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保久良古墳→正福寺古墳→ジヲウ古墳(坂合黒彦皇子墓)→大岩山古墳群石神古墳 (大岩1号墳)→石塚遺跡→桜ケ丘遺跡土田遺跡→越部古墳(1号墳.2号墳)→越部ハサマ遺跡→稲荷山古墳→槙ヶ峯古墳→六田駅

 
 吉野川は、 紀ノ川の中流域から上流域を差し、 紀伊山地北斜面と、 高見山から竜門山系を流域とした近畿地方でも有数の河川である。 この河川の流域は、 中央構造線外帯にあたり、 大部分は吉野郡域にあたる。 同じ奈良県でも大和川水系とは異なり、 川の流れは幾度も屈曲し、 流域には河岸段丘は発達するものの広い平野は形成されず、 急峻な山並みと丘陵が迫っている。 このような自然環境に古くから盆地とは異なる文化が育まれ、 時には神聖視される場でもあった。
 このような吉野川北岸、 大淀地域には旧石器時代は兎も角、 縄文時代から現代に至るまで面々と人々の営みが認められ、 その考古学の歴史をひも解くと野渕竜潜の 「大和古墳墓取調書」 (明治26年) に記載された大字今木、 坂合黒彦皇子墓、 別名新いま漢きの南あやのの墓の紹介が最初である。 以後、 奈良県史蹟勝地調査会 (大正2年) には 高橋健自.関野貞.佐藤小吉によって吉野郡北6田の古墳の調査が実施されている。 また森本六爾もこの地域の遺跡について 「大和大淀町の石器時代遺跡に就いて」 『歴史と地理』 (大正12年) で下渕遺跡 (現 桜ケ丘遺跡) を紹介している。
 昭和2年には上田三平が比曽寺跡の国史跡指定のために調査を実施し、 「奈良県における指定史蹟」 (昭和2年) としてまとめている。 和歌山県の下村正信 (羯磨正信) は 「大和発見の玄室内に石棚のある古墳について」 (昭和7年) として槙ヶ峯古墳を 『上代文化』 に紹介している。 島本一は、 「北六田の遺跡、 遺物について」 『大和石器時代研究』 (昭和9年) に寄稿している。 末永雅雄は 『宮滝の遺跡』 (昭和19年) の中で大字常門出土の弥生式土器を紹介している。
 戦後には大淀桜ケ丘遺跡が、 文化財保護法が施行された同年の大淀第2小学校の校庭工事による縄文土器の発見から調査 (昭和25年) が実施され、 縄文前期の住居跡が検出された。 さらに翌年 (昭和26年) には北六田遺跡において調査が実施され、 桜ケ丘遺跡と同時期の縄文中期の土器が検出された。
 その後長らく大淀町地域では調査が実施されず、 昭和60年のゴルフ場開発において大岩古墳群の調査が実施され、 古墳時代後期の横穴式石室が初めて調査された。 平成4年には大型店舗の進出によって土田遺跡第一次調査が実施され、 縄文~飛鳥時代の遺物.遺構が検出された。 また同年馬佐の木材組合地では馬佐蔵坂遺跡が調査され、 弥生時代の遺物、 古代から中世の火葬墓が発見された。
 平成8年には保育所建設に伴い越部ハサマ遺跡の調査が実施され、 縄文時代晩期の墓、 弥生時代中期の住居跡が検出された。 平成9年には道路工事の危機に晒された越部の古墳の調査が実施され、 古墳時代後期の横穴式石室から金銅製単鳳環頭が出土した。
 その後大淀桜ケ丘小学校構内の大淀桜ケ丘遺跡の発掘調査 (平成13年) が実施され、 縄文土器が検出された。 平成14年には大型店舗のさらなる進出によって土田遺跡第2次調査が実施され、 縄文時代~奈良時代の遺構.遺物が検出され、 大規模で重要な遺跡であることが判明した。 平成16年には個人住宅の建築に伴う調査が佐名伝遺跡で実施され。 古墳時代後期の住居が検出された。 そしてその後は大淀町内での調査は主に町教委が実施することになり、 桜ケ丘遺跡、 比曽寺跡、 佐名伝遺跡等で調査が実施されているが、 開発が鈍化したせいもあり、 いずれも小規模の調査である。 しかし、 文化財への取り組みは盛んで、 最近では大岩古墳群の石神古墳、 槙ヶ峯古墳、 保久良古墳が測量.確認調査をへて県.町指定文化財として指定し保護されている。
 
近鉄吉野口駅
起伏に富んだ健脚向けコースに134名が参加。
案内は西藤館長。
 
保久良古墳
この古墳は、 今木地区小字津角山の丘陵先端に所在し、 明治27年 (1894年) の 『大和志料』 (刊行大正3、4年) にて 「健王もがり塚」 に比定され、 それが現在も地元では伝承されている。 この古墳は径約15m、 高さ4mの円墳であり、 墳丘南側から西側裾部には外護列石が巡る。 埋葬施設は南に開口する横穴式石室であり、 石室石材には花崗閃緑岩が用いられている。 石室は全長約9.5m、 玄室長約3.5m、 幅約1.5m、 高さ約0.8m (現状)、 右側に小さな袖部が認められる。 羨道は約6m、 幅約1mで、 羨道が長いのが特徴である。 石室内には吉野川流域に産する結晶片岩の板石が認められ、 組み合わせの石棺の存在がうかがわれる。 また石室内から琥珀玉も発見されている。 この古墳の時期は7世紀前半と考えられている。
 
正福寺古墳
 この古墳は、 今木地区中垣内の浄土宗正福寺の南側にある横穴式石室を主体部とする古墳であり、 墳形は円墳と思われるが、 規模は不明であるが石室長を考えると約12m余りである。 埋葬施設の横穴式石室は、 南東に開口し、 無袖の玄室に羨道が取り付く。 石室の全長は約5.5m、 幅約1.2m、 高さ約1.2mである。 保久良古墳同様に石室幅が狭く、 築造時期は7世紀後半頃と考えられている。
 
ジヲウ古墳(坂合黒彦皇子墓)
 ジヲウ古墳を横目に見て進む。
 現在、 宮内庁により坂合黒彦皇子墓として管理されている。 安政年間 (1850年代) に今木字ジヲウの地に比定された。 『日本書紀』 雄略即位前紀に坂合黒彦皇子は安康天皇 (坂合黒彦皇子の弟) を殺害した幼い眉輪王をかばって大泊瀬皇子 (雄略天皇) の怒りを買い、 彼に味方した円大臣や眉輪王とともに殺され、 「新漢槻本南丘(いまきのつきもとのみなみのおか)」 に合葬された記載されており、 それを比定してこの地の古墳に坂合黒彦皇子墓を定めているが、 考古学では不明と言わざるを得ない。
 
大岩公民館で昼食。
 
石神古墳(大岩古墳群大岩1号墳)

 保久良古墳から北東に1.5㎞の大岩地区に所在する古墳群の1基である。 この古墳は、 昭和60年 (1985年) にゴルフ場の造成に伴い奈良県立橿原考古学研究所によって4基の古墳が発掘調査された。 その結果、 6世紀後半に4号墳、 7世紀に入り石神古墳 (大岩1号墳)、 5号墳が築造されたことが確認された。 そのような中、 最も規模の大きな石神古墳が、 ゴルフ場の理解のもと平成24年に大淀町指定文化財に指定され、 さらに平成23年度には県指定文化財として指定された。
 この古墳は大岩地区の北端標高約280mの丘陵頂部に築造された径2.5m、 高さ約4.3mの円墳である。 石室は花崗岩の自然石を使用し、 玄室と羨道から成り、 全長約10mである。 玄室は長さ4.2m、 幅2.0m、 高さ2m、 羨道は長さ5.8m、 幅1.5m、 高さ1.6mである。 石室の形態は盆地内の横穴式石室に共通するのが特徴であるが、 石室内からは緑泥片岩製の石棺材が検出され、 吉野川流域の特色を示している。 また装飾付き須恵器 (子持器台) が出土しており、 7世紀でのこの種の須恵器は全国的にも珍しい。
 
石神古墳から望む山並。


車坂峠へ。
 
石塚遺跡
 この遺跡は、 車坂峠の頂部に所在する径約30m、 高さ7mの積石塚である。 この塚は、 付近の地層に包含する握り拳から人頭大の石を積み上げて造られている。 かつて当地に建っていて鈴ヶ森行者堂に移された五輪塔の地輪の銘文から鎌倉時代後期に付近に寺院等の施設が存在したことがうかがえ、 この石塚が吉野、 大峯信仰の宗教行為の一環として形成されたと思われる。
 
大淀町役場でトイレ休憩
 
越部古墳(越部一号墳.越部2号墳)
越部古墳を左に見て進む。
 越部川東方の丘陵南端に所在する古墳群である。 平成9年道路拡張工事に伴い発掘調査が実施された。 1号墳は径約24m、 高さ5.6mの円墳であり、 南西に開口する片袖式の横穴式石室を主体部としていた。 石室は全長8.3m、 玄室長3.6m、 幅1.9m、 現高約1.5mの片袖式の石室であった。 2号墳は径約16mの円墳であり、 南西に開口する片袖式の横穴式石室を主体部とし、 石室は全長4.8m、 玄室長3.1m、 幅約1.6m、 現高約1.4mであった。
 この2基の古墳の石室の特徴として吉野川流域の石室に共通する玄門部に縦長の袖石を使用している。
 出土した遺物の中で1号墳からは装飾太刀の柄尻に取り付けられる金銅製単鳳環頭柄頭が出土している。 越部1、2号墳は、 出土した遺物から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられる。
 
槙ヶ峯古墳
 稲荷山古墳の北東の丘陵には数基の古墳が点在し、 その中の1基に槙ヶ峯古墳が築造されている。 この古墳は、 標高210m付近に位置し、 吉野川を見下ろすことができる。 墳丘は削平されているが、 径約11m、 高さ約2.5mの円墳である。 この古墳は6世紀後半に築造されたと思われ、 埋葬施設は南に開口する横穴式石室で羨道部は削平され、 その規模は不明であるが、 2.8mほどの長さが推定されている。 この古墳の石室の石材は、 この地域の結晶片岩を使用している。 玄室の規模は長さ1.7m (推定2.8m) 以上、 幅1.7mである。 この古墳の石室は古くから棚があることで著名であった。 棚は奥壁の天井石との間に20㎝ほどの隙間を設けるように厚さ約10㎝の板石を奥壁、 両側壁に挟みこんでおり、 和歌山県の岩橋型石室に似ている。 県内で石棚を有する古墳は平群町三里古墳、 下市町岡峯古墳とこの槙ヶ峯古墳だけである。

 以上、 吉野川北岸特に大淀町地域には縄文時代から面々と様々な地域の交流の中で文化を育み、 自らの文化として昇華させていった過程を見ることが出来る。 特に古墳時代後期には大和盆地側の影響と和歌山側の紀ノ川流域文化を融合させた独自の古墳文化を生み出したと言える。
 
撮影協力 坂部征彦氏