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近鉄漕代駅→神麻続機殿神社→粟垣内遺跡→坂本古墳群→塚山古墳群→斎宮歴史博物館→斎宮跡→いつきのみや歴史体験館→近鉄斎宮駅解散

(解説は会報から抜粋)
斎宮跡では、 発掘40周年にあたる2009年に出土した遺物が重要文化財に指定され、 年々整備も進んでいます。
今回は、 周辺の遺跡や斎王ゆかりの地もあわせて巡りたいと思います。
集合場所の近鉄漕代駅から北上します。 付近は田園地帯で平坦な地形が続き、 山もはるか遠くにかすかに見える程度です。 大和三山を見慣れた奈良のみなさんにとって、 方向の指標となる山がない景観は異空間に写るかもしれません。 伊勢湾は北に位置しており、 川は南から北へと流れています。
 
近鉄 漕代(こいしろ)駅
久ぶりに遠くまで来たが100名を超える出席。
普段は無人駅だが駅員が出張。
川崎先生の初めての例会。
 
神麻続機殿(かんおみはたどの)神社
西に流れる櫛田川と東に流れる祓川に挟まれた沖積低地に位置します。 櫛田川の東堤を北上し、 東へ道を下ると、 北方にこんもりとした森と入り口の鳥居が見えて来ます。







 皇大神宮 (伊勢神宮内宮) 所管の神麻続機殿神社とその末社8社が鎮座しており、 御機殿(八尋殿) の鎮守の神が祀られています。
 伊勢神宮 (皇大神宮および荒祭宮) で5月14日と10月14日に行われる神御衣祭では、 この八尋殿で手織りされた荒妙 (麻布) が地元の人々により奉納されており、 年に2回、 機織りの音が響きます。
 なお今回は行きませんが、 神麻続機殿神社から2㎞離れた北部には神服織機殿神社が位置します。 神服織機殿神社では、 和妙 (絹布) が手織りされ、 伊勢神宮 (皇大神宮および荒祭宮) で5月14日と10月14日に行われる神御衣祭に地元の人々により奉納されています。
 
祓川
さて、 神麻続機殿神社から東へ向かい、 祓川を渡ります。
 祓川は、 伊勢に群行してきた斎王が斎宮に入る前に禊をした川です。 江戸時代に伊勢神宮へ参拝する旅人も、 この川を渡るときに祓をして身を清めたことから、 この名前が付いたといわれています。
 
粟垣内遺跡
前方に坂本古墳群の森が見えてくる。

栗垣内遺跡は、明野原台地の先端部に位置します。 祓川を越え、 なだらかな坂をのぼって少し小高くなったこの地点は、 縄文時代晩期から弥生時代の集落遺跡です。 縄文時代晩期の遺物は石刀や硬玉製の玉が見つかっています。 また、 弥生時代前期の環濠状に巡る溝からはたくさんの遠賀川系土器が出土しています。
 粟垣内遺跡付近では、 ゆるやかな傾斜のために沖積低地から台地への地形変化があまり分かりませんが、 上流側の斎宮跡付近での比高差は約2.8m、 金剛坂遺跡付近では約5.0mに及びます。 粟垣内遺跡から金剛坂遺跡にかけて台地の縁辺には、 弥生時代前期の遺跡も集中して位置しています。 安定した台地の上に居住空間や墓域が分布しており、 水田稲作に適した沖積低地が隣接していますので、 眼下の低地で水田稲作が行われていたと考えられます。
 
坂本古墳群
かつて1942 (昭和17) 年には、 124基の古墳が確認されており、 以前の姿は航空写真に斑点状になって残存している点が1973 (昭和48) 年頃に再確認されています。
 現在はわずかに6基を残すのみになっており、 1997 (平成9) 年度に埋葬施設の確認調査がされました。

  このうちの坂本1号墳は全長31.2m、 前方部の長さ11m・高さ2.6m、 後方部の長さ20.2m・高さ4.6mの前方後方墳です。
 主体部は後方部で見つかっており、 割竹形木棺と考えられています。 棺底面の高さは墳頂部地表面から2.25mに相当します。
 棺内からは金銅装頭椎かぶつち大刀1振り (全長105㎝) と直刀 (全長64㎝) が出土しており、 棺外からは須恵器横瓶・提瓶・が出土しています。 金銅装頭椎大刀は、 柄頭と鍔の間 (柄間) に銀線を巻き付け、 鞘口・鞘間・鞘尻の3カ所には筒状の金銅製金具を被せています。 樹種は、 柄にはサカキの木が用いられており、 鞘にはトチの木が用いられています。 この大刀は、 発掘された際に文化庁主催の発掘された日本列島展にも出品されました。
 坂本1号墳は、 7世紀に下る前方後方墳としては日本列島で最も新しい時期に築造された古墳です。 斎宮の成立時期に近い時期の古墳である点でも注目されている古墳です。 現在は、 史跡整備中です。

右が前方部。
 
7号墳 人の立っているところが2号墳
その左の高まりが6号墳
 
斎宮歴史博物館
斎宮跡に関する展示をしている平成元年に開館した博物館です。 第3日曜日は家庭の日に相当していますので、 全員無料で入館させていただきます。
 
塚山古墳群
斎宮歴史博物館の周辺に位置する群集墳で、 17基が現存しています。 1号墳は斎宮歴史博物館の西、 芝生広場の中に位置する直径21mの円墳です。
2号墳は博物館の正面に復元されている1辺18mの方墳です。 いずれも墳丘規模の確認のためのトレンチ調査が行われています。
2号墳の北側にある37号墳

博物館の前の道を隔てた3号墳からは須恵器把手付椀が出土しており、 五世紀にさかのぼる古墳ということが分かっています。

3号墳の南に隣接する4号墳
 
斎宮周辺
ボランティアガイドの案内で5グループに分かれて見学
博物館の敷地付近は、 実は三重県では指折りの弥生時代の遺跡でもあります。 これまでに斎宮跡の発掘調査は150次以上を重ねられていますが、 斎宮跡の全域で見つかるのではなく、 弥生時代の遺跡は台地縁で、 博物館の付近の古里地区と約200m南の中垣内地区の2カ所にそれぞれ偏って見つかっています。 いずれの地区でも弥生時代前期から遺構が見つかっており、 中期にはそれぞれの地区で居住域と墓域が隣り合うように位置していることが分かっています。 また、 後期には墓域だけが見つかるようになり、 居住域が分からなくなる点でも両地区の集落は同様の変遷をたどります。
  弥生の遺跡は1mほど土が積まれ地下に保存されている。
 段差は土を積んだ跡。
斎王が宮に入る際、お祓いをした?祓戸周辺
斎王は前方鉄塔付近で祓川を渡った?
北には群行の馬が渡った「馬渡」の地名が残る。
 
祓戸東側の竹神社跡地。
坂本古墳群は地方豪族竹(多気)首・竹連の奥津城といわれる。斎宮は元は竹宮と呼ばれていた。
その後渡来系の麻績氏が台頭し、麻績氏の祖、長白羽命が祀られるようになった。
明治の1村1社運動で近鉄駅南側に移転。
 
奈良時代の古道から斎宮へ
斎宮跡で見つかっている奈良時代の古道は、 古代鈴鹿関から伊勢神宮を経て志摩国府へ至る幹線道路で、 東西約1.4㎞にわたり幅9mの両側に側溝をもつ大規模な道路です。
 
斎宮跡
斎宮とは、 古代から中世にかけて天皇に代わって伊勢神宮に仕えた斎王の御所と事務運営を司る役所である斎宮寮の総称であり、 斎王個人をさして斎宮ということもあります。
 斎王制度は、 最も完成された形が10世紀前半に編纂された 『延喜式』 全50巻のうち、 1巻に規定されています。 斎王は、 天皇の娘である内親王から卜定 (亀の甲羅を焼いてひび割れで決定) で選ばれました。 また、 内親王がいない場合には、 皇族の未婚女性から選ばれていました。
 実在した最古の斎王は、 泊瀬斎宮を経て伊勢に入った天武天皇の娘である大来皇女です。 飛鳥京から出土している木簡や 『万葉集』 の歌からその存在が裏付けられています。
 673 (天武2) 年に大来皇女が斎王に卜定されて以降、 後醍醐天皇の斎王、 祥子内親王の卜定まで660年間続いたことが記録されています。
 さて、 斎宮跡では1970 (昭和45) 年から発掘調査が行われており、 1979 (昭和54) 年には国史跡に指定されています。 遺跡の規模は、 東西約2㎞、 南北0.7㎞と全国屈指の面積をはかります。
 斎宮の建物は宮でありながら、 藤原宮や平城宮と異なり、 瓦がなく、 礎石もないのが特徴です。
 飛鳥時代の建物は、 今のところ遺跡西部の古里地区と中垣内地区で見つかっていますが、 そのほとんどが竪穴住居です。 掘立柱建物や柵はわずかしか確認されておらず、 今後の解明に向けた調査が期待されます。
 遺構からわかる斎宮の最盛期は、 奈良時代後期から平安時代前期にかけてで、 この時期には側溝を伴う幅12~13mの道路によって区画された碁盤目状の土地区画が存在していました。 方格地割と呼ばれているこの地割は1辺120m (約400尺) という規格で施工され、 またそれを基にした区画が7区画、 南北に4区画存在することも分かっています。
 遺物の側面からは、 緑釉陶器が現在までに6000点以上見つかっています。 これは平城京・平安京に次ぐ出土量に相当します。 また、 硯は蹄脚円面硯や風字硯のほかに、 羊頭硯や鳥頭硯なども出土しています。
 斎宮駅北側の歴史ロマン広場には、 遺跡の1/10の大きさの模型が造られています。  
 
いつきのみや歴史体験館
蹴鞠や貝合わせなど当時の文化が紹介されており、 遊びや香りの体験ができるほか、 年中行事の復元が行われています。 遺跡巡りの最後に、 当時の文化を体験して古代に思いを馳せたいと思います。
 
最後に、 今回は少し遠いために行けませんが、 遺跡をもう1ヶ所紹介したいと思います。 斎宮跡の周囲では、 全国的には珍しい土師器の焼成坑がたくさん見つかっています。 土師器焼成坑とは、 地面に坑を掘って土師器を焼いた遺構で、 当地域では2等辺3角形の形状をしていることが一般的です。 規模は奥壁で約幅1.5~2.0m長さは約3.0~4.0m、 深さは約0.3mの遺構です。 真っ赤に焼けた二等辺三角形の形状をした壁面に囲まれた範囲から、 破損した土器や高温で変形した土器片がワラ状の痕跡が付いた焼土とともに出土します。 私も1度、 掘ったことがあり、 感動しました。 なかでも古代の土師器焼成坑が見つかっている明和町蓑村の水池土器製作遺跡 (斎宮跡から南東方向へ約2㎞) は史跡整備されていますので、 機会があれば訪れてください。