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法隆寺西塔伽藍→藤の木古墳→斑鳩文化財センター→達磨寺→片岡王寺跡・片岡神社→方光寺→芦田池→尼寺廃寺(北遺跡、南遺跡)→JR畠田駅

 
昨年12月にご案内しました「仏教伝来の地を歩く」(桜井市~明日香村)に続く第2回目として、今回は斑鳩町~香芝市の仏教伝来の地を歩きます。古代の平群郡に含まれる斑鳩の地は大和川の北側にあり、聖徳太子が飛鳥を離れて自身の宮を定められた地であると同時に、寺院建立を実行された地でもあります。それに対して大和川の南側は、古代の葛下郡(王寺町~香芝市付近)であり、ここには当時「片岡」と呼称された地域を含み、聖徳太子が関わる伝承も『日本書紀』 に記されています。またこの地には敏達天皇を祖とする皇族が関係するとみられる遺跡が多く点在し、文献史料や木簡からも同様の関連が指摘されています。天武天皇の時代にはこの大和川沿いで廣瀬・龍田の祭祀が始められ、関が設置されるなど、天皇家にとって政治的にもこの地域は重要視されますが、その基盤を築くまでの関連遺跡も紹介しながら現地を歩きたいと思います。
 
法隆寺駅
 
法隆寺
斑鳩宮は『日本書紀』 によると推古9(601)年に聖徳太子が宮の場所を定めたとみられ、推古13(605)年からはこの地を拠点とされたようである。その所在地は、法隆寺東院(夢殿)付近と考えられており、昭和9年の東院の解体修理に伴う地下調査によって火災痕跡を伴う掘立柱建物などが確認されている。この火災痕跡は皇極2(643)年の斑鳩宮焼失に関連するとみられている。
 斑鳩寺は『日本書紀』 推古14(606)年に水田百町を斑鳩寺に施入する記事があるのでこの時には存在したとみられ、おそらくは斑鳩宮の造営とほぼ同じくして造営され始めたと考えられている。その所在地は巨大な塔心礎とともに「若草伽藍」として知られており、現在の法隆寺西院伽藍の南東に位置する。昭和10年代には石田茂作氏らを中心として若草伽藍の発掘が実施され、塔・金堂とみられる基壇の掘り込み地業が確認された。その結果、斑鳩寺の終焉は、『日本書紀』 天智9(670)年に記された斑鳩寺炎上に求める説が現在も有力されている。ただ、現存する西院伽藍の5重塔心柱の年輪年代測定の結果はその火災年よりも古く、新たな検討問題も提示されている。さて若草伽藍の中軸線は、北で約2十度西へ振れているが、これと同様の振れを採用する建物遺構は斑鳩地域の発掘調査で広範囲に認められ、この地域の飛鳥時代に共通する地割りが存在したと認識されている。
 
法隆寺 西院伽藍
 斑鳩寺の焼失後、大規模な造成地業を経て建立されたのが現在の西院伽藍である。南面する伽藍配置は法隆寺式伽藍配置と呼称され、その標識ともなっている。修理の手が加えられてはいるが白鳳~奈良時代に建立された中門・金堂・塔・回廊・経蔵・東室・東大門が現存し、高欄(手すり)などに飛鳥時代の建築様式が採用されていると指摘される。世界最古の木造建造物群として世界遺産にも登録されている。創建時の講堂は早くに焼失したが、平安時代の再建講堂は旧位置のやや北側に建てられ現存する。南大門は室町時代の西大門を現在地に移築したものである。
 
藤ノ木古墳
直径48mの円墳で大型の横穴式石室を内部主体として朱塗りの凝灰岩製家形石棺が収められており、6世紀後半の築造である。1980年代の発掘調査によって未盗掘の古墳と判明し、棺外から金銅製の馬具・土器、棺内には2遺体とともに金銅製の冠・飾履・大帯・筒形製品、大刀、多量のガラス玉、鏡などが副葬されていた。かつては被葬者を崇峻天皇とする伝承があったが、現在では皇族のほか在地の豪族を比定する説もあり、確定はしていない。
 
斑鳩文化財センター
1昨年にオープンした斑鳩町の施設で、藤ノ木古墳を紹介するガイダンス機能と斑鳩町の文化財の調査・公開機能も兼ね備えている。今秋は馬具の特別展を開催。
 
達磨寺
現在は臨済宗南禅寺派に属す禅宗寺院。創建は遅くとも鎌倉時代にさかのぼり、本堂は後期古墳の上に建てられ、他に2基の古墳があり、小規模な古墳群を構成する。この古墳群が片岡の地に所在することから、『日本書紀』 などに記された「片岡飢人伝説」との関連が指摘される。後にこの飢人を達磨大師と見なす説も誕生し、寺名となっている。2002年の発掘調査により、本堂下の石室内から石塔、石塔内の容器内に水晶製5輪塔形舎利容器、その中に水晶製ハート形舎利が確認された。
 
 
1号墳
 
2号墳
 
片岡神社
  延喜式内社の1つ「片岡坐神社」に比定され、元は現在地の北西に所在したとされる。現在の祭神は天照大神などで、大原氏神も祀られる。
 片岡王寺跡は王寺町の地名起源となる遺跡である。現在の王寺小学校の所在地がその地で、明治時代には塔・金堂・講堂の基壇や礎石が存在し、南面する4天王寺式伽藍配置であったとされる。文献史料・金石文に記された片岡王寺・片岡僧寺・放光寺について、尼寺廃寺の存在とも関わり、どの寺院名称をどの遺跡に比定するのか、研究者の見解に相違がある。また創建者に片岡皇女説、敏達天皇系の皇族説、渡来系氏族説がありこれも研究者間に相違がある。遺跡地は旧役場・学校建設などによって地上からは確認できない。だが2003年からの当研究所の発掘調査では、中心伽藍の東と北を囲む築地塀や溝、またその東側や北側では飛鳥・奈良時代の掘立柱の建物・塀、溝などを確認している。採集・出土の瓦から7世紀前半の創建とみられ、室町時代頃までは創建の地に存在したようだが、その後は西方へ移転し、現在の放光寺が法灯を継いでいる。
 放光寺は王寺小学校の西側に所在し、現在は「片岡山放光寺」と号す黄檗宗寺院である。
 
芦田池

『日本書紀』・『聖徳太子伝暦』 によると、推古15(607)年に築かれた池の1つに「肩岡池」があり、その池の比定地として現在の芦田池を挙げる説がある。
 
 
尼寺廃寺(北遺跡・南遺跡)
北廃寺は東面する法隆寺式の伽藍配置で、香芝市教育委員会による発掘調査によって回廊内に金堂・塔の基壇が確認された。塔基壇の地下には巨大な塔心礎が確認され、耳環や水晶製切子玉などの舎利荘厳具が出土した。しかし舎利は認められず、講堂・中門の位置は確定に至っていない。軒瓦には片岡王寺や、飛鳥の坂田寺との同笵瓦がある。南廃寺は北廃寺よりもやや早く創建されたと考えられており、塔・金堂とされる建物基壇が確認され、斑鳩寺同笵の型押し忍冬文軒平瓦が出土している。この南廃寺は平安時代には廃絶し、北廃寺のみが存続したものの、その後、南廃寺は北廃寺跡に建つ現在の般若院へと法灯が受け継がれたと推定されている。
 
尼寺廃寺、塔心礎
 
尼寺廃寺(北遺跡)
左 金堂基壇
右 塔心礎
 
撮影協力 坂部征彦氏