大乗院庭園→鬼薗山城跡→西方院山城跡→東大寺境内(南大門、大仏殿、転害門)→多聞山城跡
「今年度は、 すでに二回も興福寺と東大寺を歩いております。 一回は光明皇后の遺跡を巡るテーマで、 もう一回は奈良時代の建造物をテーマとしました。 同じ場所を一年に三回も訪れたことは、 過去に例がありませんが、 三たび興福寺や東大寺の界隈を歩いてみたいと思います。 今回のテーマは、 タイトルのとおり 『戦乱の舞台としての奈良』 です。 」 | |
JR奈良駅 | |
![]() | JR奈良駅 出席者は208名 今回は、山田先生に奈良市内の中世古戦場を案内いただく。 「戦国時代は日本全国で下剋上の争いが多く繰りひろげられましたが、 大和国も例外ではありませんでした。 大和国全域ももちろんですが、 奈良でも東大寺と興福寺の争いや、 興福寺内の大乗院と一乗院の争い、 徳政一揆、 国外からの侵略勢力と大和国衆との争いなど多くの合戦の舞台となりました。 今回取り上げるのは、 おもに三つの合戦です。 一つ目は大和国の衆徒で大乗院方の古市氏と一乗院方の筒井氏の争い、 二つ目は三好三人衆・筒井順慶らと松永久秀らとの 『東大寺大仏殿の戦い』、 三つ目は筒井順慶と松永久秀との 『辰市城の合戦』です。」 |
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奈良町 | |
![]() | 「わたしたちは、 まず京終周辺に向けて歩いていきます。 ここも戦乱の舞台のひとつでした。 元亀二年 (一五七一) に筒井氏の本拠である筒井城を奪い取っていた松永久秀と筒井城奪還と多聞城攻めを目指した筒井順慶との間で起こった 「辰市城の合戦」 です。 戦闘が繰りひろげられたのは、 現在の奈良市南部の東九条(とうくじょう)町に筒井順慶の命を受けて井戸良弘が築城した辰市城です。 当初は松永方が優勢であったものの、 筒井方に大和国中から増援が合流すると情勢は逆転、 松永久秀は筒井城を放棄して、 多聞城へ敗走します。 この時、 京終を通って多聞城へ向かうのですが、 本道が筒井方によって塞がれていたために松永久秀は奈良の町屋に火を放って、 脇道を煙に紛れて敗走したと伝えられています。 」 18世紀前半の奈良町絵図をたよりに 松永久秀敗走の道?と考えられる、多門城への直線道より1筋東側の道を北上。 中将姫誕生の地と伝えられる誕生寺前で説明を聞く。 |
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![]() | 誕生寺の北側は谷になっており、鴨川が流れていた。 |
![]() | 谷を上ると中将姫が開祖と伝えられる安養院 |
大乗院庭園 | |
![]() | 「次に、 一度戦乱の舞台を離れて大乗院庭園に訪れたいと思います。 興福寺の門跡寺院である大乗院は寛治元年 (1087) に創建されました。 平重衡の南都焼き討ちの後、 現在の場所に移転し庭園が造られますが、 正長の土一揆などで荒廃します。 その復興のために時の大乗院門主尋尊が京都の銀閣寺庭園を作庭した善阿弥らを招いて池泉回遊式庭園として改造したものです。 明治維新に廃仏毀釈の影響で大乗院は廃寺となりますが、 庭園は残されて、 国の名勝にも指定されています。 一九九五年からは奈良文化財研究所によって発掘調査が実施され、 復元整備がおこなわれました。 2010年から一般公開が始まっています。 発掘調査で明らかになった庭園の構造について簡単に紹介しましょう。 庭園は広大な東大池と西小池から構成されています。 東大池には天神島や三ツ島、 中島の五つの島が作られていました。 近世に描かれた絵図によると、 中島には屋根付きの橋がかけられ、 建物が建てられていたようです。 西小池は北池、 中池、 南池の三つの池が南北に連なっており、 北池にはメシマが、 中池にはオシマなどの島が作られていました。 大乗院の御殿はこの西側に建てられていました。 」 庭園館長から説明を聞く。 |
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![]() | 「さて、 戦乱の舞台に話を戻しましょう。 大乗院庭園から北を眺めると庭園の背後に奈良ホテルの建っている小高い丘陵が見えます。 実は、 この丘にはかつて城が築かれていました。 鬼薗山城跡です。 大乗院の前門主であった経覚を擁した古市胤仙が築城しました。 文安元年 (1444) に築城されますが、 翌年には対立していた一乗院方の筒井順永とその後見人であった成身院光宣の攻撃によって落城、 筒井方の拠点となります。 その後、 古市氏と越智氏によって攻撃が繰り返され、 最初は筒井方が撃退しますが、 康正元年 (1455) の越智家栄の攻撃によって大乗院方に奪還されます。 やがて、 両者の抗争が沈静化すると長禄二年 (1458) に廃城が決定されます。 「大乗院寺社雑事記」 にはその様子が記録されており、 陣屋の撤去だけでなく、 盛土を崩し、 堀をすべて埋めるなど徹底した破却がおこなわれたことがわかります。 そのためもあってか、 現在その痕跡はまったく残っていません。 」 |
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鬼薗山城跡 | |
![]() | 奈良ホテル |
西方院山城跡瑜伽山城 | |
![]() | 「鬼薗山城から東へ目を転じると、 道路 (平城京東京極) を挟んで東側にも小高い丘陵が見えます。 ここにも山城が築かれていました。 西方院山城跡です。 山の名前を瑜伽山ということから、 瑜伽山城と称することもあります。 この城は大乗院の境内にあった鬼薗山城の築城が難航した際に代替として文安元年 (1444) に築城が開始されますが、 途中の計画変更により鬼薗山城が完成すると、 そのまま放置されたようです。 その後、 先にも述べましたように鬼薗山城は破却されますが、 応仁文明の乱のさなかの文明一〇年 (1478) に再び築城が開始され、 翌年に完成しました。 完成した九月二九日には築城した古市澄胤らによる引き渡しの儀式がおこなわれたようですが、 わずか三日後の十月二日、 筒井順尊・順盛の軍勢が押し寄せると城兵が自ら火を放ち落城しました。 さて、 西方院山城の遺構は、 現在も比較的良好に見ることができます。 瑜伽神社の背後に最も広い主郭があり、 その西側に土塁と堀切で区画された郭があり土橋で連結されています。 主郭の東側には二重の空堀が設けられ、 その東には土塁の痕跡も見られます。 城の南端部は近世以降に削平され、 現在は瑜伽神社などがあります。 奈良の市街地周辺で山城の遺構が良好に残る稀有な例です。」 瑜伽神社 |
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![]() | 二重の空堀 |
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![]() | 西側の郭跡 |
![]() | 北から望む 左 瑜伽山城 右 鬼薗山城跡 奈良公園で昼食休憩 |
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東大寺南大門 | |
![]() | 「ここから北東へ進むと東大寺です。 ここでは、 「東大寺大仏殿の戦い」 と称される合戦の跡を訪れてみたいと思います。 東大寺大仏殿の戦いは、 三好三人衆と松永久秀が室町幕府第十三代将軍の足利義輝を暗殺したのち三好氏における主導権を争ったことが発端として起こりました。 松永方に対するのは三好氏の当主となった三好義継を擁した三好三人衆と筒井順慶、 摂津の池田勝正などで、 永禄八年 (1565) から戦闘が繰りひろげられました。 それが永禄一〇年 (1567) に入ると事態が一転します。 当主の三好義継が松永方に寝返るという事態が起こり、 これを機に東大寺大仏殿の戦いが勃発します。 松永久秀は、 三好義継を擁して四月十一日に信貴山城から多聞城へ移ります。 当主の寝返りを受けて、 三好三人衆は大和に入って筒井順慶軍と合流、 広芝 (現在の神殿町あたりか)、 大安寺、 白毫寺に布陣します。 対する松永軍は東大寺の転害門と戒壇院に布陣しました。 そして、 三好三人衆と筒井軍が天満山と大乗院山に進軍した四月二四日に戦闘が始まりました。 この時には、 東大寺南大門の周辺で銃撃戦が繰りひろげられました。 なお、 東大寺南大門の仁王像のうち阿形の左側二の腕からは打ち込まれた鉄砲玉が一点発見されています。 さらに足下からも二点発見されていますが、 自然科学的な分析の結果は、 戦国時代のものと断定はできないというものでしたが、 興味深い資料です。 」 |
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東大寺古戦場 | |
![]() | 「その後、 三好三人衆軍は東大寺の許可を得て、 東大寺境内 (大仏殿院か) へ進軍、 布陣します。 この時、 松永軍は戒壇院に布陣していましたから、 わずか200m足らずの場所に両軍が対峙していたことになります。」 「三好三人衆軍などのこれらの攻撃に対して、 松永軍は陣地として利用できる可能性がある堂塔を焼き払ってしまいます。 文献の記録からは、 この時に般若寺をはじめとして、 東大寺の上院地区にある文殊堂や仏餉屋、 大仏殿北側の金蔵院などが焼き払われたことがわかります。 その後はしばらく両軍が膠着した状況になりますが、 十月十一日に松永軍が大仏殿院の三好三人衆軍に奇襲をしかけ、 その最中に大仏殿院と戒壇院の中間にあった穀屋から火の手があがり、 翌十二日にはついに大仏殿が焼失、 大仏の頭も焼け落ちてしまいました。 この火災については、 一般的には、 松永久秀による放火ということで流布していますが、 文献には、 松永軍の放火とするものの他にも誰がと明記せずに戦闘中の兵火によるとしたものや、 三好三人衆軍の中のイエズス会信者が放火したというものもあります。 大仏焼失の原因者についての議論は、 実はいまだ決着していないのです。 さて、 この火災で三好三人衆軍と池田軍は総崩れとなり、 それぞれ本国の山城国と摂津国へと退却、 戦いは松永軍の勝利で終結しました。 」 上 大仏殿(三好軍)から戒壇院(松永軍)を望む。 下 戒壇院北側から大仏殿を望む |
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転害門 | |
![]() | 三間一戸八脚門の形式をもつ。三好・松永の戦いにも焼け残った東大寺内で数少ない建物のひとつで、鎌倉時代の修理で改変されているが、奈良時代の建物である。 門には珍しく天井がある(写真中)が、これは、東大寺の鎮守手向山八幡宮の転害会でここをお旅所とし、御輿を置くためである。床には神輿を置く石が4個ある。 |
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![]() | 一条通りから松永久秀の本拠多聞城跡へむかう。 |
多聞山城 | |
![]() | 「多聞山城とも呼ばれるこの城は永禄3年 (1560) に松永久秀の大和支配の拠点として築城されました。 築城された場所は当時、 眉間寺山と呼ばれていたところで、 山城国から奈良へ至る奈良坂に面し、 東大寺や興福寺を見下ろせる交通の要地でした。 城内は軍事要塞のような感じではなく、 豪華な建築が建てられていたようで、 ルイス・フロイスの 『日本史』 に記載された宣教師のルイス・アルメイダの書簡には、 ルイス・アルメイダが 「塔」 と称した櫓や、 「宮殿」 と称した本丸御殿などが存在したこと、 「城壁と堡塁は (中略) 白く明るく輝いて」、 「すべての家屋と堡塁は (中略) 美しく快い瓦で掩われ」、 「壁は日本とシナの歴史を描いたもので飾られ」 など城内の豪華な様子が記され、 「世界中此城の如く善且美なるものはあらざるべしと考えふ」 と賞賛しています。 櫓については、 「四階ヤクラ」 という名の記録もあり、 後の天守閣の元になったとも考えられています。 また、 近世城郭に多くみられる城壁の上に長屋形に築かれた多聞櫓もここが発祥とする説もあります。 松永久秀は、 東大寺大仏殿の戦いの後、 織田信長に帰服、 筒井順慶に対して攻勢をかけます。 それに対して筒井順慶も、 最初に紹介した辰市城の合戦で松永軍に勝利、 明智光秀の仲介で織田信長に帰服しました。 筒井氏の台頭を受けて、 松永久秀は室町幕府最後の将軍、 足利義昭の画策した信長包囲網に加わって、 織田信長に謀反を起こします。 結果は、 足利義昭が織田信長に追放されたことで、 信長包囲網は瓦解、 松永久秀は多聞城を織田信長に引き渡しました。 織田方に引き渡された多聞城には、 明智光秀、 柴田勝家、 塙直政が相次いで城主となったが、 次いで大和国の守護となった筒井順慶は多聞城には入城せず、 ついに天正4年 (1576) から翌5年 (1577) にかけて多聞城は破城されました。 ただ、 この時の建築資材は、 織田信長が築造した京都の二条城に利用されたと文献に記されています。 また、 石垣は筒井城や郡山城に転用されたようです。 なお、 松永久秀は同年ふたたび織田信長に対して謀反を起こし、 信貴山城の戦いで自害します。 さて、 最後に多聞城の遺構について紹介します。 多聞城は江戸時代には南都奉行所の与力や同心の屋敷が立ち並んでいたようであるが、 幕末にはそれも無くなって練兵場となっていたようです。 その後、 昭和23年 (1948) に奈良市立若草中学校が建設され、 現在にいたっています。 多聞城に対する発掘調査はこの中学校建設時と、 校舎新築にともなって昭和53年 (1978) と2回実施されています。 発掘では、 城跡の北端部にわずかに残っていた土塁の調査はおこなわれましたが、 それ以外に多聞城の遺構は確認されませんでした。 土塁の基礎からは、 五輪塔の火輪の石材などを整然と並べて基礎固めをした状況が確認されています。 瓦は多数出土しており、 南都の寺院からの転用品も多くみられますが、 大部分同一の規格であることから多聞城の専用として新たに造られたものと考えられています。 城跡の地形としては、 若草中学校のある広大な平坦地が本丸で、 東に隣接する善勝寺山とを分断する大堀切が、 本丸西端と西に隣接する聖武天皇陵がある丘陵とを分断する堀切の地形が残っています。 本丸の北側には水堀が巡らされていたようである。 本丸の西端は仁正皇后陵となっていますが、 当時は多聞城に取り込まれ、 現在の陵墓域に櫓台とみられる地形も残っています。 西側の聖武天皇陵の丘陵にも帯曲輪状の地形がみられることから、 多聞城の出曲輪だったのではないかと推定されています。」 写真上から 若草中学校へ向かう坂道 若草中学校正門 若倉中学校校内 若草中学校東側掘割 東から 若草中学校東側掘割 西から 若草中学校東側掘割 西から 聖武天皇陵から仁正皇后陵 |
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宿院城跡 | |
![]() | 「ここで、 東大寺大仏殿の戦いで重要な位置を占めた場所がもうひとつあります。 宿院城跡です。 近鉄奈良駅から商店街を北に上がること約400m、 T字路の突き当りが宿院町です。 宿院の名は、 平安時代に藤原氏が京から春日大社に参詣する際の宿所が置かれたことに由来すると伝えられます。 また、 室町時代には南都仏師のひとつ宿院仏師の活動拠点であったと考えられます。 この宿院町の場所、 現在は判りにくいのですが、 元々は周囲よりも少し小高い丘の頂上だったようです。 ここに多聞城の出城として宿院城が永禄九年 (1566) に松永久秀によって築かれました。 」 「三好三人衆方の池田勝正軍は、 着陣した翌日の5月18日に宿院城を攻め込みました。 この時は宿院城を守る松永軍が勝利し、 池田軍は、 現在の油阪町の西方寺へと退却しました。 なお宿院城の跡は、 残念ながら近世以降に町屋と化し、 かつて城があったことを示す遺構はまったく残っていません。 」 上 宿院城北側にある奈良女子大学正門 中 奈良女子大学構内南端 鹿が遊ぶ 下 宿院城跡 T字路 |
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