会下山遺跡→森銅鐸出土地点→生駒銅鐸出土地点→保久良神社 (銅戈出土地点)→本山遺跡 (本山銅鐸出土地点) →北青木遺跡 (銅鐸出土地点) →阪神電鉄本線 青木駅
「銅鐸出土地をめぐる」 は、 展示室で観ることの多い銅鐸を出土地から検討するシリーズです。 今回は第三弾です。 第二弾で訪れた兵庫県神戸市灘区の桜ヶ丘銅鐸出土地点の東側で、 前回山の上から見学した平野部出土の銅鐸と六甲山脈南麓から出土している銅鐸の続きを見学します。 この地域は、 有数の銅鐸出土地点です。 今回訪れる神戸市森銅鐸、 生駒銅鐸、 本山銅鐸、 北青木銅鐸のほかに、 西宮市津門銅鐸、 芦屋市堂ノ上銅鐸、 神戸市 (伝) 大月山銅鐸、 そして前回訪れた神戸市渦ヶ森銅鐸、 桜ヶ丘銅鐸と九地点・遺跡、22点の銅鐸が出土しています。 一地点・遺跡から数多く出土することはありますが、 これほど密集して、 多くの銅鐸が出土している地域はあまりありません。 しかも、 埋納場所が山の斜面から沿岸部の平野部までさまざまです。 第二弾同様、 扁平鈕式銅鐸の出土地を見学します。 どのような場所 (埋納地点からどこが見えるのか、 見通しが良いか・悪いか。 丘陵の最高所か・中腹か、 など) に埋納されていたのかを現地で確認します。 今回めぐる兵庫県内での銅鐸の発見は、 『日本紀略』 前篇十四、 嵯峨天皇弘仁12年に 「五月丙午。 播磨國有人。 掘地獲一銅鐸。 高三尺八寸。 口徑一尺二寸。 道人云。 阿育王塔鐸。」 と記載されています。 弘仁12年は821年にあたり、 『扶桑略記』 の天智7 (668) 年に近江・崇福寺で発見された記事、 『続日本紀』 の和銅6 (713) 年に大倭国宇陀郡・長岡野地で発見されたという記事に次ぐ古い記録です。 八二一年以来銅鐸の発見数は増加し、 現在のところ61口出土・発見されています。 現在全国で確認されている銅鐸の一割以上にあたり、 全国一の出土・発見点数を誇ります。 県域が広いことや発見の契機となる開発行為等が多いことなどがその要因と考えられます。 兵庫県は、 淡路、 摂津、 播磨、 丹波、 但馬の五地域からなり、 今回訪れる地域は摂津地域になります。 この地域は大阪平野の西端に位置し、 50点以上出土しています。 以前、 見学した川西市加茂遺跡に隣接して出土した栄根銅鐸、 同じく以前見学に訪れた西宮市津門銅鐸などは平野部でしたが、 今回訪れる場所は六甲山脈の南側斜面となります。 現在のところ、 桜ヶ丘銅鐸出土地点から東側 (芦屋市側) へは数㎞間隔で銅鐸が発見されていますが、 反対側の西側では (伝) 大月山銅鐸推定出土地点を除くと六甲山脈を越えた神戸市垂水区や加古川市から出土しているだけで、 そこまでの間には銅鐸は発見されておりません。 | |
阪急芦屋川駅 | |
北井先生の「銅鐸出土地をめぐる」シリーズ第三弾。 第二弾で訪れた兵庫県神戸市灘区の桜ヶ丘銅鐸出土地点の東側で、 前回山の上から見学した平野部出土の銅鐸と六甲山脈南麓から出土している銅鐸の続きを見学。 参加者は87名。 | |
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会下山遺跡 | |
![]() 会下山遺跡へ出発 | 会下山遺跡は、 六甲山地の前山支脈の尾根と一部の傾斜地に位置する。 標高160mから200mをはかる高所に営まれた弥生時代中期・後期の高地性集落です。 1956年から1961年にかけて発掘調査されました。 遺跡からは阪神間の市街地が一望でき、 南は大阪湾を経て紀伊半島や和泉地域の山々を、 東は西摂平野及び千里丘陵、 大阪や奈良の山並が見られます。 弥生時代中期に集落がつくられ、 後期に盛行します。 西日本における高地性集落の典型として著名です。 検出された遺構は、 住居・祭祀場・屋外炉・倉庫・墓・柵・廃棄場跡などで、 全て狭い山頂尾根部につくられていました。 住居跡は、 7箇所で八遺構確認されました。 標高182m付近に位置するF住居跡は、 住居跡群の中で最高所に位置し、 床面積五六平方mと最大です。 Q地区・S地区の祭祀遺構に近接し、 他の住居群とはP地区の柵列で分けられています。 磨製石鏃、 銅鏃、 鉄器 (斧・ヤリガンナ・釣針など) は当住居固有・特徴的なものです。 武器・生産用具でも特殊なものを集中的に保有していることから、 この住居跡は集落全体の集会所的施設・集落統轄者居住施設と想定されています。 住居跡以外では、 祭祀場が最高所に配置されること、 墓域が集落の東縁に位置するなど計画的に配置されていることがうかがえます。 出土した土器の多くは在地産ですが、 約1パーセントの中河内地域産搬入品、 約9パーセントの西摂地域平野部産搬入品を含んでおり、 地域内及び地域間の交流を認められます。 石鏃、 石錐、 柱状片刃石斧、 磨製石鏃、 磨製石剣、 砥石、 石錘、 石弾、 叩石などの石器や銅鏃やガラス小玉、 さまざまな鉄器なども出土しています。 特筆すべき遺物に漢式三翼鏃があげられます。 現存長4.4cmで、 断面形が三角形をしています。 「弩」 の矢の先端につけられるものですが、 これが実際に使用されたかどうかわかりません。 中国・朝鮮半島からの搬入品と考えられます。 現在、 列島内では長崎県壱岐市の原ノ辻遺跡や北部九州地域で多く分布しています。 近年では纒向遺跡から三翼鏃に似た木鏃が出土しています。 |
![]() 会下山遺跡への登り口 | |
![]() 会下山遺跡F地区住居跡 | |
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![]() | Q地区祭祀場跡を横目にもう一登り |
![]() | S地区祭祀場跡へ辿り着く |
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![]() | J地区高床住居跡 触覚模型で説明を聴く |
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芦屋市教委調査事務所 | |
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![]() | 芦屋市教委調査事務所で見学 三翼鏃レプリカ |
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![]() | 昼食休憩 |
森銅鐸出土地解説 | |
![]() | 森銅鐸は、 東灘区森北町で造成工事中に発見されました。 出土地点は六甲山脈南斜面の標高50mの山腹で、 大阪湾を眼下に望む眺望の良い所です。 弥生時代中期の坂下山遺跡に近接しています。 外縁付紐2式の四区袈裟襷文銅鐸で、 総高33cm、 鐸身23.2cm、 裾径16.7cm×約10cm、 重量は2.173kgあります。 内面凸帯は一条で、 若干摩滅しています。 A面下段右区に人物が三人描かれています。 香川県出土の銅鐸と同笵関係が確認されています。 現在、 東京国立博物館に所蔵されています。 生駒銅鐸は、 東灘区本山北町の神戸女子薬科大学構内から薬草園造成作業中に出土しました。 出土地点は六甲前山尾根部が急傾斜する南斜面で、 標高120mの地点です。 谷を一つ隔てた西側には銅戈一本を出土した保久良神社遺跡があり、 同じく谷を一つ隔てた東側には森銅鐸出土地点があります。 本銅鐸の出土地周辺には、 東西2.4m、 南北1.6mの範囲に十数個の石組があり、 この中でも特に大きな1m大の石の西側から銅鐸が出土したとされています。 石組と銅鐸の関係は明らかではありませんが、 埋納と関係があるかもしれません。 扁平紐式の六区袈裟襷文銅鐸で、 総高53.2cm、 鐸身38.3cm、 裾径26.3cm×19.8cmです。 鐸身部は、 斜格子文帯と連続渦巻文帯の二段構成で4回横に重ね、 最下帯は内向する鋸歯文を重ねています。 縦は斜格子文帯を中央・左・右に三帯配し、 6区画に仕切っています。 現在、 国立歴史民俗博物館に保管されています。 |
![]() 森銅鐸出土地の下の公園で説明を聞く。 | |
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![]() | 神戸薬科大の構内で生駒銅鐸が出土 |
保久良神社遺跡 | |
![]() | 保久良神社遺跡 (銅戈出土地点) は、 標高182m (比高差150m) の保久良神社境内地域と、 標高280m (比高270m) の金鳥山南尾根地域に分かれています。 弥生時代中期後半に盛期を迎えます。 保久良神社境内地域とその周辺には巨石群があり、 樋口清之により 「磐境」 と設定されています。 巨石群は一二群あり、 そのうちの九群から一本の銅戈と2個の石鏃が多くの木炭と共に検出されました。 社殿の南西約100mの斜面地で、 平野部・海の眺望がよいところです。 標高338mの金鳥山山頂から保久良神社にのびる尾根には、 山頂を除く全体に弥生土器が分布しています。 保久良神社社殿の北側100mの地点で調査が行われ、 東西5m、 南北3m以上の平坦面と柱穴などが検出され、 弥生時代中期後半の壺が出土しました。 両地域から出土した土器は、 弥生時代中期後半のものが中心です。 壺・甕・高坏・器台と各器種があり、 石器も太型蛤刃石斧・扁平片刃石斧・石鏃などが採集されています。 銅戈は、 全長24cm、 関幅7.5cm、 重量73gです。 両刃に著しい刃こぼれが認められます。 樋に綾杉文が認められ、 神戸市桜ヶ丘出土の銅戈と類似しています。 現在、 京都国立博物館に保管されています。 |
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![]() | 立岩と呼ぶ祈願岩(磐座) 神生岩と呼ばれる大きな磐座 |
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本山銅鐸出土地 | |
![]() | 本山銅鐸は、 六甲山脈南麓の海岸部に立地する弥生時代を通して営まれた集落遺跡から出土しました。 平成元年に行われた第12次調査で埋納された銅鐸が一点出土しました。 銅鐸は小坑に鰭を約45度傾けて、 横たわった状態で出土しました。 扁平鈕式新段階の四区袈裟襷文銅鐸で、 鈕は一部を除いて欠けていました。 残存高は16.3cmで、 鈕の欠損部分を復元すると約21.8cmとなります。 文様が鮮明で、 鋳上がりのよい銅鐸です。 本鐸は、 中期の遺物包含層を切り込む土坑から出土していることから、 本鐸が埋納、 あるいは廃棄された時期は弥生時代中期以降と考えられます。 |
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保久良神社鳥居を望む | |
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北青木遺跡 | |
![]() | 北青木遺跡は、 六甲山脈南麓の海岸部の砂堆上に立地する集落遺跡です。 平成18年度に行われた第5次調査で埋納された銅鐸が一点出土しました。 銅鐸埋納坑は、 長径約30cm、 深さ15cmの不整楕円形の土坑 (三次埋納坑) で、 この中から鰭を上下に立てて鈕を東に向けた状態で銅鐸が出土しました。 土層の観察所見から、3回の埋め戻しが行われたと確認されています。 1・2次埋納坑は、 長径115cm、 短径72cmの不整楕円形プランで、 深さは38cmありました。 この土坑底面から銅鐸の鈕の破片が出土しました。 銅鐸は扁平紐式新段階の四区袈裟襷文銅鐸で、 鈕の上部が欠損しており、 残存高19.2cmでした。 1・2次埋納坑から出土した鈕の破片は、 直接接合しないため同一個体の破片かわかりませんが、 同一個体である可能性は高いと考えられます。 北青木遺跡の第3次調査では、 長さ5.1cmの舌状銅製品が出土しています。 本鐸と関連するかわかりませんが、 大きさから本鐸に伴う可能性があります。 六甲山脈の南側では、 山腹からの出土例が多くを占めますが、 北青木銅鐸や本山銅鐸の出土により、 これまで例外的と考えられてきた平地部の銅鐸 (西宮市津門銅鐸・堂ノ上銅鐸) が例外的でないことが明らかとなってきました。 北青木銅鐸出土地は踏切東の線路内 |
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