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郡山城外堀緑地→羅城門→下三橋遺跡→京南辺条条里→東堀川→中ツ道→五徳池→九条大路→JR郡山駅

 2005年、 大和郡山市教育委員会と元興寺文化財研究所による調査で、 平城京の南京極と考えられていた九条大路よりも南側において、 条坊遺構が検出された。 予期せぬ条坊の発見は、 定説を覆す発見としてニュースでも大々的に報道され、 平城京研究に大きな衝撃を与えた。 2007年、 十条大路が検出され、 それより南の条坊推定地では条坊遺構が確認されなかったことなどから、 条坊遺構の範囲が十条までである可能性が高まっている。
 江戸時代末期の国学者である北浦定政が復原して以来、 平城京の南端が九条だということは、 いわば常識だった。 しかし、 「十条」 の発見により、 その常識を前提とするさまざまな認識や理解には新たな説明が求められている。
 今回、 歩くのは羅城門から左京 「十条」。 常識を覆す発見によって論争の渦中にある遺跡や今も良好に残る地割を巡り、 平城京研究の最前線に触れることを目的とする。
 
JR郡山駅
今日の案内は重見 泰氏

順路 ①→②→④→⑤→⑥→⑦→③
 
郡山城外堀旧秋篠川 地図①
JR郡山駅西口から西へ200mほどいくと郡山城の外堀を整備した緑地に至る。
この外堀は、 本来、 平城京の造営で付け替えられた秋篠川の延長にあたる。 秋篠川は郡山城の築城にともなって現在の流路に曲げられ、 残った旧流路の窪地が外堀として整備された 。
 
羅城門 地図②
九条大路を踏襲する市道九条線を西九条町南交差点から東へ向かうと、 佐保川には羅城門橋が架かっている。
この橋の南側、 佐保川右岸で羅城門の基壇西端が確認された 。 来生 (ライセイ) という地名が残り、 地割には現在も羅城門の存在を示す南への張り出しが残っている。 調査当初は桁行五間に復原されていたが、 その決め手となる朱雀大路の幅員と位置がより正確に復原できるようになり、 最近の研究では七間だと考えられている 。
羅城門跡の南西の説明板前で説明を聞く。

高くなった堤防付近が羅城門跡。

 
来世墓

羅城門跡の南西に来世墓がある。寛永年間(1624~1643)にできたといわれ、「らいしょ墓」とも呼ばれている。来世墓の石鳥居は、二基一具の造立で珍しい形式。

 
羅城門橋から
羅城門跡から北に朱雀門と大極殿をのぞむ。
上の写真の拡大

手前朱雀門と後方大極殿が重なり鴟尾が光る。
 
羅城門橋南側川底から礎石跡が見つかった。
南東側の公園にある羅城門記念碑。
 
下三橋遺跡
 羅城門の中心を東へ500mほど延長した場所、 下三橋遺跡で羅城とみられる掘立柱列が確認された。 この柱列は九条大路よりも南に位置し、 東一坊大路までで止まっている。 東・西一坊大路の範囲では九条大路から南へ張り出す地割が認められることから、 柱列からなる羅城を反映しているものと思われ、 九条大路の遺存地割の振れが大きいのはこのためだと考える。

イオン敷地北側、九条通り沿いに柱列が復元されている。
 
掘立柱列 地図③
 
十条大路跡 地図④
下三橋遺跡南端で十条を構成する条坊道路が検出された 。 それらは九条以北の条坊道路と同一の規格・方位であり、 条坊道路で区画された土地には小規模な建物が認められるが、 建物の密度は希薄である 。 条坊道路や建物は奈良時代初期に設置され、 730年頃までに人為的に廃絶されているようである。
 調査担当者は、 十条の廃絶後、 その一坊を五分割して京南辺条条里が設定され、 その南側を70mほど覆う形で一般条里が施工されたと解釈する。 その結果、 京南辺条条里の南端に35mほどの東西に細長い地割が生じたとする。

下三橋遺跡南側
たこだ池から東に十条大路跡(右田圃)を望む


西は池で分断
 
大和郡山市元気城下町プラザ
下三橋遺跡に立つイーオンモール内、大和郡山市城下町元気プラザに出土物が展示されている。
 
東堀川跡 地図⑤
 十条において、 条坊道路は京南辺条条里や一般条里に覆われてその痕跡を留めてないが、 平城京と関連する痕跡は認めることができる。
 京南辺条条里南端であるたこだ池北辺の道を池から東へ約500mほど行くと、 東堀河を示す地割がある。 東三坊の九~十二坪を南北に貫くように造られた堀河である。 おそらく、 北は佐保川、 南は地蔵院川までの約4.2kmの長さがあり、 八条では東市を通る。 この遺存地割の調査では幅約9~13mの東堀河の遺構が確認されている。  
十条大路から北を望む。
前方の稲穂の残る田圃の幅で東堀川が流れていた。
北側から東堀川を望む。
正面丘で川は終わる。
 
中ツ道跡 地図⑥
 東堀河からさらに約500m東へ向かうと今度は中ツ道の遺存地割に行き着く。 遺存地割は、 唐長安城の芙蓉苑曲江池を模したといわれる五徳池の西端から南へ延び、 遺存地割の一部には 「京道」 という字名が残る。 しかし、 九条大路を踏襲する市道九条線の北側、 つまり、 平城京内には中ツ道の遺存地割はまったく残っていない。 すなわち、 九条大路以北では、 平城京の造営にともなって中ツ道の側溝を埋め戻したのに対し、 九条大路以南では、 道路として維持されたものと考えられる。 そして、 遺存地割の残らない十条条坊よりも存続期間が長いことは間違いなく、 十条の施工、 廃絶とは一線を画していたようである。 十条が、 本来、 宅地として計画された条坊であるならば、 中ツ道は九条大路以北で想定されるように、 埋め戻されたに違いない。 十条の施工、 廃棄に中ツ道がまったく影響を受けていないのは、 十条が一般的な京域ではなかったことを示しているのかもしれない。 また、 五徳池に接することから、 五徳池に関わる園地を区画する道路であった可能性も想定される。
 十条条坊のうち、 長岡京期まで存続したとされる東一坊大路東側溝も遺存地割はなく、 中ツ道の方が後まで残っていた可能性が高い。 遺存地割のある東堀河と同じ十世紀頃まで維持されていたのかもしれない。  
十条大路跡で中ツ道跡を眺めながら説明を聞く。
十条大路跡で中ツ道跡を眺めながら説明を聞く。
 
五徳池
中ツ道に沿って北上し、 市道九条線に至る。 この道路が九条大路を踏襲した道路である。

市道九条線から中ツ道跡を望む。
左堤防が五徳池。
 
左京九条四坊十二坪付近
 柱列からなる羅城が東一坊大路までしか存在しないことは間違いないだろう。 しかし、 それより東側に羅城がないとは言えない。 井上氏は左京九条四坊十二坪付近の調査成果を再検討し 、 検出された築地塀を羅城と考え、 羅城が平城京南面全域に設置されていたとする 。

地図⑦から西に約100m、築地塀が検出された地点。

右手に京域、 左手に十条を眺めながら九条線を西に向かい、 解散地のJR郡山駅をめざす。