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近鉄桜井駅→桜井市金屋 「佛教伝来之地」 石碑→安倍文殊院→安倍寺跡→吉備池廃寺→山田寺→飛鳥寺→近鉄橿原神宮前駅

桜井駅
 廣岡孝信先生に案内いただくのは、 今秋の特別展 「仏教伝来」 に因んだ仏教伝来の地である。 目指す最初の目的地は、 欽明天皇の磯城嶋金刺宮推定地近くに建つ 「佛教伝来之地」 石碑、 そしてもう一つは、 日本最初の本格的寺院である飛鳥寺である。 この両地点を徒歩移動するに際しては、 七世紀の幹線道路の一つである阿倍・山田道を通り、 飛鳥へ向かう。 この道が今回の最大の難所で、 長い坂道を越えれば、 前方には特別史跡として整備された山田寺跡が見えてくる。 続いて飛鳥寺を経て、 甘橿丘の麓を通り、 近鉄橿原神宮前駅へむかう。
 
磯城嶋金刺宮推定地
三輪山を眺めながら初瀬川を歩く。
  『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』 によると西暦五三八年、 『日本書紀』 によると西暦552年に、 百済の聖明王から金銅の釈迦像・経論・幢蓋などが欽明天皇へ届けられたという。 今日ではこれが日本への仏教公伝の出来事として知られている。 当時の欽明天皇の宮は磯城嶋金刺宮であったとも記されており、 その所在地は現在の桜井市金屋~外山(とび)に広がる城島遺跡付近に比定する説がある。 また昨年度の当研究所の発掘調査では、 城島遺跡の東側に近接する脇本遺跡の発掘調査で、 六世紀代の大型掘立柱建物跡が確認された (秋季特別展図録「仏教伝来」に調査担当者が紹介)。 現状では磯城嶋金刺宮の所在地を断定できないが、 三輪山の南側付近に、 その宮とほぼ同時期の大型建物が存在することを考古学的に指摘できる。 現在、 「佛教伝来之地」 石碑が建つのはこの三輪山南麓の地である。
推古16年(608)小野妹子が遣隋使として派遣され、翌年隋の使節裴世清を伴い帰国。6月に難波に到着、8月3日、裴世清一行は海柘榴市に上陸、飾騎(かざりうま)75匹をもって迎えた。

初瀬川河川敷には飾騎のモミュメントが立つ。

上流 脇本遺跡方面
右手奥が城島遺跡
初瀬川下流を望む。
難波からここまで船が遡ってきた。
 
安倍文殊院
安倍文殊院は、 安倍寺の法灯を受け継ぐ古刹。
文殊院西古墳
文殊院東古墳
 
安倍寺跡
 桜井市安倍に所在する安倍寺は、 阿倍氏の氏寺と考えられ、 昭和40年・42年に旧境内の中心伽藍で発掘調査が実施された。 その結果、 7世紀中頃の創建で、 法隆寺式の伽藍配置を採用し、 回廊内には東に金堂、 西に塔が確認された。 塔心礎は失われていたが、 調査時の塔基壇上面から地下2.25mで、 地下式心礎を安定させるための根石の存在が確認された。 基壇の化粧石は失われていたが、 塔基壇の規模は一辺約12.1m、 金堂基壇の規模は東西約22.8m、 南北約18mと推定されている。 また後世の削平が著しいために、 中門は明らかになっていない。 史跡整備された現地には、 金堂・塔の基壇、 部分的ながら回廊の基壇も明示され、 さらに鎌倉時代の平窯も現地で覆い屋の中に保存されている。
塔基壇
金堂基壇
瓦窯跡
 
吉備池廃寺
 桜井市吉備に所在し、 1997年度からの発掘調査によって、 舒明天皇発願の百済大寺である可能性が高いと指摘される寺院遺跡である。 版築地業の範囲が確認された金堂・塔の基壇は飛鳥時代寺院の中でも突出して大きい。 僧房とみられる掘立柱建物も確認されたが、 講堂はまだ確認されていない。 軒瓦の出土は極めて少ないが、 蓮華紋軒丸瓦・型押し忍冬紋軒平瓦・型押し忍冬紋に三重弧紋を加えた軒平瓦がある。 この型押し忍冬紋は若草伽藍の型押し忍冬紋と同笵であるが、 笵キズが生じており、 若草伽藍の造営後にこの寺の瓦が製作されたと考えられる。 『日本書紀』 によると、 百済大寺は舒明11年 (639) に造営が開始されたと記され、 百済川のほとりにこの寺と百済宮が造営されたという。 舒明13年 (641)、 天皇はこの宮で崩御したという。 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』 によると百済大寺は天武2年 (673) に高市の地へ移築され、 天武6年 (677) には高市大寺を改めて大官大寺と号したという。 『続日本紀』 によると大宝元年 (701) には造大安寺官の記述があり、 先の 『縁起』 には文武朝に九重塔・金堂が建ち、 丈六仏を造像したという。 平城京の大安寺は、 この百済大寺・高市大寺・大官大寺の法灯を継ぐ。
金堂基壇
後方 塔基壇
 
阿倍山田道
 阿倍山田道を南下。
 途中小立古墳の説明を聞く。(写真下 民家の裏付近に埋没)
 埴輪のほか、「木製埴輪」魔よけの意味を持つと言われる石見(いわみ)型、矢を入れる靫(ゆぎ)形や盾形、太刀形といった4種類18点が出土した。
 石見型木製品の表面には何らかの装飾を施すための穿孔(せんこう)や、直弧紋(ちょっこもん)と思われる紋様が全国で初めて見つかり、靫形「木製埴輪」の出土も初めて。
 円筒埴輪7個を1セットとし、そのセット間から石見型木製品の基部が樹立した状態で見つかったことから、「土製埴輪」とともに墳丘上に立て並べられていたことが判明。
 また、車輪が、谷奥から大雨等により流れ出し堆積した古墳を埋めた土砂の中から7世紀後半の土器と一緒に見つかった。
 出土したのは、車輪全体のうちタイヤにあたる輪木が約半分とスポークにあたる輻が3本。また、車軸留めと思われる木製品も4分の1程度残っていた。復元すると直径109.6cm。
 山田道を通る荷車が壊れて捨てられたものとも考えられる。
 
山田寺
 桜井市山田に所在し、 特別史跡山田寺跡として中心伽藍の大半が整備されたが、 現在も法相宗大化山山田寺として、 かつての講堂跡に観音堂が建つ。 この寺の造営過程は、 『上宮聖徳法王帝説』 の裏側に記され、 一般に 「裏書」 (うらがき) と呼称される。 それによると、 蘇我倉山田石川麻呂の発願寺で浄土寺と号し、 舒明13年(641)の造営開始と伝える。 大化5年 (649) に謀反の罪を着せられた石川麻呂が自害すると建立事業は中断したが、 天智2年 (663) には塔の造営によって事業が再開され、 天武14 (685) に丈六仏の開眼供養があり、 同年に天武天皇が行幸している。 この頃に中心伽藍は完成したのだろう。 発掘調査で出土した東回廊の建築部材は現存最古の木造寺院建築であり、 飛鳥資料館で見学できる。
宝蔵跡
東面回廊跡
金堂礼拝石

石川麻呂はここで自害した。
現在の山田寺
 
飛鳥寺
 崇峻元年 (588) に蘇我馬子によって発願された蘇我氏の氏寺で、 法興寺・元興寺とも呼称される僧寺であった。 創建時の軒瓦は軒丸瓦のみであり、 軒平瓦は製作されなかった。 近年、 その二種の軒丸瓦は紋様の特徴から 「花組」・「星組」 と区別・呼称される機会が多く、 2種の軒丸瓦は紋様だけでなく製作技法も異なっていることが知られている。 塔跡の発掘調査では地下式心礎の検出時に挂甲・砥石・馬具・耳環・玉類などが出土し、 古墳時代後期に通有の副葬品が舎利・舎利容器とともに埋納されたことが確認された。 伽藍配置は、 塔を中心とする1塔3金堂式で、 軒丸瓦の紋様と同じく朝鮮半島に類例が求められるとされる。
 
豊浦寺跡
飛鳥に初めて宮を作った推古天皇豊浦宮跡とみられている。
西側 甘樫座神社境内で東西の建物跡が見つかった。豊浦寺回廊か僧坊跡と考えられる。
 
帰路
 
和田池
 
和田廃寺跡
和田廃寺跡に立ち寄る

敏達天皇14年(585)に蘇我馬子が建てた大野の丘北塔跡とする説があったが、出土瓦から7世紀前半の建立と判明。大野丘北塔説は否定された。
畝傍山に向い橿原神宮駅へ