大和朝倉駅→忍坂8・9号墳 (移築)→忍坂坐生根神社→段ノ塚古墳 (現・舒明陵)・(現・鏡女王墓)・ (現・大伴皇女墓) →石位寺 →舞谷二号墳→秋殿古墳→兜塚古墳→談山神社大鳥居・談山神社多武峯町石→メスリ山古墳→コロコロ山古墳 (移築) →青木廃寺→稚桜神社→磐余池推定地→吉備池廃寺→蓮台寺五輪塔→近鉄大阪線大福駅
本年は、 『古事記』 序文によれば太安萬侶が元明天皇に 『古事記』 を献上した和銅五年から数えて1300年にあたる。 県内外でそれを記念した行事が展開しており、 当館でも秋季特別展をその関連事業として位置づけ、 鋭意、 準備中である。 ところで、 『古事記』 の時代認識は明快で、 撰録の対象を 「上古の時」 とする。 具体的には 「大抵記す所は、 天地開闢より始めて、 小治田の御世に訖わる」 とあって、 実際、 下巻の推古記の記事で終わっている。 よって舒明大王の 「御世」 以降は、 古事記編纂時期にあたる天武天皇から元明天皇の 「今の時」 につづく時代として認識されていたことになる。 いわば、 舒明大王の時代は飛鳥の新時代というわけだ。 もちろん、 これは 『古事記』 序文が示す時代認識であり、 当時の人々や国家の認識がそのまま表れたものかどうかは慎重に判断すべきだが、 考古学の立場からみて八角墳を採用した最初の大王は舒明大王であり、 勅願による最初の官寺を造営した舒明大王であり、 しかも宮殿と一体的な建設を企図した舒明大王であって、 これは後の都市計画にも影響を与えたものと私は考えている。 一連の事績は、 可視的にも新たな時代の到来を実感させるものであったと推測されるし、 王統上の舒明大王の位置づけとともに 「上古の時」 とは異なる 「今の時」 につながる時代としての認識を醸成させたものだと考える。 今回の例会は、 この舒明大王の古墳と寺・宮殿をテーマに忍阪から磐余方面の遺跡を往くことにしたい。(今尾文昭氏) | |
近鉄朝倉駅 | |
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昨日は大雨警報発令。 朝も雨が残っていたが今尾先生の予言通り出発の10時にはすっかり雨が上がった。 | |
忍坂8・9号墳 | |
![]() | 朝倉駅の南側に広がる朝倉台住宅地の公園の一角に移築された横穴式石室が4基、 ならんでいる。 かつて外鎌山 (標高293m) の北麓には、 古墳時代後期を中心とする群集墳が約100基、 営まれていた。 大半が木棺直葬墳であったが、 一部には横穴式石室墳もあった。 なかでも忍坂8・9号墳は、 通称 「榛原石」 の扁平に割れる節理を利用したレンガ状の石材を用いて横穴式石室の壁体を築く 「磚槨墳」 である。 宇陀盆地、女寄峠沿い、飛鳥地域にほぼ限定された特異な石室だ。 7世紀前半を中心に20基程度の存在が知られている。 八号墳は、 石室南半が破壊されていたが平面形が一辺176.5cmからなる六角形となることが判明している。 壁面は残りの良い部分で四段目まで確認できる。 ガラス小玉約100点、 銅製釘四点、須恵器杯蓋、土師器甕、歯一点の出土がある。九号墳は玄室幅2.62mあり、幅が長さを上回るT字形の石室となる。八・九号墳は墳形の残りが悪く、形状を確定するに至っていない。しかし、墳丘背後の排水溝は鈍角の辺で構成された形状を示しており、多角形墳になる可能性もある。 |
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忍坂坐生根神社 | |
![]() | 住宅地を下ると、 忍阪の旧道に出る。 道路に面して西面する神社がある。 祭神を 「少彦名命」、 「天津彦根命」 とする忍坂坐生根神社である。 本殿はなく、 宮山 (外鎌山) を神体山とする。 拝殿の脇に石神とよばれる約20個の花崗岩を配した磐座がある。 『延喜式』 神名上の大和国二八六座のうちの城上郡三五座中に 「忍坂坐生根神社」 があり、 当社が該当するとみられる。 天平2年 (730) の 「大和国正税帳」 には、 「生根神戸」 の租穀150束8把のうち四束を祭神料に充当したとある。 また 『大同類聚方』 には、 額田部連らの上奏した妊婦の腹痛に用いる 「以久禰薬」 と咳咽に用いる 「志紀乃加美薬」 が伝えられているとある。 ところで、 当地の忍阪は 「おっさか」・「おさか」 とも発音され、 寺川支流の粟原川中流域に位置する。 「こもりくの 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は 走り出の 宜しき山 出で立ちの くはしき山ぞ あたらしき 山の荒れまく惜しも」 (巻13―3331) と 『万葉集』 に詠まれる。 もちろん 『古事記』・『日本書紀』 にも頻出する。 たとえば垂仁紀39年条には、 五十瓊敷命が茅淳の菟砥の川上宮で剣千口を造り、 石上神宮に収めたとあるが、 その分注には一千口の太刀をまず 「忍坂邑」 に収め、 のちに石上神宮に移されたとある。 忍坂には王権の武器庫があったとみる研究者もいる。 有名なものでは和歌山県隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡の銘文に 「男弟王在意柴沙加宮時」 とあり、 即位前の継体大王の宮殿がこの付近にあったとみる研究者もいる。 忍坂遺跡は1986年に宅地造成にともない発掘調査された遺跡で、 5世紀後半から6世紀後半の掘立柱建物や柵などが見つかっている。 |
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段ノ塚古墳 現・舒明陵 | |
![]() | 先年、 明日香村牽牛子塚古墳の発掘調査が行われたことで、 飛鳥時代の大王、 天皇の墓制として八角墳が採用されたことが広く知られるになった。 なかでも段ノ塚 (もしくは段々塚) 古墳は、 その嚆矢といえる存在だ。 忍阪の集落を抜けて東の谷間を上がると、 外鎌山から南側に延びる尾根先端に所在する本墳が見えてくる。 後背部を切断し、 左右を尾根が囲ういわゆる 「三方山囲み」 の立地を造り出す。 南斜面を台形状に整形した三段築成の方形壇の上に、 平面が八角形で二段築成の墳丘を造る。 方形壇第一段の裾は幅105mの直線をなす。 八角墳丘部の対辺間距離42m、 高さ12mになるとみられる。 方形壇裾には花崗岩の列石、 八角墳丘部には扁平な流紋岩質溶結凝灰岩 (「榛原石」 という通称名でよばれることが多い) の敷設がある。 1995年の宮内庁書陵部の調査で、 正面の隅角にあたる部分が、 実は隅切りになっていることがわかった。 辺長4.3m、 ここに羨道部分があるらしい。 文久2年 (1862) にほぼ完成していたとされる谷森善臣 『山陵考』 に、 往年に南面が崩壊してなかを確かめたところ石室内に石棺が2基あり、 奥棺は石室に直交、 前棺は平行に置かれていたと言う里人の談が載る。 方形壇第三段に開口すると仮定すると、 全長24m前後の大型横穴式石室が備わることになる。 忍阪周辺には同時代の有力な古墳はなく、 舒明13年 (641) 10月に百済宮に没し、 当初は 「滑谷岡」 に葬られたが、 翌々年の皇極2年 (643) 9月に改葬された 「押坂陵」 に当てる見解が優勢である。 なお、 『延喜式』 では、 舒明陵は 「押坂内陵」 と表記される。 写真上 段ノ塚古墳 写真中 後背部切断部 |
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鏡女王「押坂墓」 | |
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大伴皇女「押坂内墓」 | |
![]() | 鏡女王 (ふつうは鏡王女―かがみのおおきみのことだと考えられている。 万葉歌人として著名で683年にあたる天武13年に没す) の 「押坂墓」 が 「押坂陵域内東南」、 大伴皇女の 「押坂内墓」 が 「押坂陵域内」、 もう一基あって田村皇女 (糠手姫皇女、 『日本書紀』 によれば敏達天皇の皇女で、 押坂彦人大兄皇子の妻、 舒明天皇の母) の 「押坂墓」 が 「舒明天皇陵内」 にあると記される。 現在、 宮内庁が鏡女王墓とするところ、 大伴皇女墓とするところは、 それぞれ円墳 として 『奈良県遺跡地図』 に収載されているが、 考古学上の実態は不明。 ただ現・鏡女王墓は、 段ノ塚古墳東側の尾根先端上にあって腰高の墳丘が柵外からでも観察できる。 また現・大伴皇女墓は、 「三方山囲み」 の南面する地勢に選地されたともみられ、 双方とも単独に営まれた終末期古墳になる可能性もあって、 段ノ塚古墳との関係性にも今後、 注意を払いたい。 田村皇女 (糠手姫皇女、 敏達天皇の皇女で、 押坂彦人大兄皇子の妻、 舒明天皇の母) の 「押坂墓」 は石室内石棺の2基のうちの1つか? |
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石位寺 | |
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![]() | 忍阪の集落南端の小高い丘に薬師堂と称する四間四面の一小堂宇が建っている。 山号を高円山と称する融通念仏宗の寺院で、 本尊の石像浮彫伝薬師三尊像は高さ1.2m、 中尊は倚像で両側に合掌する脇侍立像を配置する。 奈良時代前期の製作かとみられる。 中尊の上部に天蓋を吊懸ける形式は、 白鳳時期の仏や金銅押出仏、 法隆寺金堂壁画に認められる。 西村貞は著作 『奈良の石佛』 (1942年) で 「・・・それがわが国に於ける最も古い仏像の様式を伝へ、 しかも一般に推古時代の諸像にみとめられる古代風の特色がここでは全く認められないほどに典雅優麗をきはめてゐるといふ点で、 この石像は至貴至重のものと云っていい。」 と記す。 |
付近には昔ながらの建物が残り、庭には様々な花が咲く。 この地域の方々が石像をお守りしている。 | |
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舞谷二号墳 | |
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![]() | 鳥見山 (標高247.6m) の山麓に営まれた古墳のひとつ。 道路沿いに古墳に上がるコンクリート階段が設けられているが、 雑草が繁茂した状態にある。 かつては石室前面に保護用覆屋があったが、 今は朽ちた様子となる。 一辺12mの方墳で、 全長4.1mの 「磚槨墳」 である。 石材の間には漆喰を充填している。 奥壁や左右の壁面から板石を徐々にせり出し、 石室断面は家形となる。 地域の方々に生い茂る笹薮と朽ちかけた覆い屋を撤去していただいた。ありがとうございました。 |
秋殿古墳(秋殿南古墳) | |
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![]() | 浅古の集落の間を少し北に行くと、 南に開口する横穴式石室が見えてくる。 南辺の長さ約27m、 高さ9.16mの方墳。 石室全長は13.70m、 玄室長4.48m、 同幅2.26m、 同高さ2.4mである。 北側、 西側に空濠が備わる。 花崗岩の巨石を用い、 玄室側壁は二段を基本とするが、 左側壁の奥壁側は三段積みとなる。 羨道側壁は一段積みで天井石との間に割石を詰める。 側壁を平滑に形づくる傾向にあり、 明日香村越岩屋山古墳の切石二段積みの玄室となる前の段階の特徴をもつ。 石舞台古墳以降、 7世紀中葉前後の築成と思われる。 全員が順に石室に入る。 |
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兜塚古墳 | |
![]() | 八坂神社の境内地を抜けた丘陵上に前方部を西に向けた墳長約40mの小形前方後円墳がある。 河原石積みの竪穴式石槨内に刳抜式家形石棺が納められている。 長さ2.1m、 幅1m、 高さ1m、 蒲鉾形の蓋石の左右に2個ずつ縄掛突起が付く。 石材ははるばる瀬戸内を運ばれてきた阿蘇溶結凝灰岩である。 その実際が観察できる県内稀少例となる。 玉類・鉄鏃・馬具の出土があり、 5世紀末葉から6世紀初頭の年代が与えられている。 古墳墳丘には登らず麓を通過。 |
談山神社大鳥居・談山神社多武峯町石 | |
![]() | 多武峰へ上る表参道に立つ談山神社一の鳥居で享保7年 (1722) の造立。 高さ8.5m、 幅11.5mの大きさだ。 ここ多武峰街道は貝原益軒、 本居宣長、 松尾芭蕉、 また与謝野晶子が通った古道である。 傍らには多武峰一の町石が残っている。 町石は県史跡となっておりここから摩尼輪塔までの5559mの間に、 52基あった。 形式は板碑形で約150cm、 幅33cm、 紀年銘があり、 1654年にあたる 「承応3甲午年10月16日」、 施主は多武峯 「中之坊祐英」 である。 |
メスリ山古墳 | |
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コロコロ山古墳(移築) | |
![]() | かつてメスリ山古墳の北西の谷奥にあったが、 土地区画整理事業で発掘調査された後、 墳丘中央にあった横穴式石室が当地に移築された。 一辺30mの方墳、 石室全長11.0m、 玄室長5.35m、 幅2.3m、 天井石は持ち去られており、 本来の高さはわからない。 巨石を用いた4石三段程度の大型横穴式石室で、 谷首古墳、 秋殿古墳にやや先行して営まれたものと思われる。 床面は第1次、 第2次の2面あり、 上層にあたる第一次ではミガキ調整が顕著な土師器杯蓋・壺、 金銅製刀子などの副葬品があり、 飛鳥時代後半以降に追葬があったことを知る。 第2次は須恵器高杯・杯、 土師器杯、 金環、 鍔などの副葬品があり、 6世紀後半における最初の葬送がわかる。 |
青木廃寺 | |
![]() | 桜井市橋本地蔵ヶ谷に所在する。 谷を堰き止めた池が三つ連なるが、 その最上部の 「古池」 の東側丘陵尾根上を中心に築かれたとみられる。 山中に設けられた小規模な寺院であり、 初期山岳寺院のひとつといってもよい。 池西岸には 「泥掛地蔵」 をまつる小堂が立つ。 明治末年に土地所有者による発掘があり、 平安時代の瓦が多く採取された。 奈良県史蹟勝地調査会報告書第2回 (1914年刊行) として水木要太郎による報告がある。 そのうちに文字瓦があり、 軒平瓦は三重の圏線で囲ったなかに逆文字で906年にあたる 「延喜六年造檀越高階茂生」 と陽刻したもの。 軒丸瓦は複弁五弁の蓮華文に鋸歯文縁が付き、 銘文は鋸歯文の間にあり、 「大工和仁部貞行」 の陽刻がある。 その後の研究で、 銘文の入る瓦は平安時代前期の寺の修理時に用いられたものであることが判明し、 他に出土した瓦からみて、 奈良時代前半に創建されたとみなされるようになった。 軒平瓦中に長屋王邸所用のものの同笵例があることがわかっっており、 創建にあたり高市皇子や長屋王との関係性が示唆される。 写真上 古池と前方が青木廃寺 写真中 青木廃寺跡と説明板 7才と5才の女の子が両親と一緒に参加 無事14kmを歩き抜いた。 写真下 泥かけ地蔵 |
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稚桜神社 | |
![]() | 青木廃寺のある丘陵の西方にこんもり丸い独立丘陵がある。 延喜式内社の稚桜神社である。 ここは桜井市池之内に当たる。 もっとも桜井市谷にも若桜神社があり、 こちらを式内社に当てる説もある。 祭神を出雲色男命、 去来穂別命、 気長足姫命とする。 神社の社殿がある頂上部は平坦で、 次に訪れる吉備池廃寺方面もよく望める。 途中には丘陵全体を幅広い段が取り巻いており、 人為による整形は明らかだ。 とくに調査されたことはないが、 中世城郭の一つとなる可能性もあるのではないだろうか。さて、 磐余には複数の 「天皇」 の宮殿があったことが 『古事記』 ・ 『日本書紀』 等にみえる。 もちろん史実性に問題はある。 現時点での考古学成果もそれらを確定する段階にはないが、 ひとまず史料にあがる諸宮を列挙する。 磐余雅桜宮 (神功)/同 (履中)/磐余甕栗宮 (清寧)/磐余玉穂宮 (継体)/磐余幸玉宮 (敏達)/磐余池辺雙槻宮 (用明) |
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磐余池推定地 | |
![]() | 稚桜神社のある丘陵の西側には、 米川 (戒外川) が流れる。 さらに西方の丘陵に位置する御厨子観音までの間をつなぐ東西方向の約220m、 幅20~45mにわたる彎曲した高まり (小字 「嶋井」) が観察できる。 以前よりこれを人為の築堤とみて、 これより南方の浅く広い複数の谷間を利用して磐余池が設けられたとする説があった。 『万葉集』 巻三の 「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」 は、 「大津皇子、 死を被りし時に、 磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首」 と題詞にある。 日頃、 たしなみのない私どもも知る秀歌である。 歌碑は御厨子観音の入口や吉備池の西側堤に立てられている。 2011年12月、 道路拡幅事業を原因とした発掘調査が橿原市教育委員会によって行われ、 高まりが人工的に造成された築堤であることがはじめて確認された。 さらに堤上面に大壁建物、 竪穴建物、 掘立柱建物、 掘立柱塀が存在し、 それぞれ六世紀後半以前から7世紀前半の年代が与えられている。 最初の建物は渡来系集団との関係性が深いとみられる大壁建物で、 池の開発と渡来人の関係を語る資料となろう。 堤造成土は二ヶ所あり、 砂質土や粘土を厚さ一・四m以上、 積み重ねた六世紀後半のものと、 水平に10~30cm単位で3.2m以上、 積み重ねた七世紀末のものがある。 これは再構築または改修にともなうものとみられる。 大津皇子が 「訳語田の舎」 にて死を賜ったのは、 686年 (朱鳥元) 10月3日のこと。 この度の調査により、 この地が古代の磐余池であった可能性が高まったし、 歌の作成時にも確実に池は存在していたのである。 写真上 築堤 写真下 磐余池推定地 |
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吉備池廃寺 | |
![]() | 吉備池はいわゆる 「皿池」 で、 古代に遡上することはない。 ただ以前から池周辺で古瓦がよく採取され、 付近に瓦窯を想定する向きもあった。 ところが1997年の奈良文化財研究所の発掘調査以降、 ここに他には比肩のない飛鳥時代の大寺院の存在が明らかとなった。 いま、 池の形状をみると長方形ではなく南側土堤に東西2ヶ所の張り出し部分がある。 実はこの西側張り出しが塔跡、 東側張り出しが金堂のそれぞれ基壇になることが判明した。 さらにこれを囲む回廊、 南に中門が開く法隆寺式の伽藍配置となる。 池の北方には数棟の掘立柱建物の確認もあり、 これは僧坊跡とみられている。 写真前方奥が僧坊跡 |
金堂基壇は、 飛鳥寺中金堂の2.5倍、 法隆寺西院金堂の2.2倍、 山田寺金堂の2.3倍、 塔基壇も一辺約32m、 九重塔を備えたという大官大寺の一辺約24mをはるかにしのぐのである。 また、 出土の蓮華文軒丸瓦は、641年 (舒明13) に造営開始の山田寺に先行する特徴がある。 さらに軒丸瓦・軒平瓦ともに二種類に限られ、 出土量も少ないことから短期間での移転が想定できる。 こういった特徴をもつ飛鳥時代寺院にふさわしいのは、 『日本書紀』 舒明11年 (639) に 「秋7月に、 詔して曰く、 『今年、 大宮及び大寺を造作らしむ』 とのたまふ。 則ち百済川の側を以て宮処とす。 是を以て、 西の民は宮を造り、 東の民は寺を作る。 便に書直県を以て大匠とす。」 次いで12月条に 「是の月、 百済川の側に、 九重の塔を建つ。」 というはじめての官寺となる百済大寺が該当するものと考えられた。 百済大寺はその後、 673年 (天武2) には高市大寺、 文武期 (697~707年) の藤原京大官大寺を経て、 平城京大安寺となり今に続く。 吉備池廃寺が発掘調査されるまで、 百済大寺の所在地は不明で諸説があったが、 ほぼ確定されたことで、 舒明大王がこの磐余北方地域で新たな国家づくりを志したことが明らかとなった。 おそらくは、 舒明大王の宮殿となる百済大宮もまた西側に左右対称性のある状況で築かれたものと推測する。 掘立柱建物による構成になるものならば、 吉備池西側から米川 (百済川に該当か) の間の水田地帯の地中に今も残っているのではないだろうか。 蘇我氏の私寺であった飛鳥寺を凌駕し、 伝統的な飛鳥の地から離れた 「百済」 に自らの宮と寺を建設した舒明期の評価として 「乙巳の変」 の序章という意味が新たに付与されよう。 左茂みが金堂跡 中央付近が塔の跡 | |
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蓮台寺五輪塔 | |
![]() | 境内に花崗岩製の総高211cmの五輪塔がある。 下膨れの水輪、 軒隅で反り上がる火輪、 肩の張る空輪の形式は鎌倉時代後期の様式を示すとみられる。 現況では、 容易に判読できないが地輪に 「為一切衆生 奉造立者也 徳治2年未丁卯月8日 願主当□□□」 の刻銘がある。 本居宣長の 『菅笠日記』 に 「村のなか道のかたはらに、 塚ありて、 五輪の石立てるは、 吉備大臣のはかとぞいふ、 石はふるくも見えず」 とあり、 吉備真備の墓石という伝えがあった。 もとは東側に広がる墓地にあったともいう。 墓地は付近十三ヵ大字の郷墓となるが、 徳治2年 (1307) 銘の五輪塔は総供養塔となっていたものと思われる。 |