JR玉水駅→井手寺・石橋窯跡→岡田池瓦窯→蟹満寺→平尾城山古墳→北河原稲荷山古墳→椿井大塚山古墳→(椿井天井山古墳・椿井御霊山古墳)→松尾廃寺→高麗寺跡→JR上狛駅
今回は大和の北に位置する南山城の遺跡群をめぐります。相楽郡内には前期の前方後円墳が集申し、古墳時代成立時に重要な役割を果たした首長墓が集中します。また飛鳥時代以降も古代寺院が狭小な台地上に陸続と建立されていきます。またこの地域の古代寺院については昨年にまとまった研究成果(同志社大学歴史資料館2010『南山城の古代寺院』)が公表され、最新の研究成果が知られるようになりました。そこで今回はこの南山城の井手郡・相楽郡の前期古墳・古代寺院について最新の研究成果に導かれて春の訪れを歓びながら逍遥したいと思います。 参加者208名。研究所に異動された平松先生の最後の例会。 | |
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1.井手寺跡 2.石橋瓦窯跡 3.岡田地瓦窯跡 4.蟹満寺 湧出宮(昼食) 5.平尾城山古墳 6.北河原稲荷山古墳 7.椿井大塚山古墳 8.椿井天上山古墳 9.椿井御霊山古墳 10.松尾廃寺 11.高井手瓦窯跡 12.高麗寺跡 13.泉橋寺 写真上中 玉水駅 写真下 玉川桜並木 | |
井手寺跡 | |
![]() | 木津川東岸の上井手台地上に位置し、寺地の南を玉川が限る。井手大臣とも称された左大臣橘諸兄が創建した井堤寺・円堤寺と考えられている。円堤寺自体の初出は『続日本後紀』天長10年(833) 10月条だが、創建は奈良時代に遡る。この近隣には聖武天皇が天平12年(740)5月10日に行幸した橘諸兄の相楽別業や聖武天皇の玉井頓宮跡が比定され、伝橘諸兄墓や橘神社が存在する。明治以前からこの地には礎石が9個残存していたが、それは直径約64cmの柱座が作り出される精巧なもので、その一部の礎石には直径18cmの出納もあった。旧天神社開墾時には地鎮或いは鎮壇具と推定される直径約12cmの海獣葡萄鏡や延暦15年(796)初鋳の隆平永寶が約6~700枚出土したと記録される。本格的な発掘調査は平成13年から実施された。伽藍中枢部は府道の南北に広がっており、府道の南には凝灰岩切石の基壇外装を持つ礎石建建物が検出され、東西80尺(24m)の基壇上に桁行五間、梁間四間の金堂が推定される。この金堂には回廊基壇の東西内法が約200尺と推定される梁間10尺の単廊回廊が取り付く。回廓内には中軸線より東に4間×5間の瓦葺き4面庇建物が存在する。回廊の東や北には掘立柱建物が検出されており、三面僧房が推定される。金堂の北東には7間×2間の礎石建建物が検出され、10尺等間の切妻建物が推定される。この建物から南北に軒廊が延びており、東西棟の建物が三棟並んで軒廊で接続されたと推測される。これらは南から食堂・盛殿・炊殿と並ぶ食堂院と推定される。以上から金堂を中心とした約800尺4方の正方形に寺域が想定されるが、その伽藍配置は興福寺式といえる。橘諸兄の母、橘県犬養三千代が藤原不比等の妻となっているのも諸兄が興福寺式伽藍配置を採用したことと関連かおるかもしれない。 軒丸瓦は10型式12種が確認され、6018B、6130A、6134C、6320Aa・Ac、6282Da・Ha、6291Ab、6225Aがある。軒平瓦は8型式12種が確認され、6667C、6691A、6663Cb・D・H、6682A、6721C・Jがある。恭仁宮式文字瓦が出土し、軒瓦の構成も含めて恭仁宮との関連が強い。また華麗な三彩方形垂水先瓦が注目される。 |
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石橋窯跡 | |
平成14年に新しく発見された瓦窯で、水津川支流の玉川右岸の河岸段丘上に位置する。南に開口する分焔柱を持だない平窯が2基検出された。1号窯の焼成室は地山を0.5mほど掘り込む南北2.5m、東西2.6mの掘り方が確認される。二号窯は地山を〇・七m掘り込み、南北約2.6m、東西約2.1mの掘り方を持つ。軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦・熨斗瓦・面戸瓦・塼が出土した。軒丸瓦は6304Dのみ、軒平瓦は6664Aと6691Aが出土し、6304D-6664Aは大安寺創建の軒瓦である。天平19年(747)の『大安寺伽藍縁起井流記資財帳』は棚倉瓦屋について「東谷上。西路。南川。北南野大家堺之限」と記す。石橋窯跡は地形条件が一致することから、この棚倉瓦屋に比定される可能性が高い。 | |
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岡田地瓦窯 | |
![]() | 玉川南岸の石垣台地上の岡田池にある瓦窯で、奈良大学の分布調査によって3基の窯体の存在が推測された。6691Aや布目瓦の存在から奈良時代瓦窯と考えられる。井手寺との関連も考えられるものの、未調査で実態は不明である。 |
蟹満寺 | |
『今昔物語巣』などに「蟹満寺縁起」が収録された蟹供養放生会で有名な寺院。本尊は丈六の銅造釈迦如来坐像(像高2.403m、重さ約2t)で白鳳期の秀作で国宝に指定される。 寺名は所在する蟹幡郷に由来し、蟹満寺・紙幡寺から蟹満寺に転化したと考えられる。寺域や伽藍配置は不明な点が多いが、釈迦如来坐像を中心とした金堂が推定される。上下二段の瓦積基壇が検出され、その基壇は南北17.8m(60尺)を測る。基準尺は唐小尺と推定される。金堂自体は2間×5間の身舎に4面庇が取りつき、柱間は梁間44尺×桁行78尺と推定され、藤原京の本薬師寺金堂と同規模と推定されるが、平安時代初期には金堂が焼失している。この金堂には、東回廊基壇が検出されたことから回廊が取り付き、その東西全長は250尺と推定される。寺域北限は幅約3mの2条の東西溝で、7世紀の土器が多数出土した。その寺城は方2町と推定される。 軒丸瓦はごく少数ながら金堂から紀寺式や川原寺式亜式の高麗寺式が出土し、大和との関連から注目される。この時期の軒瓦は高麗寺と同胞関係にあるものが多く、同寺との一体的な造営が想定される。主要軒丸のKnM24は蟹満寺で使用された後に高麗寺に移動した。奈良時代では6291Aa、6318Ab、6282Bbがあるが、恭仁宮遷都前後の時期である。軒平瓦は高麗寺同胞の素文軒平瓦・高麗寺の単弁十六弁軒丸瓦と組む四重弧文軒平瓦がある。奈良時代では6681E・6721C・6726E・6689に近似した均整唐草文がある。奈良時代の軒瓦は平城宮・特に皇后官職系の型式が注目される。寺域北辺で飛鳥~奈良時代の土器が出土したが、「殿」「殿物」「殿坏」「不見女」銘の8世紀代の墨書土器や「殿料□」木簡かおり、注目される。 蟹満寺北側川岸で説明を聞き蟹満寺は通過。 | |
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湧出宮 | |
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![]() | 弥生の遺跡でもある湧出宮で昼食。 拝殿に接する鳥居が目立つ。 |
平尾城山古墳 | |
鳴子川の北岸に位置し、南西に主軸を持つ全長110m、後円部直径70m、高さ11.5m、前方部幅約38mを測る前方後円墳である。 墳丘には葺石、埴輪を有する。後円部には竪穴式石室1基、粘土槨2基が存在する。石室はほぼ南北に主軸を採り、北向きの順位と推定されている。石室は盗掘のため破壊されていたが、全長7.5m、幅1.7mの粘土床が残存しており、割竹形木棺が納置されたと推測される。副葬品は彷製三角縁神獣鏡の破片・石釧6個体分・鉄鏃33本(定角式2本、鑿(のみ)頭式31本)・鉄剣・鉄飽・鉄壁が出土した。墳頂肩部に埋葬主体を円形に囲続する埴輪列が検出された。円筒埴輪・朝顔形、家形・鶏形の形象埴輪があるが、円筒埴輪の型式的特徴からⅠ期に位置づけられる。 後円部墳丘 | |
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![]() | 前方部墳丘 |
北河原稲荷山古墳 | |
直径約33mの円墳で、葺石・埴輪が存在する。埴輪はⅡ期の鰭付円筒埴輪で、古墳時代前期後葉に位置づけられる。その年代観から平尾城山古墳の次世代の首長墓として位置づけられる。墳形・規模としては、城山の段階から首長勢力的にかなり後退している。このことは4世紀代のうちに山城南部に古墳を造営する首長勢力の衰退ひいてはこの地域の政治的重要度の低下が反映されたと考えられる。 墳丘上に稲荷神社が鎮座。 | |
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北河原稲荷山古墳登り口 | 平尾城山古墳から眺めた北河原稲荷山古墳 |
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![]() | 登り口にある横穴群 |
![]() | 古墳のある稜線 |
椿井大塚山古墳 | |
![]() | 墳丘に登る |
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全長約175m、後円部直径約110m、前方部長約80m、前方部墳端幅約76mと推定される前方後円墳である。後円部四股、前方部二段の段築で、上下二段の段丘面に段丘崖を境界にして前方部・後円部を作り分けている。後円部は股築の下二段、前方部は下1段を地山成形後に盛り土をして構築される。前方部2段目裾のテラスからは庄内~布留移行期の土器が出土しており、築造時期を示す。明治27年に前方部と後円部を分断して鉄道が敷設されて墳丘が破壊された。昭和28年には京都大学考古学研究室が発掘調査を行った。後円部中央にある南北軸の竪穴式石室は全長6.9m、高さ約3m、北端幅1.15m、南端幅一・〇三mを測り、その内部に高野槇の割竹形木棺が北向き順位で安置されたと推定される。これまでに37面の青銅鏡が採取されたが、このうち3面が粘土槨、残りは竪穴式石室から出土したとされる。石室内には鏡が北・東・西の各壁に立て掛けて並べてあったと聴取されている。鏡式の内訳は内行花文鏡2面・方格規矩鏡1面・画文帯神獣鏡1面・三角縁神獣鏡33面である。三角縁神獣鏡は各地の古墳に分有される同胞鏡が数多く含まれていたことから、古代国家形成論上不可欠の資料として評価されてきた。主要な鉄製出土品は刀・剣・槍・鏃の武器類、胃・甲の武具類、鎌・斧・手斧・刀子・鉇・鑿・錐の農耕具類、銛・魚叉・釣針の漁具類がある。このほか青銅製鏃がある。 北側から望む後円部 | |
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南側から望む後円部 | |
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椿井天井山古墳 | |
![]() | 椿井大塚の南の丘陵に位置する南北軸の前方後円墳と推定される。小規模な発掘調査が実施されたが、墳形や規模は確定されていない。後円部墳頂付近では墳丘構築以前の弥生時代後期の祭祀土坑が検出され、天井山の築造年代を考える一助となっている。 写真上 南西線路沿いから眺めた天井山古墳 写真下 松尾廃寺から眺めた天井山古墳 |
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松尾廃寺 | |
![]() | 椿井大塚山の北側の松尾神社周辺に位置する。正確な伽藍配置などは不明である。神社表門は元和3年(1617)に建立されたが、前身建物は13世紀末に遡ることが発掘調査によって確認された。また現存している鎌倉時代の土塀の残丘はそれ以前の築地塀を踏襲している。時期は判然としないが、周囲から飛鳥・奈良時代の瓦が出土しており、飛鳥時代の寺院を推測させる。神社境内西方では鎌倉期の瓦が廃棄された南北溝が検出された。 代表的な瓦は川原寺式の八弁複弁蓮華文で、高麗寺・泉橋寺・蟹満寺などと同笵である。6282Bbは木津北遺跡・高麗寺・蟹満寺などから同笵瓦が出土する。四重弧文軒平瓦が出土している。現在も土塀中に多く見られるとされる。 |
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椿井御霊山古墳 | |
北西向きで全長約120mの前方後円墳と考えられる。発掘調査は実施されておらず、実態は不 明である。椿井大塚山・天上山・御霊山と大型の前方後円墳が並び、この東の丘陵には宮城谷古墳群・松尾古墳群・高築山古墳群・切ケ歌古墳群・寒光坊古墳群・大歌堂古墳群などの群集墳が展開する。 | |
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高麗寺跡 | |
高井手瓦窯跡は、高麗寺の乗る下位段丘の上の中位段丘裾に位置する。昭和10年代前半頃に水田の一角が崩壊して鬼瓦が並んで出土し、この瓦窯の存在が知られた。検出された瓦窯は半地下式有牀平窯の1号窯と平窯の2号窯である。1号窯は奈良時代末から平安時代初頭の高麗寺補修用瓦を生産したと考えられ、前出の鬼瓦はここから出土した。1号窯は南に開口し、幅約1.75m、奥行き約1mの燃焼室に分焔牀(ゆか)が5本設置される。燃焼室は地山刳り抜きの地下式で幅約2.3m、奥行き約二・四mのしゃもじ型で断面は蒲鉾型になる。焚口には支柱の花岡岩割石が設置されていた。2号窯周辺からは白鳳期瓦が出土しており、高麗寺伽藍整備期の窯の可能性が高い。2号窯は部分的に調査された。検出長2.8m、検出幅約1.3mをはかり、天井部も残存する。 出土したのは軒丸瓦・軒平瓦・鬼瓦・丸瓦・平瓦かある。軒丸瓦は6282に類似したKmM35、高麗寺Ⅱ期軒丸瓦を原型として製作されたKmM42がある。 軒平瓦は平城宮6761Aで、造東大寺司系の進瓦技法が使用される。西隆寺創建瓦は6235C-6761Aである。笵傷の進行状況から西隆寺→高麗寺→高井手1号窯→二号窯と製作される。従って平城宮V期後半から平安時代初頭(8世紀末~9世紀初頭)の年代観が与えられる。高井手の鬼瓦は平城宮武と南都七大寺式の両者の特徴を併せ持つもので、9世紀初頭と考えられる。 高麗寺跡は木津川の北岸、河岸段丘上に南面する法起寺武伽藍配置をとる。 その寺城は東西約190m、南北約180mと推定され、中枢部は史跡である。寺城周辺には高麗寺瓦窯・高井手丸窯や寺院造営氏族の居住空間である上狛東遺跡があり、北側丘陵には天竺堂古墳群・蓮池古墳群・千両岩古墳群が展開し、造営氏族の墓域と想定される。金堂・塔・講堂はすべて瓦積基壇で、金堂基壇は東西約16m(54尺)、南北約13.4m(45尺)を測り、塔は一辺12.7mm(43尺四方、講堂は東西約23.7m(80尺)、南北約19.5m(66尺)を測る。金堂は梁間14尺×桁行23尺の身舎に8尺の四面庇がつき、講堂は梁間25尺×桁行39尺の身舎に13尺の四面庇のつく入母屋造に復元される。寺城区画施設は南門・南門築地跡・東門・西道破敷溝が確認され、南北600尺×東西650尺の範囲が想定されている。 創建期の主要な軒丸瓦は単弁十弁蓮華文(KmM11A)で、花組の飛鳥寺I型式と同笵で、改組前後のa、b、cの各段階のものがあり、飛鳥寺A型式も同笵(KmM11B)がある。複弁蓮華文軒丸瓦では川原寺A類があり、同型式では法起寺・泉橋寺・松尾廃寺・蟹満寺に同笵例をもつもの(KmM22)がある。単弁十六弁蓮華文軒丸瓦(KmM26)は蟹満寺で使用された後に高麗寺一・二号窯で生産された。奈良時代の重圏文軒丸瓦や恭仁宮KM05と同笵のKmM32をはじめ平城害6320Aa・Ab、6282Ha・Hb・Bb、6285B、6291Ab、6225A、6311Aなどが出土する。軒平瓦では無文軒平瓦、三重弧文・四重弧文・五重弧文軒平瓦が使用される。均整唐草文軒平瓦は平城害6685C、6691A、6732C、6721C、6725A、6761A、6801A、長岡宮754などが出土する。この他播磨国府系の古大内式の軒丸Ⅰ(KmM35)軒平(KmH37)の出土が文献に残される播磨国の憎と高麗寺との交流から注目される。観音菩薩像線刻平瓦、菩薩様の小型独尊塼佛の出土かおる。塔相輪の擦管は水煙を固定するジョイントの割挟みが遺存する。また賓相華唐草を透かし彫りした金銅装飾り金具なども出土した。この他寺院内鋳造工房の存在を推測させるのは多量の風鐸鋳型と鋳造関連遺物である。これらは共伴する6285Aから奈良時代前半の塔修理に関わるものと考えられる。高麗寺の寺城東南部には高麗寺瓦窯が三基存在し、寺院内工房の存在が推定される。 高麗寺跡全景(後方丘陵左端付近が高井手瓦窯跡) | |
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礎石 | 塔心礎(仏舎利を入れる横孔) |
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![]() | 上狛駅で解散 |