yushikai.jpg

東限築地塀推定地→大和20号墳→コナベ古墳→平城宮北大垣→市庭古墳→松林苑南面築地塀跡→猫塚古墳→松林苑西面築地塀跡→松林苑内郭推定地

 
 松林苑は平城宮の北方に位置する苑池である。 佐紀盾列古墳群を取り込むように造営されており、 古墳を再利用するようすも明らかになりつつある。
 松林苑に関する記述は 『続日本紀』 に何度か登場するが、 天平年間に限られており、 天平元年 (729) から天平17年 (745) の間に8回登場するに過ぎない。 『続日本紀』 の記述によると、 松林苑には宮が存在し、 天皇が五位以上の群臣を集めて饗宴する場であることがわかる。 また、 騎射を行なうなど、 広い空間があったことも知られる。
 松林苑の発掘調査は、 橿原考古学研究所を中心に行なわれており、 築地塀、 苑池、 礎石建物、 掘立柱建物、 井戸などが確認されているが、 依然として不明な部分が多いのが現状である。 松林苑の範囲でさえも確定には至っておらず、 発掘調査で解明していく課題は多い。 近年の調査では、 これまで推定されていた松林苑の東限を見直すような成果があがっている。

推定された松林苑の南限は水上池の南岸に位置する平城宮の北大垣とされ、 西限は瓢箪山古墳のすぐ東側を通る築地塀跡とされた。 北限は築地塀の痕跡や遺物の分布が確認できないため、 地形を考慮して尾根筋に想定され、 同じく手掛かりの乏しい東限は、 水上池の東岸が直線的で平城宮東院の東端の延長に位置することから水上池東岸と推測された。 そして、 前方後円墳であるヒシャゲ古墳 (現、 磐之媛命陵) の後円部から北へ抜けるものと推測されている。
 
JR平城山駅
 
東限築地塀推定地
2011年度に行われた踏査では、 航空自衛隊奈良基地の北側に延びる尾根上で、 松林苑東限の築地塀の可能性がある高まりが確認されている。そのまま北へ延長すると現在の国道24号に突き当たる。 この高まりが築地塀であり、 松林苑を取り囲んでいたとすると、 この延長がどこを通ることになるのか判断は難しい。
航空自衛隊基地内の北部 (教育講堂地区) でも奈良時代の祭祀遺物を含む直線的な溝が検出されており、 奈良時代にこの付近まで利用されているのは間違いない。ただし、 松林苑かどうかは別に検証が必要である。


東限築地塀推定地へ向かう
東限築地塀推定地
東限築地塀推定地を西から望む
東限築地塀推定地を西から望む
 
ヒシャゲ古墳(磐ノ姫陵)にて説明を聞く
 
 松林苑の東限は水上池東岸に推定されていた。 しかし、 水上池よりも東側に位置するコナベ古墳周辺の調査では、 苑池と推定されるような奈良時代の遺構が確認されており、 松林苑の東限を考える上で重要な成果があがっている 。
 1997年にコナベ古墳の東側で行われた調査 (第65次) では、 墳丘規模一辺30mの方墳である大和20号墳の周濠を奈良時代に再利用した石敷きや、 瓦溜、 井戸などが確認されている (橿考研1998)。 この調査では松林苑の東限が広がる可能性が指摘されるとともに、 調査地が周濠をともなう古墳に囲まれた場所であることから正倉院文書に見られる 「法花寺中嶋院」 にあたるという見解も示されている。 ただ、 瓦溜の瓦を含む出土遺物は8世紀中頃以前に時期的なまとまりがあるようなので、 天平勝宝~天平宝字の史料に見られる 「中嶋院」 との関係性についてはさらに検討が必要であろう。
 さらに、 2011年にコナベ古墳の南西で、 大和26号墳に南接して行われた調査 (第107次) では、 掘立柱建物と直線的で鉤状に屈曲する石敷き遺構が検出されている (橿考研2011)。 石敷きは、 南側へ低く傾斜する落ち込みの北岸を護岸するように築かれており、 苑池遺構の一部と考えられている。 北接する大和26号墳の周濠を再利用した可能性もあるが、 平面的な形状からすると新たに掘削されたものと思われる。
 石敷き遺構には多量の土器や瓦が集中して廃棄されていた。 土器の種類は須恵器や土師器であり、 器形は食器や貯蔵具、 煮炊具など多様である。 出土土器の年代は平城遷都後まもない時期のものである。 石敷き遺構は、 遺物が廃棄される前に二度に渡って埋まっているため、 石敷き遺構は奈良時代の早い時期に廃絶した可能性が高い。
 この他、 コナベ古墳の西側で行われた第97次調査でも石敷きが確認されており、 奈良時代前半において、 コナベ古墳の周辺は苑池として利用される場所であった可能性が高い。 ただし、 各地点における遺物の状況から推測すると、 それぞれの地点での利用時期はごく短期間であった可能性が高く、 頻繁に新たな場所 (苑池) を設けて饗宴が行われた可能性がある。 今後の整理作業をまたなければならないが、 苑池の利用状況を解明することは奈良時代の饗宴を考える上で重要である。 第107次調査で検出した石敷き遺構の利用時期は、 『続日本紀』 に松林苑が登場するよりも前である可能性が高く、 松林苑の造営時期や性格、 範囲を探る上でも注目される。

コナベ古墳東側を通り大和20号墳へ
 
基地内の大和20号墳を眺めるながら説明を聞く
 

コナベ古墳周濠南側をとおり、水上池で説明を聞く。

 
松林苑を認識するきっかけとなった瓢箪山古墳東側の土塁状の高まりの発掘調査では、 築地塀の基底部が比較的良好な状態で検出されている。 松林苑の西面築地塀である。 築地塀基底部の幅は約3mで、 高さは約1m残存していた。 築地塀は版築で築かれている。 基底部から約1.2m離れた位置には雨落ち溝が並行しており、 多量の瓦が出土している 。
 瓢箪山古墳の南東に位置する猫塚古墳の南側には、 東西方向の築地塀跡が確認されている 。 現在もその痕跡を認めることができ、 その一部は住宅地の中に取り残されている。
 発掘調査で確認された築地塀の基底部は、 幅2.6m、 残存する高さは0.8mであり、 西面築地塀よりも幅が狭い。 松林苑の南面築地塀であり、 東西約330m続くことが発掘調査で確認されている。 歌姫街道付近まで続いていたようであり、 歌姫街道に沿った調査地では、 南面築地塀の南側に続く南北築地塀が確認されている。 おそらく南面築地塀に取り付くものと思われる。
 この南面築地塀と平城宮北大垣との間には大蔵省が推定されており (岸1979)、 天平10年7月7日には天皇が大蔵省に出御して相撲をみたのち、 西池宮に赴いている。
 なお、 大蔵省が推定されている地域には、 平城天皇の第三子である高岳親王 (真如親王) が建立したとされる超昇寺が存在していた。
葛城神社を通過
南面築地塀
 
佐紀神社
佐紀神社境内と超昇寺礎石?
 
墳長250mを越える前方後円墳の市庭古墳は、 平城宮の造営時に後円部のみを残して削平され、 残った後円部は、 現在、 平城天皇陵とされている。 周濠は二重に廻るが、 奈良時代には外側の周濠に石敷きを施し、 苑池として再利用していた。 また、 猫塚古墳の北側でも周濠を利用した石敷きが確認されている。 松林苑では、 古墳の墳丘を築山とし、 周濠を池として利用する苑池が多用されたようである。
 
南面築地塀
 
西面築地塀
 
礎石建物跡、奥は塩塚古墳内郭推定地

鉄塔と東の小屋の下が発掘され礎石建物があった所
塩塚古墳前方部
「北ノ切」 「中ノ切」 「南ノ切」 という地名の方形の地割りが内郭と推定されている。 内郭推定地では前面にバラス敷きをともなう格式の高い礎石建物が検出されており 、 松林苑の中心的な区画であったことは間違いないだろう。 この地点では藤原宮式軒瓦が出土していることから、 中心区画の造営は早くから行われていた可能性もある。
 内郭推定地の西に位置する塩塚古墳は墳長105mの前方後円墳だが、 前方部が低く平坦になっており、 松林苑の造営にともなって削平されたものと推測されている。
 内郭推定地の南には東西方向の道路端とみられる溝が検出されており、 その南側では掘立柱建物がいくつか検出されている。 松林苑とされる範囲の中では、 コナベ古墳周辺を除いて、 この付近に建物をはじめとする遺構の検出が集中している。 内郭推定地やその南側は、 北から張り出す尾根にあたり標高の高い場所である。 内郭推定地はその中でももっとも高い場所にあり、 宮や関連施設の造営が地形を考慮して行われたようすをうかがうことが出来る。 歌姫街道より東側は標高の低い地形であり、 奈良時代にも湿地帯が多かったものと推測されることから、 殿舎や倉庫などを建てる空間としては不向きであっただろう
 
添御縣坐神社
 
畑の先の竹林は松林苑最北調査地
 
撮影協力 坂部征彦氏