yushikai.jpg

城乃越遺跡→比土遺跡→殿塚古墳→女良塚古墳→毘沙門塚古墳→美波田神社→馬塚古墳→貴人塚古墳→近鉄美旗駅


「昨年、 奈良盆地東南部の桜井市脇本遺跡で、 5世紀の石垣が見つかりましたことは記憶に新しいところです。 脇本遺跡の所在する奈良盆地東南部は、 東方に向かう主要幹線の通る場所でもあります。 脇本遺跡から東へ向かった先にある伊賀盆地南部の美旗古墳群を訪ねます。
 美旗古墳群はこれまでにわずかに3基しか発掘調査が行われておりませんが、 墳形や断片的に出土している遺物などから、 4世紀末から6世紀にかけて継続して築かれた古墳群と考えられています。
 かつて50年以上前に発掘調査されたわき塚一号墳から出土した遺物は三重県有形文化財に指定され、 現在は城之越遺跡学習館で展示されています。
 今回は、 美旗古墳群の現地見学だけではなく、 わき塚一号墳の出土品の見学と合わせて周辺の遺跡も巡ります。 古墳を取り巻く地域的環境を考える機会にしていただけると幸いです。
 さて、 古代律令期には伊賀国は四郡から成っており、 このうち国名と同じ 「伊賀」 郡は中心的な位置を占めていたと推定されます。 その伊賀郡を貫通する川が木津川であり、 木津川上流域は阿保盆地、 比土・古郡盆地、 神戸盆地と分流の比自岐盆地などから形成されています。
 集合場所の比土駅は比土・古郡の小盆地のほぼ中央部に位置しますので、 北東方向の山裾に向かいます。 付近は田園地帯ですが、 史跡整備で植樹された城之越遺跡の木々も大きくなってきて周囲と調和しつつあります。」
伊賀鉄道 比土駅
集合地点は伊賀鉄道比土駅近くの城ノ越(じょのこし)遺跡。
参加者は98人。
一昨年から伊勢を案内いただいている川崎先生に今回は美旗古墳群周辺を案内いただく。
城之越遺跡
「古墳時代の水辺の祭祀遺跡です。3カ所の石組みの井泉から湧く水を石貼の大溝に流す遺構や井泉から約100m東側に2棟の大型四面庇建物などが確認されています。 山裾には直線的な溝が掘削されており、 外部と隔てています。
 発掘調査時にも井泉から水が湧いていました。 井泉のうちの一基は水を溜めるために、 板を組み合わせてせき止めています。 そのうちの一枚は板の厚さ10㎝以上もあり、 樹皮もついたまま残存していました。
 大溝からはモモ核や小型丸底壺といった祭祀的な要素の強い遺物が出土しています。 大溝から出土している木製品は農作業や土木作業に用いられる鍬や鋤といった土木具類が一切出土せず、 弓や剣といった武器やその形代・机などの調度品類などが出土しています。 なお、 「庭」 と墨書された奈良時代の土器が出土していることから、 奈良時代まで庭という意識が働いていたと推定されています。
 公園に植樹されている樹木は、 花粉や種実の分析によって確認されているクヌギやサクラなどの当時の植生を示す樹木と四季折々の鑑賞用の木々があり、 木に表示されたプレートで当時の植生を反映した樹木であるかどうか確かめられます。」
大型四面庇建物跡
板を組み合わせて水をせき止め
遺跡のそばを走る伊賀鉄道
忍者の顔がデザインされている。
城之越学習館
城之越遺跡と比土遺跡の解説を聞く
城之越遺跡 B地区
「城之越遺跡では、 山を隔てて南東部にも大型の四面庇付き建物が2棟確認されています。 今日ではひっそりとした位置にありますが、 東へ向かって谷が入り込んでいる場所で南面しています。」

写真 中央奥が城之越遺跡B地区
    尾根左先端が城之越古墳群
    城之越遺跡は丘の向こう側
城之越古墳群
城ノ越遺跡東側にある城ノ越古墳群は後期の群集墳
比土遺跡

伊賀神戸駅北側で説明を聞く。
線路の南側が比土遺跡。
「比土・古郡盆地の南部の山裾に位置します。 乗り換え駅の伊賀神戸駅の南側に相当する位置であり、 大阪方面行きの電車ホームからは地形がよく分かります。 江戸時代の文久2あるいは3 (1862あるいは3) 年に突線鈕式銅鐸 (比土銅鐸) が出土しています。 銅鐸は高さ128.8㎝の大きさで、 水田の畦直し中に出土したという記録もあります。 なお、 木津川上流部では、 比土銅鐸以外にも上流側の阿保盆地で柏尾銅鐸が、 下流側の下友生でも出土しており、 小盆地単位で銅鐸を保有していたことが知られます。」
殿塚古墳
「美旗古墳群のなかで最も古い古墳です。 全長98mの前方後円墳です。 二段築成で後円部東側のくびれ部近くには造り出しがみられます。 また、 葺石が確認されており、 短甲形埴輪・朝顔形埴輪・円筒埴輪が出土しています。 位置的には、 西の方面から古墳群を歩くと美旗台地の奥まった場所にありますが、 高台で比土・古郡盆地から最も近い場所に築造されています。
 殿塚古墳の陪塚であるわき塚1号墳・2号墳は、 昭和36年の集中豪雨の影響で近鉄線の線路が地滑りによって押し出されて隆起したために緊急調査されています。 (『古代学研究』 66)
わき塚1号墳 は一辺23m、 高さ2mの方墳で、 葺石が葺かれていました。 銅鏡・短甲・衝角付冑・鉄鏃・鋳造鉄斧・竪櫛などが出土しています。 出土状況からは遺骸の埋葬施設ではなく、 副葬品の埋納施設の可能性が考えられています。
 わき塚2号墳は一辺26m、 高さ1mの方墳で、 粘土槨の埋葬施設が2基確認されています。」

古墳は土葬も残る墓地に隣接。
入り口に立つ六地蔵
女良塚古墳

伊賀市から水を引く新田用水に沿って歩く
「殿塚古墳から南西に約200m歩きます。 ようやく森から出て周囲が見渡せるようになります。
女良塚古墳は全長100mの帆立貝式古墳です。 後円部は三段築成で、 前方部は二段築成で、 葺石が葺かれています。 周囲には、 周濠が全周しています。 なお、 奈良県乙女山古墳の墳形を縮小した形態を呈していることが知られています。 後円部の墳頂部から3基の家形埴輪が出土しています。 5世紀前半の築造とされています。」
写真上 墳丘全景と周濠の名残りの田圃
 続いて、 近鉄線上を西へ渡ります。

写真 近鉄陸橋から殿塚古墳を望む。
毘沙門塚古墳
「全長65mの前方後円墳です。 周濠が巡り、 くびれ部の両側に造り出しがあります。 後円部には盗掘坑があり、 板石の散乱状況から主体部は竪穴式石室と推定されています。 また、 毘沙門塚古墳出土と伝わる長さ176㎝、 厚さ8㎝の木板もあります。」

「女良塚古墳と毘沙門塚古墳の間には、 毘沙門塚古墳の陪墳の矢羽塚古墳 (方墳) もわずかに残存しています。」

田圃に残る果樹園が墳丘跡か?
美波田神社(美波多神社)
「毘沙門塚古墳の西部に位置する美波田神社を経由し、 近世初瀬街道を通って馬塚古墳に向かいます。 今回歩く近世初瀬街道新田宿は藤堂藩の施策で新田地区に通行人を通すために街道を変更した地点で、 それ以前は小波田越えでした。」


美波田神社で昼食休憩。
伊勢神宮、天神、天満宮、三輪、三島、稲荷などの祭神の中に加納直盛の名がある。
加納直盛は、江戸前期の伊賀上野藤堂藩の奉行。付近の灌漑用水工事を行い新田を開発。享保16(1731)年村民が加納神社を建て後に美波田神社に合祀とのこと。
初瀬街道

街道沿いには旧家ときれいな花が
タチアオイ カシワバアジサイ
馬塚古墳
「全長142mの前方後円墳です。 美旗古墳群中で最大の古墳であり、 三重県下では2番目の規模の古墳です。 後円部に対して、 前方部がやや短く、 女良塚古墳ほどではありませんが帆立貝形を呈します。 このように古墳群中で規模の大きな古墳が帆立貝式古墳の形態をとることが美旗古墳群の特徴です。
 後円部は三段築成、 前方部は二段築成で、 葺石が葺かれており、 周濠が全周しています。 後円部には大きな盗掘坑があります。
 後円部墳頂部に登ると、 伊賀盆地と伊勢平野を隔てる布引山脈から比土・古郡盆地、 名張市内のベッドタウンから倶留尊山までの広範囲が一望できます。
 出土遺物は円筒埴輪や家形埴輪のほか冑形とされる埴輪などがあります。 また、 馬塚古墳出土と伝わる須恵器もあります。」










写真下 盗掘坑
 「馬塚古墳の北東部には、 陪墳の小塚古墳が残っています。 現在はわずか一基しか残っていませんが、 かつては多数存在していたようで、 そのうちの一基である玉塚古墳は馬塚古墳の南西一100mの場所に位置した一辺34mの方墳です。 墳丘からは多数の円筒埴輪や家形埴輪が出土しており、 墳頂中央部の斜面から鉄刀15口が木板上に置かれて出土しています。」

写真 馬塚古墳から王塚古墳の跡地付近を望む
貴人塚古墳
「 周囲は水田地帯ですので、 貴人塚古墳が水田に浮かぶようによく見えるように思いがちですが、 帰路に後ろを振り返ってみてください。 高低差がありますので、 地形的に低い西側からは思いがけず見えません。」

写真下 馬塚古墳墳丘から貴人塚古墳を望む。
馬塚古墳から初瀬街道に戻り南下。貴人塚古墳を目指す。

切り通しの上に常夜灯が残る。
土手の上は用水路。写真手前道路の下をサイフォンの原理で潜り抜けている。
「全長55mの前方後円墳です。 埋葬主体部は横穴式石室で、 後円部の南側に開口しています。 墳形は後世の開墾によっていびつな形状を呈しており、 築造当初の形態から小さくなっています。 周濠規模の確認調査の際に、 須恵質の円筒埴輪や須恵器などが出土しています。」
帰路、旧近鉄伊賀線の鉄橋跡に立ち寄る。
現在の伊賀鉄道は伊賀神戸からJR上野駅までだが、1964年9月30日までは伊賀神戸から西名張まで伸びていた。
美旗駅近く
ソバの花
14時30分に近鉄美旗駅で解散。
撮影協力 坂部征彦