yushikai.jpg

佐紀御陵山古墳・佐紀石塚山古墳・佐紀高塚古墳→五社神古墳→オセ山古墳・塩塚古墳→瓢箪山古墳・衛門戸丸塚古墳→市庭古墳→平城宮跡東院地区の調査現地説明会

ご 挨 拶    学芸課長 今尾 文昭氏
 みなさまとまた親しく接する機会を得られましたこと、 慶んでおります。 博物館勤務は二十代後半、 四十代後半、 そして五十歳代の三度めです。 でも、 併せてもほんの五年間。 前号に通算32年間とあった千賀久さんの六分の一にも満たないものですから、 「どーんと来い」 というほどの自信もありません。 そうはいっても、 博物館は毎朝ひらくものですから、 「どうにかしなくてはなりません」。 それに、 ここ一、 二年間は私どもの発信力が問われる局面が続きます。 みなさまに愛されてこその博物館であることを忘れることなく、 「伝統と革新」 を紡げるよう力を尽くす所存です。
 順風の日和には厳しいまなざしを、 逆風の折りには気合いの声かけを、 なにとぞよろしくお願いいたします。
一条北大路と西2坊大路の遺構
近鉄大和西大寺駅
大和西大寺駅の北側は平城京北辺域にあたる。
出発地となる公園では、 2003年の発掘調査で一条北大路と西2坊大路の遺構がみつかっている。 付近はまた 「喪儀寮」 の推定地でもある。

会長挨拶

今尾先生挨拶

西群西小支群佐紀御陵山古墳
八幡神社で説明を聞く
 佐紀御陵山古墳は、 西群で最初に築かれた大形前方後円墳とみられる。 3段築成、 南向きの前方部に向かって幅を狭めた盾形周濠がめぐる。 墳長207メートル。
 元禄修陵の文書 『元禄十丁丑年山陵記録』 には、 奈良奉行所からの廻状に対して添下郡西畑村・超昇寺村などの村役人が、 本墳を字 「御陵山」 と記して 「神功皇后御陵」 と答えている。 宮内庁は現在、 日葉酢媛陵として管理するが、 決定は1875年 (明治8) 十1月のこと、 江戸幕府も在地社会も長らく神功陵としてきた。 南側に山上八幡 (八幡神社) がある。 幕末頃から 『京北班田図』 など西大寺関連絵図が考証されるなか、 五社神古墳を神功陵とみなす見解が強く出されるようになり、 ついに文久修陵で移されることとなった。
 当時の様子を示す史料が地元に残る。 1855年 (安政2) の記録 「神功帝山陵石灯筥 (籠) 扣帳」 に在地の有力者が献納の石燈籠20基分の記録がみえる。 刻銘に 「神功皇后山陵」、 「神功皇后常夜燈」、 「陵前燈」 などとある。 「山陵様江雨乞願込之訳」 1857年 (嘉永5) は、 超昇寺郷による 「山陵様」 への雨乞いの仕方を記す。 「山陵様」 とは神功陵のことだが、 在地社会と陵墓が浅からぬ関係にあったことがわかる。 上野竹次郎 『山陵』 には、 神功陵として崇信されていた時のことを里老に問うたところ 「往時里人ノ往キテ拝スルモノ、 皆陵北ヨリス、 即チ後円半腹ニ門アリ、 門前ニ至リテ拝ス、 敢テ門内ニ入ルモノナシ、 孕婦ノ詣デ、 寧産ヲ祈ルモノ、 皆陵地ノ小石ヲ獲テ帰リ、 之ヲ懐ニシテ以テ、 護符トナス」 と応えたとある。 安産祈願にむすびついた 「神功皇后信仰」 である。
 もっとも1916年 (大正5) には、 盗掘事件が起きる。 皮肉なことに、 天皇陵古墳の内部構造についての稀少な情報がもたらされた。 竪穴式石槨の上部には 「不純粘土の封土」 の被覆がある。 天井石の直上には 「屋根形石」、 長さ2・6メートル、 幅1メートル、 高さ45センチ。 縄掛突起がない。 短側に傾斜面をもつ。 各側面を縁取る区画をもつ。 両端幅に差違がない。 棺幅に対して高さが低いといった特徴は、 長持形石棺の系譜とは異なる。
 竪穴式石槨は全長8・55メートル、 幅1・09メートル、 高さ1・48メートル。 特異な構造で、 南北の小口側壁の上半中央に矩形の孔を2ヶ所穿った高さ2メートルをこえる1枚石を充てる。 石槨4周には方形の石垣がめぐる。 15・7×16・5メートル、 当初からの施設だとすれば方形壇をもつことになる。 蓋形、 盾形、 家形、 鰭付円筒埴輪などの配置があった。
 副葬品は、 銅鏡5面 (方格規矩鏡2面・変形内行花文鏡・4獣鏡・不明)、 車輪石、 鍬形石、 石釧、 管玉、 石製模造刀子、 同斧頭、 同高杯、 合子蓋、 臼、 椅子形、 貝殻形、 琴柱形、 不明。 4獣鏡は後漢鏡、 3面は面径30センチをこえる大型製鏡である。 3角縁神獣鏡は含まない。
 蓋形埴輪も超大型品だ。 笠部上半に直弧文をもち笠部直径は2メートル。 盾形埴輪は直弧文を意匠し、 高さ108センチ、 幅80センチ、 盾表面は彎曲しており、 実物の形状に近いもの。 本墳出土の形象埴輪は大型、 精巧なもので出現期に位置づけられる。
 1986年の宮内庁の調査では、 前方部東側渡堤法面に葺石の確認があり、 もとからの施設である可能性が高くなった。 西側前方部側の周濠内では8×4メートルの範囲で高さ1・5メートルになる地山削り出し部分があり、 板状節理のある石材と白礫が集中する。 島状遺構かもしれない。 初源例の候補といえよう。
八幡神社絵馬
古墳周濠で説明を聞く
渡り堤から周濠

前方部全景
佐紀石塚山古墳
佐紀石塚山古墳は、 佐紀御陵山古墳の西北に隣接する。 墳長218メートル、 3段築成、 前方部を南に向ける。 前期末葉の築造か。 周濠東側が極端に狭いことが観察できるが、 先に築かれた佐紀御陵山古墳の周濠があったため、 その規制を受けたものと考えられる。 後円部北東側外堤に接しては方墳が3基 (宮内庁飛地い号―1辺35メートル、 ろ号東側―1辺30メートル、 ろ号西側―1辺30メートル)、 存在する。 配置形態上に陪塚と判断する。 初期事例として注目したい。 1995年には、 後円部と北側渡土堤の接合部から柵形埴輪、 楕円筒埴輪、 小形円筒埴輪、 家形埴輪が出土した。
 本墳は、 成務天皇の 「狭城盾列池後陵」 として律令期陵墓となり、 国家の守衛対象になったが、 平安遷都まもない承和年中には陵内の伐木が発覚する。 事件は収まらず神功陵とのあいだに混乱があり、 陳謝先を取り違えていたことも明白となる。 その後も厄難は続き 『扶桑略記』 1063年 (康平6) には 「池後山陵」 が盗掘され、 「宝物」 が奪われたことがみえる。 さらに 「帝陵発掘1件」 には、 1844年 (天保15) 9月に石棺を掘り出し、 勾玉50個をとりだすとある。 次いで1848年 (嘉永元) 9月には棺内から朱と管玉68個、 十月には管玉数十個を取り出したという。 1連の盗掘で、 石棺はほぼ露呈したものとみえ 「御棺石ニテ高4尺計長7尺計、 幅4尺計、 同覆ハ亀之形ニ相成幅5尺計長8尺計テ」 と記された。
 山陵絵図には後円部墳丘頂上に露呈した石棺がしばしば描かれており、 たとえば文化山陵絵図 『廟陵記』 には 「長サ1間、 巾3尺程ノ石6枚並埋有之」 とある。 石材が6枚に分かれている点や棺蓋の形状から長持形石棺を採用したものと考えられる。
 西群西支群の前方後円墳は前方部を南に向けるが、 佐紀高塚古墳は直交方向の西向きとなる。 墳長127メートルの中形前方後円墳。 幅の狭い鍵穴形周濠がとりまき、 埴輪の存在も指摘される。 本墳を称徳陵にあてたのは鎌倉時代のこと。 「西大寺往古敷地図」 (1307年〈徳治2〉) 以前の成立) に 「本願御陵」 の墨書がある。 平城京北辺2坊3・4坪の坪境小路から東にかかる位置に記されていて、 本墳を指示したものだろう。 ここにみる 「本願天皇」 とは、 764年 (天平宝字8) に西大寺建立を発願した孝謙太上天皇のこと。 中世後期の西大寺の経営戦略とむすびついたものと理解したい。 江戸時代の1698年 (元禄11) の 「西大寺古伽藍敷地并現存堂舎坊院図」 では、 伽藍東北方、 京極大路以北に 「本願称徳御廟」 を描く。 往時、 「称徳陵」 とされていた五社神古墳を描写したものか。

御陵山古墳との境 周濠と前方部

高塚古墳

倍塚
五社神古墳
五社神古墳 西から前方部

東から前方部

東から墳丘を望む

北側後円部背面

燈籠8基
 五社神古墳は丘陵先端を利用した南向きの前方後円墳、 墳長273メートル、 前方部幅160メートル、 後円部直径194メートル。 鍵穴形周濠が後円部背後をのぞく3方にとりまく。 後円部4段、 前方部3段築成、 鍵穴形周濠がめぐる。 かつては前期後葉の築造とみたが、 2003年の宮内庁の調査でツバが顕著な壷形埴輪、 線刻による笠部表現の蓋形埴輪、 西側造り出し想定部分からの笊形土器、 手捏土器の出土、 長持形石棺の採用、 造り出しの想定、 前方部が開く可能性があることなどから中期古墳につながる特徴を多くもつことが明らかとなった。 佐紀御陵山古墳に続き、 佐紀石塚山古墳の築造がなされたものとみると、 本墳は前期末葉でもそれにつづくものだろう。
 背面にまわると、 丘陵を切り込んで後円部墳丘を確保した様子や段築テラスの規模など間近に観察できる。 また拝所西側の8基の石灯籠は、 佐紀御陵山古墳から移されてきたもので、 いちばん大きなものは 「宝暦丙子年8月吉日 (南面)」 「神功皇后陵、 永代常夜燈 (東面)」 「郡山柳里恭書 (北面)」 の文字が刻まれている。 寄進者の柳里恭 (柳澤淇園) は江戸中期の人で、 文人画の先駆者とされる。 なお本墳は2008年2月22日、 宮内庁の内規変更による現陵墓立ち入り観察の第1号となった。

北側後円部へ周濠を巡る

2008年の宮内庁調査部分
マエ塚古墳
マエ塚周濠痕跡
マエ塚古墳は、 佐紀御陵山古墳の北東にあり、 ほぼ同時期の築造とみられる直径48メートルの大形円墳。 1965年の宅地開発で消滅した。 事前調査では粘土槨から内行花文鏡、 多量の武器類、 腕輪形石製品が出土し、 円筒埴輪と複数の埴輪棺が確認された。 大がかりな盗掘を蒙りながらも、 鉄刀24口以上、 鉄ヤリ119本以上が出土。 木棺の北側小口部分に接して副葬品埋納専用施設 (報告書では 「副室」 と呼称) がある。 製内行花文鏡9面、 碧玉製石製坩、 石製合子の副葬があった。
平城宮北面大垣想定線
御前池の両岸に2つの佐紀神社が坐すが、 池の中間が平城宮北面大垣想定線にあたる。 北には下吉堂池、 上吉堂池へとつづく。 これらの池は浅い谷を堰き止めて設けられたもので、 谷の東側に西群東小支群がある。 大形前方後円墳で構成された西群西小支群とは、 対照的に中形前方後円墳がならぶ。
 南側から猫塚古墳、 大形円墳の衛門戸丸塚古墳が竹林のなかにある。 猫塚古墳北西方に従属葬となる猫塚北1号棺が見つかった。 西側には南北方向の里道があり、 道沿いの柵で囲われたなかに瓢箪山古墳がある。 里道は、 ちょうど奈良時代庭園の松林苑跡西面築地にあたる。 北へ行くと佐紀町の住宅が途切れて畠が広がるが、 ほどなく塩塚古墳がある。 東側から眺めると平らな前方部の様子が観察できる。 北東の雑木林がオセ山古墳。
今回は北側から この逆の順路。
オセ山古墳
 最北のオセ山古墳は、 墳長65メートル、 ゲンオ塚の呼び名もある。 西側に短い前方部が付く帆立貝形前方後円墳の可能性もある。 この場合、 佐紀古墳群では唯1例。 後円部側に幅約5メートルの周濠がみられる。
塩塚古墳
塩塚古墳 東から墳丘を望む

低平前方部
 塩塚古墳は南面する墳長108メートルの中形前方後円墳。 幅7メートルの浅い盾形周濠がめぐる。 粘土槨には蕨手形刀子、 ミニチュアの農工具類などを副葬していた。 瓢箪山古墳に次ぐ中期前葉の築造か。 前方部が低平なことが注意されるが、 これは奈良時代後半の庭園 「松林苑」 関連施設が存在したのではないか。 なお松林苑の発見は1979年の再測量時の副産物である。
瓢箪山古墳
 瓢箪山古墳は、 中期前葉に築造されたとみられる中形前方後円墳。 墳長96メートル、 1971年に国史跡に指定され、 翌年に整備事業が行われた。 盾形周濠は完周することなく、 前方部前面中央から西側で途切れるが、 これは丸塚古墳に規制されたものであろう。 東側のトレンチでは奈良時代瓦、 ほかに円筒埴輪片の出土がある。 埋葬施設は粘土槨とみられ、 碧玉製琴柱形石製品3点が出土している。

南側前方部から墳丘を望む
衞門戸丸塚古墳
 衞門戸丸塚古墳は直径45メートル、 墳丘北東部分が大きく削られる。 1913年 (大正2)、 大阪電気鉄道軌道の工事に際してのバラス採取で、 粘土槨がみつかり、 銅鏡14面、 銅鏃19本、 素環頭鉄刀を含む鉄刀剣18口が出土した。 出土遺物は宮内庁書陵部蔵品となる。 銅鏡のうち6面の内行花文鏡は製鏡で、 いずれも面径12・0センチ。 文様構成、 花文間の文様形状、 珠文帯の珠文数においても同じ。 同笵・同型関係が確認できる稀少な例である。

竹藪に覆われた衞門戸丸塚古墳
猫塚古墳
猫塚古墳は、 墳長110メートルほどの前方後円墳かもしれない。 竹林による変形が著しく、 今回は遠望に留めたい。 竪穴式石槨とみられる施設からは、 石釧21点、 直刀8口、 短剣22本、 神人龍虎鏡1面・銅鏃が出土した。 北西には従属葬があり、 石釧・車輪石・合子形石製品などの副葬がある。 猫塚北1号棺と名付けられた。

後方藪が猫塚古墳
市庭古墳
佐紀池から東に向かうと、 佐紀丘陵を南北に貫く歌姫街道との交差点にでる。 山城へ通じる幹線だが、 奈良時代にはここ1帯に松林苑が設けられて往来は、 厳重に管理されたものと思われる。 街道の東西で段差のある地形となり、 それを境に丘陵西側に展開するグループを西群、 東側の微高地上に分布するグループを中央群とした。
 市庭古墳は、 かつて最大級の大形円墳とみられていたが、 1962・3年の平城宮跡第10・11次調査によって前方後円墳であることが明らかとなる。 周濠内の有機質堆積は厚さ30センチ、 宮造営時にいっきに埋められたものと判断された。 後円部の1部を残して削平され、 前方部は東区内裏関連施設に、 くびれ部から後円部にかけては宮北面大垣がとりつく。 宮内庁は市庭古墳を平城天皇の 「楊梅陵」 とするが、 もっとも、 律令国家において本墳を 「記紀」 系譜上の陵墓として公的守衛した蓋然性は認めがたい。
 1980年の後円部西側周濠部分の調査では、 内濠幅29・5メートル、 深さ4・5メートル、 さらに外周溝 (外濠) がめぐる。 調査ではまた奈良時代に内濠を埋め、 外堤の葺石を州浜石敷に取り入れた園池に変えられたことも明らかとなった。
 出土遺物の円筒埴輪は厚手で太い。 底径20センチ、 有黒斑で外面の2次調整にはB種ヨコハケがみられる。 突帯断面は台形、 ほかに朝顔形・盾形・家形、 囲形埴輪の存在が知られる。
 調査成果から墳長253メートルに復元される。 前方部は南向き、 3段築成、 くびれ部両側には造り出しをもつとみられる。 同1水面にめぐる盾形周濠には外周溝がともなう。 中期前葉に築かれた。 築造規格上も相似性を指摘されることもある誉田御廟山古墳はほぼ同時期にあるとみられるが、 本墳はそれに次ぐ規模をもつ。 ただし、 陪塚は未確認。
神明野古墳
神明野古墳跡
 市庭古墳の南に神明野古墳がある。 墳長100メートル、 宮造営で削平された。 平城宮第73次調査で東側くびれ部に造り出しがあることが確認された。 出土円筒埴輪は窖窯焼成品とみられ、 市庭古墳に後続する時期にある。 現在の資料からみると、 前後2時期の連続的営みだが、 階層性を欠く点は西群や東群と異なる点として特筆される。

平城宮跡東院直調査現地説明会
調査区全景
宇奈多理神社 帰路は、 平城宮東院庭園と現在の宇奈多理神社の間の小径を抜ける。 北に法華寺、 南に阿弥陀浄土院。 このあたり、 もとは不比等邸である。 南にみえる市街地へ、 近鉄奈良線の線路に沿って東へ解散地の新大宮駅をめざす。

阿弥陀浄土院

阿弥陀浄土院 庭石