鴨都波遺跡→楢原遺跡→一言主神社→高丘宮石碑→名柄遺跡居館跡→長柄神社→南郷遺跡群(佐田柚ノ木遺跡)→室宮山古墳→中西遺跡→御所駅
文中の解説は会報より引用 | |
葛城氏は『日本書紀』・『古事記』(以下『記紀』)では、神功皇后・仁徳天皇・雄略天皇の時代などに天皇と姻戚関係をもちながら、盛んな活動をした氏族として記載されています。ただし、その活躍した時代が古く、その実態については不明な点が多いところです。『記紀』の記事をそのまま鵜呑みにできないのはいうまでもありませんが、葛城氏が氏族として血縁関係のまとまりをもっていたかという点についても疑問がもたれるところです。そうしたなかで、近年の発掘調査で御所市内を中心とした遺跡で、古墳時代の様々な遺構・遺物が検出され、この時代に大きな力をもった地域集団が長い期間にわたって跋扈していた事実が明らかになってきました。『記紀』の記録と整合する点と、いささか乖離している点とがありますが、ここに跋扈した地域集団が先に存在し、そののち奈良時代になって『記紀』が正式に編纂されたものであるという点を考えると、その実態と乖離している点があったとしても何ら不思議はありません。この地域に跋扈した集団の栄枯盛衰のうち、何が記憶され、記録にとどめられたのか、そのことを考えながら遺跡や旧跡をめぐることにしましょう。 | |
近鉄御所駅 | |
![]() | 炎天下150を超える会員が近鉄御所駅に集合。 |
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鴨都波遺跡 | |
御所駅の南側に鴨都波神社があります。この神社付近に広がるのが、鴨都波遺跡です。弥生時代の大規模集落遺跡であり、前期~後期まで継続する拠点集落と考えられます。さらに、そのあと古墳時代前期にも集落の営みが確認される点が注目されます。 昭和28年の末永雅雄先生・網干善教先生らによる試掘、昭和35~6年に国道24号線の敷設や御所警察署の建設に伴う調査で、大量の弥生土器が出土するなど、この遺跡の存在は古くから有名でした。その後、橿原考古学研究所や御所市教育委員会が調査をおこなってきましたが、平成12年の第15次調査は、済生会病院の病棟建設に伴うもので、古墳時代前期の建物跡などの遺構と古墳が検出されました。とりわけ、鴨都波1号墳とされた一辺20m×16mの方墳からは三角縁神獣鏡が計4面、方形板革綴短甲、鉄鏃と靭、鉄刀、鉄剣などの武器、鉄斧やヤリガンナなどの農工具が出土し、古墳時代前期に築造されたものと考えられます。古墳の規模は小さいですが、この地域に盤踞した首長の存在を知らしめてくれます。 この首長と現在調査中の秋津遺跡との関係が興味深いところです。同ー人物なのか、対立関係にあったのか?どちらの場合でも、古墳時代前期の段階に、すでにこの地域に根を貼った首長が存在したことを示すものとして注目できます。このあとに展開する遺跡とそこにあった首長と血縁関係があるかどうかは別にして、この勢力が徐々に力を蓄え成長していき、後述する葛城地域最大の前方後円墳である室宮山古墳を作るような一大勢力となる可能性も考えられます。 | |
済生会病院前で説明を聞く 遺物は病院内に展示されている。 | 鴨都波1号墳は左側救急病棟建設時に発見された。 |
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鴨都波神社 | 鴨都波神社 参道 |
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楢原遺跡 | |
御所市教育委員会の小規模な調査で、古墳時代前期(布留O~2式)の土器が大量に出土しました。在地で生産されたと考えられる布留式甕のほか、北九州・吉備・河内・紀伊・近江・伊勢湾沿岸・北陸・南関東地方の外来系土器もあり、物流拠点として機能していたと考えられます。鴨都波遺跡または、秋津遺跡の影響下にあった集落とみてよいでしょう。 | |
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![]() | 楢原遺跡から南へくだり、水越川沿いの葛上斜行路を踏襲したと推定される進路を遡ると一言主神社の鳥居がみえてきます。 |
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一言主神社 | |
『日本書紀』の雄略天皇4年の集では、葛城山中で雄略天皇が一言主で不思議な出会いをしたあと、一緒に狩猟をし、その後一言主神が来日水で天皇を見送ったという説話がでてきます。この記述などから、葛城氏が天皇と肩を並べるような実力をもち、5世紀が大王と葛城氏による両頭政権であると評価したのは直木孝次郎先生です。 現在の社殿は明治9年に新築されたもので、社地そのものもいつの時代まで遡るかは明らかではありませんが、鎌倉時代の記録では、一言主神社の社殿が「高宮岡上」につくられたという記載があります。『日本書紀』や平安時代の『和名抄』では、高宮あるいは高宮郷といったムラの名前がありますが、それがどの場所かわかりません。『日本書紀』の神功皇后摂政5年の条に、高宮・桑原・忍海・佐糜という葛城の四邑の記載があり、このなかで高宮が、葛城氏の本拠地と考えられるのです。一言主神社のある御所市森脇からその南にいたる名柄付近が、この高宮の有力候補地です。ただし、それに対して否定的な見解も少なくありません。 周辺の発掘調査は進んでいませんが、平成8年の発掘調査で畑の遺構が確認され、古墳時代~飛鳥時代の土器が南側の尾根上から出土しています。 | |
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高丘宮石碑 | |
![]() | 一言主神社の社殿から北へ900mほど行くと「綏靖天皇葛城高丘宮」と書かれた石碑があります。綏靖天皇は神武天皇の次代の、第2代天皇です。 欠史八代の1人で、事績などの記載もなく、実在したとは考えられていません。石碑は大正4年に進てられたものであり、何ら根拠があるわけではありませんが、小字名が神宮であることからするとあるいは一言主神社の古い社地の存在を想像させてくれます。 |
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名柄遺跡 | |
![]() | 名柄遺跡は、大正7年に銅鐸や多紐細文鏡が出土したことで、有名な存在でした。ため池を造成するための工事で偶然に発見されたもので、銅鐸と多紐細文鏡は東京国立博物館に収蔵されました。博物館にはレプリカが展示されています。現在、ため池は埋められ、その説明板も倒されていますが、末永雅雄先生が揮毫した石碑だけが残っています。 |
![]() | そののち、御所市教育委員会が名柄小学校の改築に伴う発掘調査をおこない、古墳時代中期後半の竪穴住居や石垣を伴う堀の遺構などを確認しました。 農具や機織り具などのほか刀などの武器などの出土もあり、居館跡と考えられています。居館の主人はわかりませんが、大型の前方後円墳の被葬者の居宅とするには、やや小規模にすぎます。 ただし、付近の調査例は少なく、次に述べる交通路や地形の様子などから周辺に大規模な居館が存在する可能性は多分にあると私は考えています。 |
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長柄神社 | |
前述の一言主神社の鳥居からこの名柄を経て佐田まで直線的に続く道路があります。そのなかでも、名柄付近は道標などが整備されている「葛城古道」のなかで、古い町並みが残っている場所です。この道路がいつまで遡るか明らかではありませんが、これを基準にした地割が、佐田・井戸・南郷付近に広がっており、条里の復元がなされています。 また、『日本書紀』の天武天皇9年に長柄社と朝嬬に行幸する記事かあり、あるいはこの道路が活用されたのかもしれません。長柄社の位置はさだかではありませんが、現在の長柄神社には正和元(1312)年に遡る棟札が現存しており、本殿の建築様式も室町時代まで遡る可能性があって県指定文化財に指定されています。また手水屋は、金剛山麓中腹にあったといわれている朝原寺から移築されたものといわれていますが、腐朽がすすんでいます。 また、歴史地理学者の木下良先生は、この道路痕跡をもとに名柄付近に奈良時代に葛上郡にあったという大和国府の位置を求めています。 いずれにせよ、名柄は、葛城山と金剛山の間を通る水越峠へ向かう道と葛上斜行路から南に方向をかえる交差点であり、交通の要衝として重要な地であったと考えられるのです。 | |
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南郷遺跡群 | |
南郷遺跡群は、名柄遺跡のすぐ南側に広がる集落遺跡です。御所市南郷・佐田・井戸・下茶屋・多田・極楽寺・林にあたり、東西ペ1.7km南北1.4km、面積にしておよそ2.4km2の範囲に及ぶ広大なものです。本格的な発掘調査の開始は、平成4年の橿原考古学研究所による県営の圃場整備事業に伴う事前の調査であり、この年には南郷角田遺跡・南郷ハカナベ古墳・南郷柳原遺跡の調査がおこなわれました。以降、圃場整備の事業地を中心に調査がおこなわれました。 私は、古墳時代の遺構を次のように性格づけしています。 「葛城の王」の「高殿」「祭殿」と導水施設(極楽寺ヒビキ遺跡・南郷安田遺跡・南郷大東遺跡)、首長の居住地(多田桧木本遺跡)、武器生産をおこなった特殊工房(南郷角田遺跡)、大型倉庫群(井戸大田台遺跡)、手工業生産を指導した親方(中間)層の居住地(南郷柳原遺跡・井戸井柄遺跡)、鉄器生産・玉生産・窯業生産・ガラス生産など盛んな手工業生産をおこなった一般住民の居住地(下茶屋カマ田遺跡・南郷千部遺跡・南郷生家遺跡・南郷田鶴遺跡・佐田柚ノ木遺跡・佐田クノ木遺跡・林遺跡・井戸池田遺跡)、土器棺墓からなる一般住民の墓地(南郷丸山遺跡・南郷岩下遺跡)などです。 遺跡の現状は、圃場整備工事が施工され、水田となっています。現地ではその遺構・遺物を見ることはできませんが、博物館の常設展示で、木製祭祀具や武器など遺物、特殊工房の金属器生産に関わる遺物、韓式系土器・紡錘車陶製コマ形紡錘車などの渡来系集団に関わる遺物、南郷大東遺跡の導水施設の模型、南郷柳原遺跡の大壁建物の写真や復元図、下茶屋カマ田遺跡の竪穴住居の写真などを展示していますので、事前または事後に確認していただければ幸いです。 これらは、すべて古墳時代中期、そのなかでも須恵器生産が開始された以降に位置づけられ、室宮山古墳の築造後に形成されたと考えられます。 室宮山古墳との関連では、極楽寺ヒビキ遺跡で検出された板柱の大型建物の平面形態と、「王の居館」として博物館に展示されている直弧文を施した板柱の家形埴輪とが、構造的に共通するものであることを建築学者の黒田龍二先生が指摘された点が注目されます。 南郷遺跡群内では、朝鮮半島西南部及び南部地域を出自とする渡来系技術者集団による生産活動かおこなその年代は逆転しているので、極楽寺ヒビキ遺跡の主人は、中期中葉に築造された掖上鑵子塚古墳に葬られたと推測しています。 南郷遺跡群内では、朝鮮半島西南部及び南部地域を出自とする渡来系技術者集団による生産活動がおこなわれ、それを直接指導した中間層(親方層)の屋敷地、さらに大型前方後円墳の被葬者に直接関わる高殿・祭殿・祭祀施設などがあったと推測できますが、前方後円墳の被葬者が実際にどのように住まいしていたかがわかっていません。そこで、注目されるのが、前述の一言主神社から名柄あたりに比定できる葛城高宮です。一言主神社のある森脇からこの南郷遺跡群まで、遺跡は南にむけ連続的に展開していて、そのすべてが葛城氏の本拠地として機能していた可能性が考えられるのです。名柄遺跡と南郷遺跡群は、一体として「葛城の王」の支配拠点を形成していたのであり、それを「葛城の王都」と形容することもできるでしょう。南郷遺跡群は見学箇所が少ないので、極楽寺ヒビキ遺跡を遠くに望んで道をひきかえします。 | |
![]() | 極楽寺ヒビキ遺跡の丘を望む。 前方の橋から先が南郷遺跡群。 手前は長柄遺跡地区。 |
![]() | 南郷遺跡群の入り口で説明を聞く。 |
室宮山古墳は、葛城地域で最大の墳丘長238mの規模を誇る大型前方後円墳です。紛れもなく、葛城地域に君臨した「葛城の王」の墳墓であるといえます。築造年代は、前述のとおり須恵器生産が開始される直前の年代、5世紀初頭におくことができます。 昭和25年に後円部の南側主体部の発掘調査が実施され、竪穴式石室とそこに内蔵された竜山石製の長持形石棺、それらを取り囲む形象埴輪を主体とする方形区画の状況などが明らかになりました。石室上面には、高坏形埴輪と前述の家形埴輪などが樹立されていました。現地は、整備され、靭形埴輪のレプリカが置かれているほか、長持形石棺の西小口部分を確認できるようになっています。博物館に主体部の模型と鏡の破片や玉類・鉄製品などの副葬品や形象埴輪の実物が展示されていることは、よくご存知のことだと思いま。 さらに、この北側にもうひとつの埋 葬施設があります。石室の天井石と考 えられる石材が露出しています。発掘 調査は実施されていませんが、平成10年の台風7号により、墳丘の樹木が 倒れて北側埋葬主体に副葬されていた と考えられる陶質土器の破片が出土し ました。朝鮮半島南部は小国が分立する状況でしたが、そのなかで安羅伽耶国があったと推定される咸安(安羅) 地方で生産された土器です。船形土器 の舳部分と脚部と考えられます。 『日本書紀』では、葛城氏の祖であ る葛城襲淳彦が朝鮮半島でめざましい 活躍をした記載があり、前述の葛城四邑もまた、襲津彦が新羅から捕虜を連 れて帰ったことが邑の始まりと記され ています。南郷遺跡群にあった渡来人 のなかに、百済系の遺物が多く含まれることや、居住地の状況などから小規模古墳の被葬者になった者が含まれて いることなどからも、渡来人が戦争の 捕虜であったとは決して考えられませ んが、それにしても室宮山古墳と朝鮮半島南部地方の関連は示唆的です。白石太一郎先生は、室宮山古墳が葛城襲津彦の墓である可能性を指摘されたこ とがありましたが、この説を齟齬なく 受け入れることもできます。ただし、 襲津彦が実在の人物であったかどうか さだかではありません。古墳時代前期~中期の葛城地域に蟠踞した首長の複 数の人物を合成して象徴化した人物で あると考えるべきであり、そのなかに 名柄・南郷遺跡群にあった首長や室宮 山古墳の被葬者が含まれていたとみるべきでしょう。 室宮山古墳の埋葬主体は、後円部の 埋葬主体のほか、前方部にコウヤマキ 製の木棺が出土していて現在博物館に 展示中ですし、11面の鏡の出土記録 もあります。前方部の張り出し部でも 埋葬施設が確認されています。また、 外堤にあるネコ塚古墳は一辺63mの 方墳ですが、短甲の破片が採集されて おり、室宮山古墳と同時期に築造され たものと推定されます。 なお、この古墳の被葬者をめぐって は、鎌倉時代にこの古墳が「室の墓」 と呼ばれ、武内宿禰の墓域とされてい たことや、江戸時代にこれを孝安天皇の墓とする考証などがあったことも付記しておきます。 | |
室宮山古墳と金剛山 | |
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![]() | 八幡神社で説明を聞く。 |
後円部埋葬施設 | 南側石棺を覗き込む |
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北側石室 天井石 | 南側石棺 |
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中西遺跡 | |
中西遺跡からネコ塚古墳を望む。 | |
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室宮山古墳の北方に広がるのが中西遺跡です。室宮山古墳外堤では、7kgという大量のベンガラを納めた土器が出土した竪穴住居が確認されています。室宮山古墳と同時期もしくはやや遡る時期に形成されたものです。 中西遺跡については首長との関わりは今のところ明確にできませんが、東側及び北側に秋津遺跡があり、単純にみるなら鴨都波遺跡(弥生~前期前半)→秋津遺跡(前期後半)→中西遺跡(中期前半)→名柄・南郷遺跡群(中期中葉~)という順に葛城地域の支配拠点が移動した可能性が考えられます。 秋津遺跡の調査と遺物整理がすすめられるなかで葛城の地域集団の動向を追うことが、今後に課せられた課題です。 中西遺跡からは、北西に秋津遺跡をのぞみつつ、途中で葛上斜行路(図2のC-D)を経由して解散場所の御所駅を目指します。秋津遺跡は、縄文時代のノコギリクワガタが有名となりましたが、その上層で古墳時代前期の大規模区画施設や独立棟持柱をもつ掘立柱建物などを確認していて、その調査成果などを、「大和を掘る29」で公開いたします。「大和を掘る29」の展観もよろしくお願いいたします。 | |
![]() | 御所駅を目指す。 |