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阪神石屋川駅→処女塚古墳→郡家遺跡→渦ケ森銅鐸出土地→桜ケ丘銅鐸出土地→桜ヶ丘B遺跡→鬼塚古墳→阪神大石駅→西求女塚古墳→阪神 西灘駅

 
「銅鐸出土地をめぐる」 は、 展示室で観ることの多い銅鐸を出土地から検討するシリーズです。 今回は第2弾で、 銅鐸が数多く出土している兵庫県南東部、 六甲山脈の南側をめぐります。 この地域は、 今回訪れる2ヶ所のほか、 北青木遺跡、 本山遺跡、 生駒、 森、 伝大月山 (以上、 神戸市)、 堂ノ上 (芦屋市) から各1口出土しています。 銅鐸以外にも大阪湾形銅戈が桜ヶ丘から7本、 保久良神社遺跡から1本出土しています。 このように青銅器が多数見つかっている地域となります。 第1弾では奈良盆地で外縁付鈕式銅鐸と突線鈕式銅鐸の出土地を見学しましたが、 今回は扁平紐式銅鐸の出土地を見学します。 どのような場所 (埋納地点からどこが見えるのか、 見通しが良いか・悪いか。 丘陵の最高所か・中腹か、 など。) に埋納されていたのかを現地で確認します。
 
石屋川駅
集合場所の石屋川駅の桜が満開。
上流に桜ヶ丘銅鐸出土地が眺められる。
 
求女塚古墳
求女塚古墳に集合。
案内は北井先生。
出席者136人。
 処女塚古墳は東灘区御影塚町2丁目に所在する古墳時代前期の前方部を南に向けた全長70mの前方後方墳です。 前方部は2段築成、 後方部は3段築成で周濠は不明です。 墳丘の破壊が著しく、 葺石は1部でしか確認されませんでした。 後方部の埋葬施設は不明ですが、 墳頂部で南北約13m、 東西約2.5mの範囲に花崗岩円礫と粘土が認められたことから、 なんらかの埋葬施設があったと考えられます。 また、 くびれ部東側の段築上から箱式石棺が1基検出されています。 長さ約1m、 幅約0.25mで、 5枚の板石からなり、 周囲に円礫を入れていました。 遺物は蓋石上から滑石製勾玉と竹管文をスタンプした特殊埴輪片が出土したほか、 くびれ部の頂上部や前方部の前端から二重口縁壺やスタンプ文をほどこした供献土器が出土しています。

写真上 西から墳丘
写真下 南から墳丘
墳丘裾に2つの石碑が並ぶ。
小山田高家の碑

延元元年(1336)、湊川の戦いに敗れた新田義貞は、生田の森から東に敗走して東明(処女塚近辺)まで来た。しかし、近づいた追手の矢で馬はたおれ、義貞は馬を降りて、処女塚に登って敵を防いだ。その窮状をはるかに眺めた小山田太郎高家は、これまでの義貞の恩義を思い出して、塚に駆け寄って自分の馬に義貞をのせて、東に逃れさせた。高家は塚上に留って敵を防いだが、味方の敗色は濃く、ついにこの処女塚の上で討たれてしまった。太平記の描くこの武勇を記念して、弘化3年(1846)の代官竹垣三左衛門藤原百道が乗明村塚本善左衛門・豊田太平・牧野荘左衛門に命じて建てさせたものである。

田辺福麻呂の歌碑
 「古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥っ城ぞこれ」
この歌は、万葉の歌人、福麻呂が旅の途中で処女塚に立ち寄った時の現況と、それから受けた感動を歌ったものである。古くから処女塚古墳には、東灘区住吉宮町一丁目の東求女塚古墳と灘区都通三丁目の西求女塚古墳にまっわる悲恋の伝説が言い伝えられている。この伝説は二人の男性が一人の女性を慕ったため、女性は身を処しかね、嘆きつつ死んでしまった。それを知った二人の男性も悲しみ後を追った。女性の墓を中にしてヽ男性の墓を東西に造ったという物語である。側面には八十一叟正四位下加茂李鷹とある。その左方に建碑年号と思えるものがあるが明らかではない。

 
石屋川に沿って北上。
 
石屋川トンネル
石屋川トンネルは、 1871 (明治4) 年に完成した日本で最初の鉄道のトンネルです。 石屋川の下を横断し、 幅4.1m、 長さ61mありました。


 六甲山脈を背にして瀬戸内海にひらけている西宮~神戸間は、 急勾配の短い川が何本も流れているため、 土砂の堆積により川底が周囲の平地より高くなった 「天井川」 になっているものが多くあります。 東海道線の敷設工事をする際に、 天井川だった芦屋川・住吉川・石屋川は川の下にトンネルを掘って線路を敷く工法が採用されました。 この中で最初に工事が完成したのが石屋川トンネルです。 トンネル工事はイギリス人技術者の設計・監督により行われ、 明治4年7月に完成しました。 工事は川の流れを木製の仮水路に変え、 川底を掘り下げ、 レンガを積み重ねてトンネルを作りながら川を元に戻す方法で行われました。
 現在は、 1919 (大正8) 年の複々線化工事により埋め戻され、 1976 (昭和51) 年に線路が高架化され、 石屋川の上を通過するようになり、 標識と解説版が立てられています。


 
郡家遺跡
石屋川流域の弥生時代の遺跡は、 処女塚古墳の盛り土内から前期の土器片が出土していることから前期の集落が海岸沿いにあったと考えられます。 中期前半の集落遺跡は不明確ですが、 中期中葉になると上流域の標高125m地点にある桜ヶ丘B地点遺跡で住居跡が24棟確認されています。 さらに標高の上がる150m地点には滝ノ奥遺跡が営まれています。 中流域の扇状地上には郡家遺跡があり中期後半には方形周溝墓が、 後期には竪穴住居跡が多数確認されています。 本流域の上流域では桜ヶ丘から銅鐸14口、 銅戈7点が出土しています。
 

深田池で休憩後急な坂を上る。

 
森銅鐸、生駒銅鐸出土地を望む。
(写真下  山並みの右端)

森銅鐸は、 東灘区森北町で造成工事中に発見されました。 出土地点は六甲山脈南斜面の標高50mの山腹で、 大阪湾を眼下に望む眺望の良い所です。 弥生時代中期の坂下山遺跡に近接しています。 外縁付紐2式の4区袈裟襷文銅鐸で、 総高33.0㎝、 鐸身23.2㎝、 裾径16.7㎝×約10㎝、 重量は2.173㎏あります。 内面凸帯は1条で、 若干摩滅しています。 A面下段右区に人物が3人描かれています。 香川県出土の銅鐸と同笵関係が確認されています。 現在、 東京国立博物館に所蔵されています。
 生駒銅鐸は、 東灘区本山北町の神戸女子薬科大学構内から薬草園造成作業中に出土しました。 出土地点は六甲前山尾根部が急傾斜する南斜面で、 標高120mの地点です。 谷を1つ隔てた西側には銅戈1本を出土した保久良神社遺跡があり、 同じく谷を1つ隔てた東側には森銅鐸出土地点があります。 本銅鐸の出土地周辺には、 東西2.4m、 南北1.6mの範囲に十数個の石組があり、 この中でも特に大きな1m大の石の西側から銅鐸が出土したとされています。 石組と銅鐸の関係は明らかではありませんが、 埋納と関係があるかもしれません。 扁平紐式の6区袈裟襷文銅鐸で、 総高53.2㎝、 鐸身38.3㎝、 裾径26.3㎝×19.8㎝です。 鐸身部は、 斜格子文帯と連続渦巻文帯の2段構成で4回横に重ね、 最下帯は内向する鋸歯文を重ねています。 縦は斜格子文帯を中央・左・右に3帯配し、 6区画に仕切っています。 現在、 国立歴史民俗博物館に保管されています。

 
さらに急な坂を上り渦ケ森銅鐸出土地へ向かう。
 
渦ケ森銅鐸出土地
渦ケ森銅鐸は、 昭和9 (1934) 年2月7日、 東灘区渦森台1丁目の道路工事中に発見されました。 住吉川の上流で西谷川渓谷の西側尾根筋に位置し、 荒神山遺跡の西約500mになります。 尾根が急傾斜して下降する突出部に近い平坦地の西南隅、 標高240m付近で、 南側に眺望が開き大阪湾を望めます。 地表下約30㎝に埋納されていたとされ、 紐を上にして東西方向に斜めに横たわっていたと報告されています。 扁平鈕式の4区袈裟襷文銅鐸で、 総高47.9㎝、 鐸身34.0㎝、 裾径24.0㎝×15.5㎝、 重量4.214㎏あります。 各区画内には四頭渦文が描かれています。 B面には鋳掛けを行い斜格子文と四頭渦文を補刻した部分があります。 A面鈕内縁部に車輪状文が2つみられます。 舞の内側に舌のつり鈕をかけるための半環を作りつけています。 飾耳は全体に小さく、 鈕に3つ、 鰭に3対あります。 内面凸帯は2条です。 現在、 東京国立博物館に所蔵されています。
写真上左 出土地碑
 
桜ヶ丘銅鐸出土地
桜ヶ丘銅鐸・銅戈は灘区桜ヶ丘町、 石屋川上流の六甲山脈南斜面地に所在する通称神岡と呼ばれる標高約240mの丘上から、 1964年12月10日、 銅鐸14口、 銅戈7本が一括で土取作業中に偶然発見されました。 1970年に一括して国宝に指定され、 現在神戸市立博物館に所蔵・展示されています。

出土地は手前2本の鉄塔の間。
 これらの銅鐸・銅戈は、 尾根筋から北東方向にやや下ったあたりの急斜面に一括して埋納されていたとされます。 埋納坑の規模は斜面が崩落しているため不明です。 埋納状況は不明ですが銅鐸に付着した錆の状況から、 2群に分けて埋納されていたと推定されています。 14点の内訳は、 流水文銅鐸3口、 袈裟襷文銅鐸11口で、 大きさは様々です。 1・2・4・5号銅鐸には絵画が描かれていました。 1・2号鐸には横帯の部分に人物やシカ・トンボなどが、 4・5号鐸は区画内に人物や動物などが描かれていました。
 銅戈は長さ27.1~28.9㎝で、 ほぼ同じ大きさです。 樋の部分に複合鋸歯文を鋳出した大阪湾形銅戈と呼ばれるものです。
 桜ヶ丘銅鐸には、 突線鈕式銅鐸が含まれておらず、 埋納時期が突線鈕式の前の段階と考えられます。 突線鈕式銅鐸の使用時期は、 弥生時代後期であるため、 中期~後期にかけて起きた社会変化や天災などに反応して埋納を行ったのではないかと考えられています。

出土地から東は展望がよい。
 
下流に桜ヶ丘銅鐸出土地のモニュメントがある。
 
鬼塚古墳
鬼塚古墳は、 照光寺境内に所在する古墳時代後期の古墳です。 内部主体は横穴式石室で、 人骨、 須恵器、 鉄器などが出土しています。 現在、 土取のため封土はなく、 天井石も失われています。 奥壁は1石で、 側壁は2段目まで残存しています。
 
西求女塚古墳
 西求女塚古墳は、 灘区都通3丁目に所在する古墳時代前期の前方部を東に向けた前方後方墳です。 現在は海岸線から約400m離れた所に立地していますが、 築造当時は海岸線から約100mに位置していたと推定されています。 全長約98mで、 葺石は墳丘の改変等により一部でのみ確認されています。 埋葬施設は墳丘に直交した南北方向の竪穴式石室で、 約3分の1が地滑りにより崩れており、 残りは削平を受けていました。 この地滑りは、 1596年の伏見地震によるものです。 石室は全長約5.6m、 幅0.95mで、 主室と副室に分かれていました。
 墳丘上から山陰系土器を主体とする多数の土器類が、 埋葬施設内からは、 主室から三角縁神獣鏡7面、 浮彫式獣帯鏡2面、 画文帯環状乳神獣鏡2面、 画像鏡1面、 武器 (鉄槍・短剣)、 武具 (小札) が、 副室から武器 (鉄剣・鉄刀・鉄槍・短剣・鉄鏃)、 工具 (鉄斧・鏨・ヤリガンナ)、 漁具 (ヤス)、 紡錘車形石製品1点が出土しました。