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河合町文化財展示室→馬見二の谷遺跡→池上古墳→馬見丘陵公園館→乙女山古墳→カタビ古墳群→別所下古墳→佐味田石塚古墳→ナガレ山古墳→ダダオシ古墳→竹取公園 (復原住居・三吉一番地古墳)→イノワ古墳群→三吉石塚古墳→新木山古墳→巣山古墳→三吉2号墳→佐味田狐塚古墳→(北今市1、2号墳 移築)→倉塚古墳→一本松古墳→文代山古墳→シドマ塚古墳→箸尾駅

 
奈良盆地有数の大型古墳群である馬見古墳群は、 河合大塚山古墳などを中心とした北群、 巣山古墳・新木山古墳などを中心とした中央群、 築山古墳などを中心とした南群に分けることができます。 今回は、 そのうち、 古墳の数も多く、 墳形・規模などもバラエティーに富む中央群を歩きながら、 古墳群築造の経緯と歴史的背景を考えてみたいと思います。
 また、 それぞれ古墳は、 史跡などに指定され、 復元整備工事がおこなわれたもの、 芝生を植えて整備をしているもの、 位置や形状などがわかるように整備されているもの、 改変を加えずに樹木などに覆われたまま保存されているもの、 埋葬施設などが公園に移築されたもの、 破壊されて何も残っていないものなど様々です。 古墳や遺跡の保存を考える機会にしていただければ幸いです。
 
河合町文化財展示室
 馬見古墳群は、 河合町及び広陵町の町域に含まれますが、 河合町教育委員会が調査した資料を中心に展示しています。 佐味田宝塚古墳や復元整備工事がおこなわれたナガレ山古墳の資料のほか、 『古代学研究』 で、 伊達宗泰先生と赤塚次郎氏が報告された埴輪棺に使用したと考えられるナガレ山北3号墳の埴輪も展示しています。 1段に多数の3角形や4角形の透かし穴を穿つ鰭付円筒埴輪で、 馬見古墳群 (中央群) では最も古い段階のものです。
 
馬見二ノ谷遺跡
 馬見丘陵公園の緑道整備に伴い、 2002~3年に発掘調査が実施されました。 ナイフ型石器や本遺跡ではじめて確認された周縁部加工尖頭器をはじめ剥片・チップを含めると約6500点にものぼる石器が、 谷地形から検出されました。 およそ1万5千年~6千年前に遡る後期旧石器に属する極めて稀有な事例です。
 
馬見丘陵公園 北エリア
 馬見丘陵公園の北エリアにある池上古墳は、墳丘長92mの帆立貝式古墳です。 墳丘周辺の園路が整備されています。 発掘調査は1991年に実施され、 墳丘1段目埴輪列や葺石、 周濠と馬蹄形にめぐる外堤の規模や形状が明らかになりました。 帆立貝式古墳としては屈指の規模をもつものですが、 埴輪、 葺石ともに小振りです。 また、 埴輪は疎らに配置され、 後円部の墳丘基底部の葺石が省略されています。
 帆立貝式古墳をめぐっては、 前方後円墳の前方部を短くしたものとする説と、 円墳の造出しが発達したものとする説がありますが、 私は前者の立場です。 前方部を極端に短くして、 前方後円墳被葬者より階層的に下位にあることをその墳形から明示したものと考えています。
 池上古墳の埴輪や葺石のありかたもそれにあわせ、 上位階層から規制を受けて製作・築造されたものと考えられます。 築造年代は5世紀前半です。
 なお、 池上古墳の西側外堤上に直径20mの池上2号墳、 東側には池上3号墳があり、 それぞれ詳しい年代は不明ながらも、 池上古墳からすれば従属的関係にあった可能性が考えられます。
 また、 池上古墳の南側で、 木棺墓が検出され、 伯牙弾琴鏡が棺内から出土しました。 極めて珍しい平安時代の墳墓です。
 
池上古墳
西の広場より
 
馬見丘陵公園館
 エントランスは新山古墳出土の直弧文鏡をモチーフにしており、 中には乙女山古墳の出土遺物、 巣山古墳の模型などがあります。
 
乙女山古墳
乙女山古墳
乙女山古墳から一本松古墳を望む
 馬見丘陵公園の南エリアの北端には、 史跡乙女山古墳があります。 墳丘長130mの奈良県最大の帆立貝式古墳です。 東側に取り付く前方部のほか、 西南部には造出しがあります。 盾形に巡る周濠と幅広い外堤が良好に残存しています。 墳丘及びその周辺部の発掘調査が実施され、 各トレンチで埴輪などが出土したほか、 造出し部では1段目を巡る埴輪列が互い違いになっていたほか、 小型丸底土器をおさめた円筒埴輪、 壺形埴輪、 家形埴輪、 楕円形埴輪 (柵形か) などが出土しています。 埴輪は池上古墳と同様、 小振りですが、 その間隔は密に並べられています。
 古墳の墳形を決定し、 その階層を明示するために設けられた前方部と、 祭祀や埴輪配列をおこなった造出しという性格の違いが乙女山古墳の墳形のなかにあらわれているものと考えることができます。
 いずれにせよ、 池上古墳と乙女山古墳は、 研究史上帆立貝式古墳を特異な墳形として認識し、 その性格を究明する契機になった古墳として極めて重要な存在です。
 
カタビ古墳群
 乙女山古墳と別所下古墳の間の丘陵上で、 5世紀前半代~7世紀前半代に築造された4基の小規模な古墳が確認されています。 2号墳は粘土を多用した木棺直葬墓で、 須恵器が出土しています。 園路が整備され、 古墳の位置が芝生で明示されています。
 
別所下古墳
 かつては雨山古墳とも称されたことがある古墳で、 直径60mの円墳と考えられます。 鰭付円筒埴輪が出土していて4世紀後半の築造年代が想定されます。 また、 古墳のすぐ北側で直径15mほどの円墳である別所下2号墳が確認されています。
 
佐味田石塚古墳
 公園の西側を走る県道工事に伴い確認された古墳で、 石室が公園内に移築されています。 1号墳は小振りの石材を積んだ竪穴式小石室で、 床面に平瓦を敷き詰めていました。 7世紀中頃に築造されたものと考えられます。
 2号墳
 
ナガレ山古墳
 1975年に土取りで一部が破壊され、 緊急の発掘調査が実施されました。 1976年には国史跡に指定され、 そのあと1997年には整備工事が完了し、 東半分だけ葺石・埴輪列の復原整備がおこなわれました。
 墳丘長105mの前方後円墳です。 整備工事中の発掘調査で前方部において粘土槨を検出し、 棺外から刀形・鋤先形・鎌形鉄製品や食物供献に関わる土製品などが出土しました。 また、 くびれ部では墳丘上にのぼる通路状の埴輪列が検出されたほか刀子形・斧形・紡錘車形などの滑石製模造品・勾玉・臼玉などが検出されています。 また、 北側では、 屋根を区切る埴輪列が確認されました。
 葺石は小振りでしたが、 埴輪は5段構成の大型品です。 築造年代は5世紀前半と考えられます。
 ナガレ山古墳の北側には5基の円墳があり、 上述した埴輪棺の出土した北3号墳は直径60mの円墳です。 また、 東側でも方墳 (東1号墳)、 円墳 (東2号墳) があります。 北3号墳は4世紀中頃、 東1号墳は5世紀前半、 東2号墳は6世紀後半の築造年代を想定しています。
なんじゃもんじゃの木(一葉たご)

 モクセイ科の落葉高木。名はタゴ(トネリコの方言)の仲間と思われたことによる。明治神宮外苑にあった大木は、名がわからない珍木として、なんじゃもんじゃの木とよばれていた
 
ダダオシ古墳
 公園南エリアにある墳丘長約50mの前方後円墳ですが、 1993~4年の発掘調査の時には前方部が削平され、 既に失われていました。 周濠部から須恵質の埴輪が出土し、 6世紀初頭に築造されたものと推定されています。 また、 南東外堤上に周辺の埴輪を敷き詰め、 周囲に石材を置いた陪葬墓が検出されています。 特に、 整備はおこなわれていません。
 
竹取公園
 竹取公園内には、 箸尾遺跡の遺構をもとにした古墳時代の復原住居があります。
 
三吉一番地古墳
 公園内では無袖式の横穴式石室を埋葬主体とする三吉一番地古墳が確認されました。 須恵器平瓶などが出土しており、 6世紀中頃の築造と考えられます。

後方が二上山
 
イノワ古墳群
 新木山古墳の北西部で6基の竪穴系横口式石室が検出されています。 石室内からは須恵器や土師器などが出土しているものがあり、 6世紀中頃~後半に築造されたものと考えられます。

左後方は三吉石塚古墳。
 
三吉石塚古墳
 墳丘長45mの帆立貝式古墳です。 1987年から継続的に発掘調査が実施され、 1992年に県史跡に指定されました。 発掘調査で確認された葺石・埴輪をもとに、 古墳全体が復原整備されています。 4段構成の小振りの円筒埴輪で、 築造年代は5世紀後半と考えられます。
 
三吉2号墳
 巣山古墳の陪冢的位置にある墳丘長93mの帆立貝式古墳です。 公園の敷地になるまでは、 個人の住居が建てられ、 墳丘が庭に利用されるなど改変がすすんでいましたが、 墳丘上まで階段がつけられ、 馬見丘陵公園南エリアで復元整備されました。 屈指の規模の帆立貝式古墳ですが、 池上古墳と同様、 埴輪は少量しか使用されなかったようです。 4段構成で、 築造年代は巣山古墳と同時期の4世紀末と考えられます。
 さらに、 巣山古墳との間に1辺12mの方墳である三吉3号墳があります。 埋葬主体は、 円筒棺です。 三吉2号墳の陪葬墓と考えられます。
 
巣山古墳
 中央群の中核をなす墳丘長220mの前方後円墳です。 整備な盾形の周濠、 後円部に取り付く造出しのほか、 前方部西側には島状施設と周濠に浮かぶ石敷き状の施設があります。 後円部に2基の竪穴式石室、 前方部に1基の竪穴式小石室が存在したとされています。 滑石製鍬形石・車輪石・模造品 (斧形・刀子形) ・勾玉・管玉などの出土遺物は宮内庁書陵部に所蔵されています。
 早くに特別史跡に指定されており、 近年整備工事が進んでいて、 事前の発掘調査がおこなわれています。 前方部を中心に墳丘基底部や外堤内法の葺石が検出されています。 島状施設からは、 突出部で水鳥形埴輪、 その上面で家形埴輪や柵形埴輪が出土するなどしたほか、 周濠からは直弧文を施した構造船、 靱と推定される木製品が出土しています。
 さらに、 外堤北側の公園整備に伴う調査では、 外堤外側の溝や、 円筒棺が検出されています。 また、 船形埴輪が出土し、 外部施設または古墳が存在した可能性が考えられます。
 築造年代は4世紀末で、 この時期の古墳の標識的存在です。
 
佐味田狐塚古墳
 公園の中央エリアが後円部側と南エリアが前方部側にある墳丘長78mの帆立貝式古墳です。 1975年の道路工事に伴う発掘調査で後円部埋葬施設である粘土槨が検出されました。 その後、 周辺の調査で古墳の外形が明らかになりました。 かつては巣山古墳の陪冢的位置にありながら、 それに先行して築造された古墳として評価されていましたが、 その状況は周辺の調査で不明確となりました。 埴輪の樹立はありません。 巣山古墳と同時期とみなすのが適当でしょう。 道路により古墳が分断されており、 道路上に墳丘の範囲表示がされているほか、 後円部外堤・周濠は復原整備されています。
 
北今市1、2号墳(移築)
 香芝市北今市3丁目に所在した古墳時代後期の古墳群。
 1号墳は直径約20m、高さ5mの円墳です。横穴式石室の規模は、全長約11m、玄室長5m、幅1.6m、高さ2.8m、羨道長約6m、幅0.9mです。玄室内には、凝灰岩製の組合式家形石棺2つを南北に並べて納めています。石棺の構造はほとんど同じで、蓋石3枚、側石6枚、底石4枚からなっており、南棺は長さ175cm、幅70cm、高さ50cm、北棺は長さ180cm、幅60cm、高さ50cm(身の内法)です。側石・底石はほぼ完存しています。
 2号墳は一辺15m、高さ3.5mの方墳で、東側に幅4~5mの壕をめぐらせています。石室はなく、凝灰岩製の組合式家形石棺を墳丘内に納めています。石棺は長辺を東西に向け、南北2つ平行して納められていたようですが、北棺は盗掘で破壊され詳細不明です。南棺は未盗掘で完存しており、蓋石3枚、側石6枚、底石4枚からなっています。大きさは、長さ160cm、幅50cm、高さ37cm(身の内法)です。南棺の棺内には、頭を東に向けた熟年男性と4~5歳児の2体分の人骨が遺存しており、成人人骨の頸部から滑石製小玉8個、体の右側から鉄刀1本が出土しました。また石棺外の北側から、蓋をした直後に置かれたと思われる鉄鏃8本が出土しています
 
倉塚古墳
 墳丘長180mの前方後円墳で、 墳丘上の樹木は伐採され、 南エリアにおいて、 全面に芝生が植えられ整備されています。 かつて周辺で埴輪棺が確認され、 倉塚1号棺・2号棺として報告されていましたが、 北側に隣接する一本松古墳の調査から、 いずれも倉塚古墳に直接伴うものでないものと考えられます。 一本松古墳より先行する4世紀中頃の築造年代が想定されます。
 
一本松古墳
 墳丘長145mの前方後円墳で、 樹木は部分的に伐採され、 見通しがよくなるように整備されています。 東側の外堤が調査され、 埴輪棺が確認されました。
 
一本松古墳2号墳
さらに、 その東に1辺15mの方墳である1本松2号墳が確認されました。 埋葬施設は円筒棺で、 周辺に埴輪棺があります。 一本松古墳、 一本松2号墳ともに4世紀末の築造年代が想定されます。
 
文代山古墳
 公園外側にある1辺48mの方墳です。 南側に造出しがとりつきます。 範囲確認調査で猪形・馬形・犬形埴輪が出土しました。 この古墳から出土したと伝えられる長持形石棺の底石が、 牧野古墳に保存されています。 築造年代は5世紀後半代と考えられます。
牧野古墳に保存されている長持形石棺の底石。
 
シドマ塚古墳
 水田中に残された直径20mほどの円墳です。 築造時期の詳細はわかりません。 さらに、 100mほど北側の寺戸鳥掛遺跡でガソリンスタンド建設に伴い発掘調査が実施され、 古墳の周濠が検出されました。 3個体以上の盾持人物埴輪、 武人埴輪、 人物埴輪などが出土しました。 6世紀初頭頃に築造されたものと考えられます。

(写真撮影協力 坂部征彦氏)