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片部貝蔵遺跡→西山1号墳・三重県農業研究所→筋違遺跡→西肥留遺跡→松浦武四朗記念館→(松浦武四朗生家)→雲出島貫遺跡→木造赤坂遺跡→近鉄桃園駅

 
 
「博物館には、 桜井市纒向遺跡から出土した東海系のS字状口縁台付甕 (以下、 S字甕) が常設展示されています。 纒向遺跡から出土している外来系土器の中で、 もっとも出土量の多い地域は東海地域です。 今回は、 そのS字甕の故地の遺跡と周辺を歩きます。
 なお、 雲出川下流域には複数の前方後方墳が築かれており、 今回見学する西山一号古墳のほかにも、 筒野一号墳・錆山古墳・向山一号墳とその可能性のある庵ノ門一号墳が雲出川の右岸に立地しています。
 集合場所の近鉄伊勢中川駅は雲出川の右岸部に位置します。 名古屋方面からの電車に乗車しますと伊勢中川駅に着く直前に川を渡りますが、 その川こそが雲出川です。 ちなみに、 現在の国道一六五号線は近世の初瀬街道をほぼ踏襲しており、 近鉄大阪線も近くを通っています。 奈良・大阪方面から電車に乗車しますと、 途中、 榛原と伊賀盆地で若干の平地部もありますが、 山間部のトンネルが続き、 伊勢湾に面してようやく平野の広がる場所でもあり、 奈良盆地東南部から伊勢湾に出るまでに最も近距離のコースです。 」
 
貝蔵遺跡

「片部(かたべ)貝蔵(かいぞう遺跡) 伊勢中川駅のすぐ東の沖積低地に位置するのが貝蔵遺跡で、 その南東部の西山一号墳の麓に位置するのが片部遺跡です。 いずれも古墳時代前期から中期にかけての水田や灌漑施設が見つかっており、 一連の遺跡と考えられます。 出土した土器類のなかには、 瀬戸内系の土製支脚なども含まれています。 また、 外来系土器の中では、 北陸系装飾器台の模倣品が多く出土している点もこの遺跡の特色です。 」

 伊勢中川駅集合。奈良から遠いにもかかわらず参加者は99人。案内は川崎先生。昨年9月に続き伊勢を訪問。
 駅前には貝蔵遺跡最古の墨書土器の説明板が立つ。
 
西山1号墳
「西山一号墳 古墳は独立丘陵 (通称、 西山) の西端に立地する全長43.6m、 前方部26.2mの前方後方墳です。 現在の古墳は、 昭和三九年に破壊および盗掘を受けたのちに、 昭和38年測量の図を元にして復元されたものです。 平成13年に行われた範囲確認調査により、 前方部は破壊されていなかった点と葺石は認められない点が確認されています。 また、 遺物は出土していません。」
写真上 西山独立丘陵(右端が農業研究所)
写真下 南からみた西山古墳後方部
     前方部は写真左奥
 
三重県農業研究所

「 農業研究所には、 田畑を中心に三重県内各地の土壌標本が展示されています。 (通常は、 平日のみ公開) 今回は、 次の目的地でもある筋違遺跡の断面土壌標本を見学。 また、 現在の田畑と筋違遺跡の各時代の耕地についての土壌学的な比較検討も行われていますので、 併せて、 筋違遺跡の弥生時代から中世までの各時代の水田や畠などの土壌学的な特徴についても観察したいと思います。 」

2班に分けて見学。

待ち時間には農業研究所の成果を説明いただく。
・葡萄は房を切り離して保存した方が鮮度を保つ
・茶畑の霜よけファンはここの発明
など・・・
 
筋違遺跡
「洪水によって埋没した弥生時代前期の集落跡が見つかっています。 現在の標高は約5m、 弥生時代前期の標高は1.8~3.2mで、 当時は現在の平坦な地形とは全く異なります。 実は、 完全に平らになったのは、 つい最近のことです。 というのも、 この遺跡は旧河道に隣接して立地しています。 現在は河川が水路へと付け替えられていますが、 昭和40年代後半の耕地整理が行われた際にも、 あまりにも起伏が大きく、 洪水砂の厚く堆積している地点があったために、 改変できなかったそうです。 」
写真上
条里制が残る道。

写真下
筋違い道上に中勢バイパスが走る。
左側民家の並びは弥生時代の民家の並びに似る。
民家北側道路下から木棺墓出土した。

「また、 河川の名残は地割りにも残っており、 参宮街道にアクセスする近世奈良街道でもありました。 また、 「筋違」 という地名は、 河川の方向に由来する地割りが条里に斜交いに交わることに基づくのではないかと考えられます。 なお、 農業研究所から筋違遺跡までの間は現在も水田域が広がっています。 昭和40年代後半に耕地整理が行われた際にも、 この部分の水田区画は大幅に変更されていません。 本地域の条里型水田は9世紀まで遡り、 さらに建物群が条里方向に揃うのは8世紀後半まで遡ります。
 集落の北部に流れる河川の自然堤防上に居住域がつくられ、 やや低くなった後背低地に水田域が広がっています。 また、 居住域と水田域の周囲には幅4mの水路が掘削されており、 集落北部の河川にも繋がっています。 したがって、 当時の集落は河川と水路によって囲まれています。 平面的な水路の規模からすると、 この水路を環濠とみなすこともできるのですが、 水田への水口が設けられていることから、 第一義的な機能は灌漑用水路と考えています。
 この水路の他にも、 居住域と水田域を隔てる水路が設けられており、 居住域側にのみ木柱列が見つかっています。 また、 居住域を区画する水路にいずれも木柱列が伴っていることから、 立体的な区画であったと推定されます。
 居住域の中には、 住居跡などと推定される建物や独立棟持柱建物が確認されています。 したがって、 大小の規模と構造の異なる建物群で構成されていることもわかります。 そのほか、 木棺墓や畠なども見つかっています。 」
 
西肥留遺跡

北を望む
「現在の標高は約2.8mです。 この遺跡も旧河道沿いに立地しており、 遺跡の北側で河川も確認されています。
 弥生時代後期から古墳時代前期の集落跡や古墳時代前期から後期の墳墓が見つかっています。 それ以前は、 弥生時代中期後葉以降の水田がみつかっており、 更に、 下層には深さ1m以上もある土石流の流れた跡が確認されています。 したがって、 弥生時代中期以前には、 あまり人の生活に適しなかった場所であり、 居住の始まるのは弥生時代後期以降といえます。
 さて、 弥生時代後期後葉の井戸からは鞴羽口が出土しています。 また、 弥生時代後期後葉から古墳時代前期の竪穴住居を含む集落内からは銅鏃や銅滓、 鍛造鉄片なども多数出土していることから、 金属加工が行われていたと考えられます。 なお、 出土している土器には西肥留遺跡に特化した特徴を見いだすことはできません。 外来系土器も多少は認められますが、 この雲出川下流域の地域の中で相対的に考えた場合には少なく、 むしろ少ないことこそが特徴と考えられます。
 また、 古墳の周溝から、 素環頭大刀や鉄製工具類および鉄鏃などの鉄製品 がまとまって出土しています。
 更に、 古墳時代後期の井戸の井戸枠として用いられていた木材は、 船材が転用された状態で見つかっています。 船材は準構造船の船底部で、 樹種はスギ材です。 船底部外面はこすれており、 海浜部に乗り上げていたであろう状況が彷彿されます。」

南を望む
 
松浦武四郎記念館
「幕末から明治維新に活躍した 「北海道」 の名付け親の松浦武四郎を紹介している博物館です。 松浦武四郎は玉類のコレクターでもあったため、 エドワード・モースも彼を訪ねており、 『日本その日その日』(東洋文庫)に記しています。
 併せて、 地元郷土史家の野田精一氏の旧蔵資料である考古資料も展示されています。」
交代で昼食と見学。
写真右上写真の松浦武四郎写真は勾玉の首飾りをしている。
 
参宮街道
 
松浦武四郎生家
「松浦武四郎生家は参宮街道沿いに現在も残っており、 松阪市指定史蹟に指定されています。」
 
雲出島貫遺跡
雲出川を渡る。風が強い。
参宮街道上の橋が付け替えられ常夜灯が移築された。(写真右 中島付近に橋があった。)

「川を渡ったところが雲出島貫遺跡です。 縄文時代晩期から江戸時代まで断続的に続く遺跡です。
 特に注目される時期は、 弥生時代後期から古墳時代前期と平安後期の時期です。」
「まず、 弥生時代後期から古墳時代前期の時期の集落が見つかっています。 外来系土器の出土量は東海地域では屈指で、 特に静岡県周辺の土器を中心に、 関東地域の土器も多く見つかっていることが特徴です (図6)。 東日本を中心とする太平洋沿岸沿いの地域からの外来系土器が豊富に出土する点からは、 この遺跡が当時の流通拠点の一つであったことが分かります。 また、 近畿地域の土器も多く出土しており、 その点からは近畿地域とも交流のある遺跡であることが分かります。 さらに、 S字甕が出現期から古墳時代後期まで主に使用されていることが把握されている遺跡でもあります。 S字甕が主体的に用いられている遺跡であり、 なおかつ、 流通拠点の一つであるという点からは、 当館で常設展示されている纒向遺跡出土の大廓式土器もこの地域を経由している可能性が高いと考えられます。 土器以外には、 水晶の剥片や瑪瑙の原石も出土しており、 石材が流通していたこともわかります。
 さて、 平安時代後期の居館からは、 大量の貿易陶磁器類や土師器皿類が出土しています。 また、 木棺墓からは腰こし刀がたな・漆塗小箱・菊きく花か双そう雀じゃく鏡きょう・貿易陶磁器(青磁碗二点・白磁碗一点・白磁皿四点)、 木棺の留め金具類として鉄製座金具・合釘・角釘がまとまって出土しており、 三重県有形文化財に指定されています。 被葬者は伊勢平氏に関わる人物と推定されています。
 なお、 文字史料では、 奈良時代の 『正倉院文書』 に一志郡嶋抜郷として地名が記載されています。 このほか、 『太神宮諸雑事記』 (九二八年) に御厨の一つとして記載されている点からは、 神宮領としては最古の部類に属するものであり、 伊勢神宮もこの地を要所として掌握していたことが伺えます。 」
 
四ツ野B遺跡
「銅鐸が工事中に突線鈕式の銅鐸が複数個体出土しています。 隣接地では、 弥生時代後期から終末期にかけての竪穴住居群が見つかっています。 また、 水晶剥片等も見つかっており、 玉作りがなされていた可能性もある遺跡です。」

遠方 丘陵右端付近
 
木造赤坂遺跡
「縄文時代から室町時代まで続く遺跡です。 なかでも注目されるのは、 古墳時代と平安時代の遺物です。
 古墳時代中期から後期にかけての集落跡が見つかっており、 竪穴住居群が密集して見つかっています。 古墳時代の土坑から出土した陶質土器 (三重県有形文化財) で、 類例は韓国慶尚南道玉田古墳群から出土しています。
 このほかに特筆すべき資料には、 水晶製経軸と滑石製鍋 があげられます。 水晶製経軸は、 断面7角形のもので、 類例は大峰山寺でも出土しているものです。 また、 滑石製鍋は九州を中心に分布する遺物で、 九州以外では極端に出土量の少ない遺物です。 越州窯青磁もまた北部九州は濃密な分布域であり、 そのような遺物が木造赤坂遺跡の屋敷地から出土していることについて、 「木造庄」 の開発領主であり斎宮寮助でもある平正度の伯父たちは10世紀末に相次いで肥前守になっていることや正守の父である維衡が鎮西へ下向していることから、 平正度は彼らを通じて入手しやすい立場にあったためではないかと考えられています。 」
 
西に離れた場所にある赤坂遺跡説明板