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野洲駅→古冨波山古墳→冨波古墳→亀塚古墳→大塚山古墳→銅鐸出土地→銅鐸博物館→宮山二号墳→円山古墳→甲山古墳→天王山古墳→福林寺跡・摩崖仏・福林寺古墳群→越前塚古墳→野洲駅

JR野洲駅
「琵琶湖の湖南地域に位置する野洲は 「安」 とも記され、 近江の中でも広大な平野が展開する。 縄文時代晩期には集落が営まれ、 それ以後連綿と人々は生活を営み、 肥沃な耕地を背景に勢力を蓄え、 日本で最大の銅鐸埋納がおこなわれた大岩山遺跡やその後形成される大岩山古墳群への基盤を築くことになる。」

「今回訪れた古墳時代の野洲地域の首長墓は、 冨波古墳→古冨波山古墳→大岩山第2番山林古墳→大塚山古墳→亀塚古墳→ (林ノ腰古墳) →越前塚古墳→円山古墳→甲山古墳→宮山一号墳→宮山2号墳という順序で前期から後期へと大和王権と直接的な関係を持ちながら築造されたと考えられる。 以上のように野洲は、 古墳時代を通して首長墓を見学できる稀有な地域と言える。 」

昨日の雪が残る野洲駅に144名の会員が集まった。西藤館長の地元野洲の古墳を巡る。
 
久野部古墳群を左に眺めながら古冨波山へ向かう。
 
古冨波山古墳
「明治29 (1896) 年に偶然地元民によって墳丘上から三面の銅鏡が発見された。 これらの鏡は三角縁陳氏作四神二獣鏡、 三角縁王氏作四神四獣鏡、 三角縁三神五獣鏡であり、 同笵関係が京都府椿井大塚山古墳、 奈良県黒塚古墳、 福岡県老司古墳などに認められる。 この古墳は昭和49 (1974) 年に墳丘が調査され、 直径約30mの円墳と考えられている。 その際、 主体部の一部が検出され、 木棺直葬と推定された。」

墳丘は残っていない。鏡出土地付近で説明を聞く。
 
冨波古墳
「昭和57年に発見された全長42mの前方後方墳であり、 周濠が巡る。 後方部は長さ22m、 幅20.7mであり、 前方部はほぼ直線的に開き、 長さ20m、 幅19mである。 周濠くびれ部付近で検出された井戸状遺構から近江の特徴を示す古墳時代初頭の甕が出土しており、 さらに周濠東隅部から東海の特徴を示す丹塗りの壺が出土している。 この古墳は大岩山古墳群8基の中で最古に位置付けられ、 東海で展開した前方後方墳が採用されているのも特徴である。 」
墳丘の外形がわかる形で復元されている。
 
亀塚古墳
「全長45m以上の前方後円墳か帆立貝形古墳と考えられる。 後円部径33m、 後円部高約5mであり、 前方部は西に向くが、 前方部はすでに削平されている。 この古墳の周濠からは形象埴輪、 朝顔形埴輪、 円筒埴輪、 須恵器が出土している。 これらの出土遺物からこの古墳は5世紀末葉頃に築造されたと考えられる。」
 遠くに近江富士、三上山が望める。
俵藤太(藤原秀郷)が、近江国瀬田の唐橋の竜神に頼まれて、三上山の大百足退治した伝説がある。
 
生和神社
生和神社の草創は平安時代で、その後、鎌倉時代に富波荘の領主鎌倉左衛門次郎が、祖先を氏神として祀ったとも伝えられる。
 本殿は一間社としては大型で、背面に縁を廻し、中備えに蟇股を飾ることなとが特徴である。南北朝時代の建立と考えられる。
神社の横に祇王井(ぎおい)川が流れる。
平清盛に寵愛された祇王は野洲町の出身と言われている。水不足に苦しんでいた人々のため、祇王は清盛に頼んで水路を引いてもらった。この水路を祇王井と呼ぶようになったという。
 
大塚山古墳
「大岩山丘陵の北西の平野部に立地する。 この古墳の墳形は帆立貝形を呈し、 円丘部は直径57m、 高さ7.3mを測り、 造り出しは長さ約8m、 幅約33mであるが、 1:2でその幅が分割され、 2か所の突出部から成る。 この古墳には二重の周濠が巡り、 墳丘には葺石や埴輪が認められる。 特に造り出し部の北突出部には形象埴輪が多く配され、 家・蓋・鶏・水鳥・船・人物・盾・甲冑など多種に富んでいる。 主体部は墓坑のみ検出で調査を終えているが、 副葬品の一部を示す滑石製勾玉、 滑石製刀子形模造品、 ガラス玉、 甲冑、 鉄鏃、 須恵器が検出されている。 中でも甲冑は鉄地金銅製縦矧細板鋲留式眉庇付冑、 短甲用の銀製蝶番金具があり、 5世紀中葉から後葉の首長墓として相応しい副葬品の様相を示している。」
造り出し部
すぐそばを新幹線が走る。
新幹線から眺めた大塚山古墳 2月16日撮影
 
中山道に沿って北上
 
大岩山遺跡 銅鐸博物館
「近江の古墳時代前史を飾るに最も衝撃的であり、 相応しい大量の銅鐸が出土した遺跡である。 この遺跡から明治と昭和の二回にわたって同じ丘陵から24点の銅鐸が発見されている。 明治14 (1881) 年、 地元の人々により14点が掘り出され、 現在までに13点の行方が確認されているが、 なお1点は不明であり、 地元には1点も現存しない。 13点の内、 2点が現東京国立博物館に納められ、 その中の1点は日本最大の銅鐸である。 他には遠くドイツやアメリカの博物館や美術館での所蔵が確認されている。 昭和37年には東海道新幹線工事に伴う土取り場から10点が発見され、 古物商等に流出したが関係者の努力により回収された。 しかし、 2度にわたって大量に出土した箇所は、 土取りによって消滅し、 跡形もないが、 ただ少し離れた位置に 「銅鐸出土地」 の石碑が建てられている。 」
「明治に発見された現存する13点の銅鐸はすべてが銅鐸の形式では最も新しい突線鈕式段階であり、 12点が袈裟襷文で、 他の1点が横帯文であり、 近畿式と三遠式の中間的なものが多い。 昭和37年に発見された10点すべて突線鈕式段階であるが、 1点流水文鐸があり、 この銅鐸は大岩山山頂付近での出土と考えられている。」
複製を含め博物館に展示されている。
 
宮山二号墳
「昭和37・63年に調査された横穴式石室を内部主体とする直径15mの円墳であり、 石室は両袖式で南西に開口する。 石室は全長8.1m、 玄室長3.3m、 幅1.8mである。 石室羨道から外側へは外護列石が延びる。 石室には花崗岩製の石棺が納められている。 出土遺物は耳環、 須恵器であり、 7世紀初葉である。」
 
甲山古墳
「円山古墳の西に位置する直径約30m、 高さ8mの円墳である。 内部主体は右片袖の横穴式石室で全長14.3m、 玄室長6.8m、 幅2.9m、 この石室には熊本県宇土半島産馬門石製の刳抜式家形石棺 (長さ2.6m×幅1.6m×高さ1.2m) が納められている。 石室からは銀装鉾・装飾大刀・挂甲などの武器・武具、 馬甲・鐘形鏡板付轡などの馬具、 金糸、 金銅製飾金具、 銅製金具、 3000以上のガラス玉、 各種玉類、 石室内に幕を張るために用いた鉤状鉄器が出土している。 この古墳の築造時期は、 石棺や須恵器から6世紀中葉と考えられる。」
 
円山古墳
「大岩山丘陵の北東先端部に築造された直径約28m、 高さ約8mの円墳である。 この古墳の内部主体は片袖式の横穴式石室であり、 石室全長10.75m、 羨道長6.45m、 玄室長4.3m、 幅約2.4m、 高さ3.1mである。 この古墳の石室の特徴は羨道部床面に比べ玄室床面が低いことや玄室内に納められた家形石棺が熊本県宇土半島阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式の石棺 (長さ2.85m×幅1.43m×高さ1.83m) である。 さらに二上山凝灰岩製の組み合わせ式家形石棺も納められていた。 既に盗掘に遭っていたため、 副葬品は断片的であるが、 冠・銀製空玉・10,000点にのぼるガラス玉などの装身具、 捩環頭大刀・鉄矛・鉄鏃・胡ロクなどの武器、 挂甲などの武具、 馬具、 多種の飾金具が出土しており、 6世紀初頭の様相を示している。 昭和16年に甲山古墳とともに史跡指定、 昭和60年に 「大岩山古墳群」 として再指定。」
 
天王山古墳
「甲山古墳の同一丘陵の南西側に位置する北に前方部を向ける全長50mの前方後円墳である。 後円部径26m、 高さ8m、 前方部幅24mである。 以前は前期古墳と考えられていたが、 平成9年の調査により前方部に西に開口する横穴式石室が存在することが明らかになった。」

前方部から後円部を望む。
南遠方から墳丘を眺める。
 
福林寺磨崖仏
福林寺跡の遺構の大半が野洲中学の敷地となっており、遺跡の詳細は不明。天武天皇の時、石村主宿禰(いわきのすぐりすくね)が、鎮護国家を祈念して建立した寺院であるとされてる。石村主宿禰は日本書紀天智3年12月条(664年)に「栗太郡の人磐城村主」とあり、渡来人系の氏族であるという記録もある。また、野洲市西河原森ノ内遺跡出土の木簡には「戸主石木主寸□□呂」という名前が見えることから、「イワキ」氏は、栗太郡から野洲郡にかけて大きな勢力を持った氏族である。

北東山際に磨崖仏が残る。
 
東側小川を渡ると小磨崖仏がある。
 
越前塚古墳
「野洲駅東の妙光寺山から北西に延びる丘陵の先端に築造された全長50mの前方後円墳であり、 後円部径14m、 高さ4.7m、 前方部幅21m、 高さ3mである。 後円部中央には右片袖の横穴式石室が設けられている。 発掘調査がされていないため詳細は不明だが、 玄室は全長5.3m、 幅2.9mの長方形を呈し、 扁平で小ぶりな板状の石材を持ち送って積み上げている。 羨道部は埋没しているが、 細長く、 西くびれ部に北に開口する。 過去に埴輪が採集されたと伝えられるが、 詳細は不明である。 この古墳は、 滋賀県下で最も古い横穴式石室を内部主体とする古墳の1基である。」

野洲中学前で解散。雪のため越前塚古墳には登らず。

写真左 北から望む越前塚古墳(正面丘の上)
写真右 西から望む越前塚古墳