗れ、 鎌倉に囚われた重衡は、 南都の衆徒の要求により、 身柄を送られてくるが、 「木津の辺にて斬らすべし、」 (『平家物語』) とされ、 最後を迎える。 安福寺は重衡の菩提を弔うために建立されたと伝えられ、 別に 「哀あわん堂どう 」 ともいう。 本堂の阿弥陀仏は重衡の引導仏といわれ、 境内の十三重石塔は供養塔という。 高さ4.5m。
平重衡 首洗池 不成柿
西方には重衡の首を洗ったという 「首洗池」、 死に臨んで食べた柿の種が成長したが、 幾度、 植え替えても実が成らないと伝わる 「不成柿」 がある。

草に埋もれた首洗いの池と柿木
和泉式部墓
 西へ進むと、 現在の泉大橋の袂に出る。 大型車両が行き交う幹線道路で、 京都・奈良・大阪への物流をつなぐ。 もと泉大橋は、 奈良時代の僧行基とその集団によって架けられた。 北岸には泉橋院、 隆福尼院、 泉寺布施屋が備わる。 『続日本紀』 天平一七年五月六日条に、
車駕、 恭仁京の泉橋に到りたまふ。 時に百姓、 遙かに車駕を望みて、 道の左に拝謁み、 共に万歳を称ふ。 是の日、 恭仁宮に到りたまふ
とある。 聖武天皇は前日に紫香楽宮から恭仁宮へ還幸して、 次いで平城宮に還都する途中、 泉橋に到ったのであろう。 当該の泉橋には木津川に架かるどの橋か議論があるが、 平城京への往来となれば、 泉津の橋のことだろう。 北岸は泉橋院の後身のもと律宗寺院の泉橋寺西側、 南岸は和泉式部墓西側に架かっていたとみられる。
和泉式部墓の伝承をもつ高さ1.5mの鎌倉中期の凝灰岩製五輪塔。 泉津の地名に引かれたものと思われる。
 式部墓の北東、 現在の泉大橋の南岸には大智寺がある。 真言律宗寺院で、 橋柱寺の後身という。 寺伝によれば行基の泉橋は壊れ、 弘安年間 (1278~9) には川中にのこる橋柱が時々に光を放つので、 付近に住む橘次郎大夫守安が西大寺僧慈心に話したところ、 橋柱に文殊菩薩像を刻むことを勧められる。 そこで、 像を造り本尊として一宇を建立した。 寺には重要文化財の鎌倉時代後期の獅子にのる文殊菩薩座像がある。
 泉橋寺、 橋柱寺、 また和泉式部の伝承や行基の 「遺跡」、 それと木津川の渡河点のいずれもが中世の律宗の活動と結びつく。 次の惣墓五輪塔を造立した木津僧衆とも重なる。
木津惣墓 五輪塔
惣墓は中世の村々による共同墓地で、 大和や河内にみられる。 この五輪塔が立てられた一帯は、 かつて墓標・供養塔約3300基からなる惣墓であった。 その総供養塔となる巨大な五輪塔である。 空風輪と反花座は後補。 総高241.5cm、 花崗岩製、 火・水・地輪の横幅が揃い、 火輪の軒が厚い定型的な五輪塔。 造立意図が、 明確な総供養塔として国重要文化財に指定されている。 銘文は、
(地輪東面)
同七月十五日阿弥陀経/一万辺光明真言□□/和泉木津僧衆等/廿二人同心合力/勧進五郷甲乙諸/人造立之各毎二/季彼岸光明真言/一万反阿弥陀経/四十八巻誦之可/廻向法界衆生/正応五年壬辰八月日
(地輪北面)
木津郷□□□廿坪内自/未申角木屋所一段自/藤□□未以光明真言/本 [ ] 分/□者 [ ] 時正/永仁四年八月十九日
(地輪南面)
永禄五年壬戌/妙林□□/道心禅門/妙心道心/十月二十七日/妙□/善通/妙□/□□/□□
 銘文中の正応五年は1292年、 永仁四年は1296年、 永禄五年は1562年にあたる。 地輪東面の銘文は、 「和泉木津僧衆ら22人が同心、 合力して五郷の甲乙諸人に勧進してこれを造立する。 二季の彼岸ごとに光明真言一萬遍、 阿弥陀経四八巻を誦して、 法界衆生を廻向すべし」 とある。
岡田国神社
市街地の南方丘陵の山麓に西面する。 もとは菅原道真を祭る天神社だったが、 1878年 (明治11) に 「山背国魂神」 を祀った延喜式内社の岡田国神社に比定された。 ただ 「岡田」 は木津川北岸の恭仁郷から変じた岡田郷に因むと考えられ、 現在地とは異なる。 現社殿は近世の建立で、 神域を一段、 高いところに置き本殿・摂社・小社が並び、 その下の広場の中心の能舞台を囲うように、 東に拝殿、 南北に氏子詰所 (仮屋・観覧席) が配置される。 室町期の南山城における惣社の姿を残すものとされる。 (写真下)
馬場南遺跡
2007・8年、 平城京と恭仁京の中間点にそれまで知られていなかった奈良時代の山林寺院がみつかった。 「神雄寺」 と書かれた墨書土器が多くみつかっている。 コウノヲ寺あるいはカムノヲ寺と呼ばれたらしい。 本堂と礼堂が直線にならび、 本堂の内部には須弥檀が設けられ、 等身大の四天王塑像を配置する。 また、 8千点以上の土師器皿が見つかっており、 燃灯供養が行われていた。 萬葉歌の木簡、 三彩山水陶器、 陶製鼓胴など出土遺物には、 目を見張るものがある。 主要遺構は山林に残るが、 周辺工事中につき今回は、 遠望に止める。
上人ヶ平遺跡 上人ヶ平古墳群市坂瓦窯跡
古墳群は、 中期後半から後期前半にかかる17基が調査された。 一辺10m前後の方墳が多い。 形象埴輪 (家形・蓋形・馬形・鶏形など) が備わるものもある。 このうち5号墳の規模がいちばん大きい。 直径25m、 造り出し付きの円墳である。 埴輪列と葺石が備わる。 興味深いことに周濠は、 改修されており、 瓦生産の関連施設 (貯水など) として使われたとみられている。 また、 同時期に操業した埴輪窯が台地東南端に三基、 営まれている。 一号窯では三次にわたる床の確認がある。 家形・蓋形・馬形など形象埴輪も生産している。
 市坂瓦窯群は北東側斜面に五基、 南西側斜面に三基の合計八基からなる。 二・八号窯が有牀式 (ロストル) の平窯となることが明らかとなる。 二号窯は全長3.06m、 八号窯は全長3.75m。 平城宮瓦編年の第Ⅳ期 (天平宝字元年~神護景雲三年、 七五七~七七〇) に操業の中心があった。 とくに軒丸瓦6133Aa・B・C型式と軒平瓦6732A・C型式の組み合わせは、 平城宮大膳職、 第一次大極殿地区でおもに出土している。
 上人が平遺跡には、 古墳の周濠を再利用して粘土調整施設、 生瓦を乾燥させたと考えられる大規模な掘立柱建物群があり、 官営瓦工房とみられる。
歌姫瓦窯跡
丘陵から下り、 鹿川に沿って歩く。 木津の水源ともなる河川かと思われる。 やがて歌姫瓦窯跡のある公園に着く。 川に面した西側丘陵の東向き斜面に設けられた。1952年の発掘調査では、 六基の窯がみつかっている。 燃成部の床が水平で、 床面に瓦を堤状に築いたロストル式の平窯。 軒平瓦6714A型式が出土。

瓦窯の後は残っていない。
ウワナベ古墳 平塚1号墳 2号墳、告知札
中期中葉に築かれた南向きの前方後円墳。 墳長255m、 幅の広い同一水面の盾形周濠がめぐる。 前方部前面での幅60mである。 前方部は長く、 西側には造り出しがある。 外堤の外側には外周溝もしくは二重周濠が備わる。 奈良時代には、 南側外周溝が平城京北京極大路に、 東側外周溝が山城国木津への道に変じた。 この平城京東三坊大路の北延長道路は 「ウワナベ越え」 として、 平安時代以降も京から南都へ入る幹道であった。
  『廟陵記』 (文化山陵絵図) の詞書には墳丘内や外堤に 「底無シ壺多伏セ」 とあり、 埴輪列があることに触れている。1884年 (明治17) 9月の法華寺住職近衛高鳳による大阪府知事宛の上申書に 「往古ヨリ当寺所有地ニ候処」 とした上で 「字ウワ鍋山」 (ウワナベ古墳) は元明天皇、 「字小鍋山」 (コナベ古墳) は元正天皇の山陵とする伝承があったとする。 両古墳は上地され、 翌年には陵墓参考地の前身である 「御陵墓見込地」 となった。
 東側外堤は国道バイパスに変貌した。 工事の事前調査は1969・70年に奈良国立文化財研究所 (当時) によって実施された。 前方部側東南外堤のトレンチでは外堤外周をとりまく埴輪列、 外堤の外側を区画する外周溝が確認された。 外周溝上層には奈良時代遺物が見られるが、 その堆積層から新たに南北溝が掘り込まれる。 これは道路側溝としての開削と見られている。
 外堤の埴輪は内周2483本、 外周2873本、 合計5357本と推計される。 出土埴輪の大半がヒレ付き円筒埴輪である。 残りのよい個体では六条突帯7段、 底32cm、 器高96cmに復元された。 最上段・5段に一対の小さめ三角形透孔、 四・六段に長方形スカシをもつのが特徴だ。 舟形のヘラ描き線刻をもつものもある。 窖窯焼成品でB種ヨコハケを施す。 後円部北東トレンチの葺石上からはTK (高蔵10型式に相当の須恵器杯蓋の出土、 造り出しからは須恵器の器台・・壺・杯・高杯、 土師器の小形高杯・鉢、 手づくねの魚形土製品二点、 棒状土製品が採集されている。 須恵器はおよそTK216型式に相当する。
 ウワナベ古墳から南へ約200m、 中期前葉に築かれた古墳が見つかっている。 平塚1号墳で、 削平された西向きの前方部長は18mと短め、 復元すると墳長約70mの帆立貝形前方後円墳となる。 佐紀古墳群では珍しい。 平城京条坊施工時に削平されたとみられる。 周濠は盾形か、 後円部の一部は平城京左京一条三坊十六坪の宅地内に残骸として近世まであったらしい。 埴輪と葺石が備わる。 後円部をめぐる6本の円筒埴輪が原位置にあり、 四条突帯五段、 有黒斑の野焼き焼成品である。 北側くびれ部では頭部が六個体ある水鳥形埴輪が集中する。 ほかに家形、 馬形、 襞を篦書きの沈線文様で表現した蓋形がある。 コナベ古墳築造時期に前後する営みである。 さらに南にある平塚2号墳は、 後続する中期中葉以降に築かれた。 西向きの前方後円墳で削平された状態で見つかった。 墳長73m、 後円部は東三坊大路に重複する。 四条突帯五段、 黒斑はなく窖窯焼成品の円筒埴輪、 朝顔形埴輪、 形象埴輪には家形、 蓋形、 盾形、 短甲形、 水鳥形、 動物形 (猪か) があり、 水鳥形は1号墳とは逆で南面くびれ部に集中する。 搬出の須恵器杯類はTK10型式となる。

ところで、 平城京東三坊大路の道ばたには、 告知札が立てられていた。 たとえば、 逃げた馬の捜索を依頼するものは99.3×7.3cm、 「告知」 という詞ではじまる。 木簡の釈文は、
告知 往還諸人 走失黒鹿毛牡馬一匹〈在験片目白/額少白〉件馬以今月六日申時山階寺南花園池辺而走失也 若有見捉者可告来山階寺中室自南端第三房之 九月八日
(往還の諸人にお知らせ 逃げた黒鹿毛の牡馬一匹 目印は片目が白く、 額がやや白い。 件の馬は今月六日の申の時に山階寺の南花園の池辺で逃げられてしまった。 もしか見かけたり、 捉えたりした者がいたら、 山階寺中室の南から三つ目の房まで告げるべし。 九月八日)。
 都大路を東から西、 南から北へと疾駆する馬の姿が眼に浮かぶようだ。 同位置から出土した別の木簡の年代から平安時代はじめの9世紀前半のものとみられる。 馬の特徴、 逃げた時、 逃げた場所、 対象者、 連絡先、 告知日を示す。 今の街頭掲示板と同様である。 二日前に興福寺の猿沢池の辺りで逃げてしまったという。 興福寺のお坊さんが飼っていたこの黒鹿毛の牡馬、 うまく見つかったのだろうか。
コナベ古墳
南向きの前方後円墳で中期前葉以降の築造になる。 墳長208.5m (宮内庁の調査で得られた復元数値)、 ウワナベ古墳よりはやや小規模で墳丘は三段築成、 前方部前面での幅38mの盾形周濠は、 同一水面にめぐる。 東西くびれ部には非対称の造り出しがあり、 通例に比べると著しく長い。 2009年に墳丘保護工事の事前調査が宮内庁により行われた。 西側造り出しでは、 列がずれて鍵手状になる埴輪列の検出、 蓋形埴輪を載せる大型円筒埴輪、 南側に一段と高まる平坦面上の埴輪列が姿を現した。 前方部東側では排水施設がみつかった。 最大幅約50cm、 地山と墳丘盛土の境目に設置されていて、 墳丘裾に近い位置まで雨水等を導いて墳丘下に浸透させる機能があったのではないかとみられる。 墳丘を維持するための古代土木技術の知恵である。
 埴輪は円筒、 朝顔形、 壺形、 蓋形、 家形、 柵形など。 黒斑の観察があり、 大半が野焼きとみられる。 円筒埴輪は四条五段構成で、 第一段が高い一群は器高七三センチ前後、 円形のスカシ孔をもち、 底径は22~25cmが多い。 突帯間隔設定には凹線が用いられる。 一部の埴輪に窖窯焼成品の可能性がある点、 外面最終調整はBb種ヨコハケが最も多いが、 Bc種ヨコハケもみられる点から須恵器編年の大庭寺段階からTK (高蔵)73型式段階併行期に位置づけられる。 埴輪以外では、 笊形土器・土師器 (高杯・壺) が西側造り出しに、 また墳丘築造時期より明らかに新しい須恵器の出土もある。
法華寺の鳥居
国道24号線と一条通りの交差点、 一条高校の南東の道際に簡素な覆いが架かる栴檀の大きな切株が残されている。 遠方からでもよく目立つ木であったに違いない。 「法華寺の鳥居」 とは、 聞き慣れない方もいるかもしれないが、 これは法華寺神社の鳥居のことで、 かつてこの辺りにあったらしい。 法華寺神社は、 法華寺の鎮守社で九世紀に 「法華寺坐神社」、 「法華寺薦枕高御産栖日神」 として登場する。 金堂の西側にあり、 社殿は東向き、 一条大路のライン上に位置した。 鳥居も一条大路上にあったとみられ、 それも東三坊大路との交差点付近かと考えられている。 ことに十二世紀以降、 その名は南都をめぐる重要な場面に出てくる。 たとえば、 治承4年12月の南都焼き討ちの様子を描く 『長門本平家物語』 では、 「三千余騎の軍兵を南都へ差向らる。 (中略) 三千余騎を二手にわけて、 奈良坂・般若寺へ向ふ。 (中略) 重衡朝臣は法華寺の鳥居の前に打立ちて、 南都をやきはらふ。」 また安福寺の項でふれたが、 三位中将の重衡は一の谷合戦で捕えられ、 元暦2年 (1185) 六月に木津で斬首され、 首は南都に移送された。 そして、 「三位中将の頸、 武士ども南都の大衆中へ送りければ、 大衆請取て、 東大寺・興福寺の大垣を三度めぐらして、 法花寺の鳥居の前にて、 治承の合戦の時、 ここに打立て南都を亡したりし者とて、 鉾に貫きて高く差あげ、 人々に見せて、 般若野のそとばに釘付にこそしたりけれ。」 とある。 興福寺を中心に平城宮から東方に発展する中世都市・奈良の境界領域を明示する意味合いを帯びて、 「法華寺の鳥居」 は広く南都の人々に認識される存在であった。

近鉄 新大宮駅にて解散16時過ぎ
撮影協力 坂部征彦