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黒塚古墳.黒塚展示館→天神山古墳→行燈山古墳→櫛山古墳→シウロウ塚古墳→渋谷向山古墳→上の山古墳→柳本大塚古墳→石名塚古墳→ノベラ古墳

千賀先生の最後の例会は、柳本古墳群を歩く。
柳本駅から順に黒塚展示館に向かう。

柳本古墳群には、 行燈山古墳 (現・崇神陵) と渋谷向山古墳 (現・景行陵) を中心に、 狭い範囲に古墳が近接して造られている。
 3つの支群のうち、 柳本支群は、 東から西へ櫛山古墳・行燈山古墳・アンド山古墳・南アンド山古墳・天神山古墳・黒塚古墳と続く。 その南側の尾根筋にある渋谷支群には、 シウロウ塚古墳・渋谷向山古墳・上の山古墳がある。 これらから西に離れた上ツ道沿いに、 ノベラ古墳・石名塚古墳・柳本大塚古墳の3基がある。
 これらのいずれもが前期古墳で構成され、 各支群ともそれぞれ独自の系譜をもつと考えられる。 その系譜のなかで、 行燈山古墳と渋谷向山古墳という同時期の古墳のなかでは卓越した規模の大型古墳を生み出している。
黒塚展示館
黒塚展示館前で千賀先生の説明を聞く。
 
黒塚古墳
黒塚古墳は、 前方部を西に向けた墳丘長130m、 後円部径72mの前方後円墳で、 1997・8年の発掘調査は記憶に新しい。
 後円部中央に南北方向の竪穴式石室があり、 合掌式の石室で、 石室内に長さ約6・2m、 幅約1mの木棺痕跡があり、 朱が特に濃くのこる棺内北側に画文帯神獣鏡1面、 その左右に鉄刀剣が置かれていた。 棺外には、 小口部の北側に3角縁盤龍鏡1面、 そして木棺と石室の東西側壁のすき間に、 鉄刀剣と32面の3角縁神獣鏡が、 いずれも鏡面を内側に向けて並べられていた。
 この石室は、 おもに北半部が早くから崩壊していて、 そのことも盗掘から逃れた要因だが、 天井までのこる南半部では、 その上部を粘土で密封しているようすがわかる。 また、 石室下部にも排水の施設があり、 埋葬空間を良好な環境に保つ工夫がなされている。 これらのことと、 被葬者を邪悪な霊から守るために大量の3角縁神獣鏡を並べたこととのあいだに、 共通の意識がよみとれる。
 
天神山古墳
伊射那岐神社の境内東に、 前方部を南に向けた前方後円墳、 天神山古墳がある。 墳丘の規模は、 再測量によって墳丘長103m、 後円部径56m、 前方部幅47mになる。 1960年の県道天理.桜井線の工事で、 墳丘の東半分が削り取られることになり、 後円部の竪穴式石室が発掘調査された。
 その石室は、 長さ6・1m、 幅1.2~1.4m、 上部の持ち送りが急になる合掌式の構造である。 石室内に木櫃がのこっていて、 その中央1m×50㎝の範囲に5㎝の厚さで約41㎏の水銀朱と、 周囲を取り巻くように鏡面を内側に向けて並べられた20面の鏡と鉄剣、 小口板 (仕切り板) の外側にも3面の鏡と鉄刀.農工具などが納められていた。
 報告書では、 人体埋葬の痕跡がなかったため、 木棺ではなく木櫃と呼ばれている。 なお、 その形状を検討した岡林孝作さんは、 通有の割竹形木棺とかわらないと指摘した。
 鏡の種類は、 方格規矩鏡6、 内行花文鏡・画文帯神獣鏡各4、 画像鏡・変形神獣鏡各2、 獣帯鏡1、 これらの中国鏡に加えて、 獣形鏡3、 人物鳥獣文鏡1がある。 最近の桜井茶臼山古墳の再調査で、 200m級の大型古墳には中国鏡が特に多く副葬されていることが明らかになり、 この天神山古墳の鏡群にあらためて注目できる。 つまり、 同規模の黒塚古墳では3角縁神獣鏡が大半であったことと比べると、 2つの古墳の行燈山古墳との親密さの差が副葬鏡の違いにあらわれたようだ。


写真上 伊射那岐神社社殿
写真中 伊射那岐神社の境内で説明を聞く
写真下 南アンド山古墳から望む天神山古墳
 
行燈山古墳
行燈山古墳は、 墳丘長242m、 後円部径158m、 前方部幅100m、 周濠と外堤を含めれば、 全長約360m、 最大幅約230mになる。 現在の墳丘と周濠・外堤は、 幕末 (文久・元治年間) の陵墓修復にともない改修されている。
 地元にのこる 「文久古図」 は、 修復前の古墳のようすを伝える資料であり、 それによると周濠の大半は埋められて耕作地になっていた。 なお、 墳丘と周濠の輪郭は現状の姿にほぼ1致していて、 修復時にこの図を参考にして施工されたことがわかる。 ただ、 前方部前面の周濠は、 外堤を高くして治水能力をそなえた溜池にかえられているため、 この部分は築造当初の姿ではない。
 東から西への傾斜地に造られている関係で、 周濠の途中を区切る渡り土堤があるが、 渋谷向山古墳のように多くはない。 これについては、 修復時にも本来の姿を知る手がかりはなかっただろうから、 現状の周濠の形を向山古墳と比較してこの古墳の時期が下るとするのはあたらない。
 なお、 修陵の際に周濠内から出土した大型の銅板は、 拓本がのこっている。 それは破片をつないだもので、 縦54・5㎝、 横71㎝、 厚さ1㎝ほどの大きな長方形、 片面の中央に内行花文鏡の文様、 その裏面にも製鏡の方形区画に見られる文様を鋳出している。 4世紀の大型鋳造品として珍しいが、 円と方形の作図法がわかると、 小山田宏1さんは注目している。
 この前方部側に2つの前方後円墳が続く。 西に接するアンド山古墳は、 墳丘長120m、 後円部径70m、 前方部幅約53mの前方部が広がる墳形になる。 そのすぐ南の南アンド山古墳は、 墳丘長65m、 後円部径38m、 前方部幅29mを測る。


写真上 行燈山古墳
写真中 南アンド山古墳
写真下 アンド山古墳
 
櫛山古墳
行燈山古墳の東に続く櫛山古墳は、 墳丘長150m、 中円部径90m、 西側の前方部幅70m、 東側の後方部幅65m、 前方部の開かない前方後円墳の後円部側に方形部 (後方部) をつけた墳形で、 双方中円墳と呼ばれる。
 墳丘にともなう埴輪のなかに、 尖った3角が連続する口縁部の楕円筒埴輪が、 前方部北側の裾からまとまって出土した。 現状では池になっているが、 墳丘裾に接して付属施設があったのかもしれない。
 1948.9年の発掘調査で、 中円部の竪穴式石室内に、 長持形石棺と想定できる組合せ式石棺材があり、 石室床面の中央に1段掘り込んでこの石棺を据えていた。
 後方部では、 排水施設をともなう白礫敷きの施設があり、 その面から多数の鍬形石・車輪石・石釧とそれらを模した土製品が、 いずれも破片の状態で出土した。 また多くの土師器高杯も、 杯部と脚部が分離して壊れていた。 これらが意図的に壊されたものかは特定できないが、 のちの造り出しに通じる性格が考えられ、 中円部の石棺の特徴とともに、 中期古墳につながる要素である。


写真上 南から望む櫛山古墳
写真中 櫛山古墳 後方部
写真下 櫛山古墳 中円部を望む
 
昼食
 
渋谷向山古墳
渋谷向山古墳は、 墳丘長300m、 後円部径160m、 前方部幅170mで、 前期古墳最大の規模をもつ。 墳丘の段築は、 後円部3段のうち1・2段目の平坦面が前方部に通り、 2段目は前方部の上面と同じレベルになる。 この特徴は、 桜井南部の茶臼山・メスリ山古墳の墳形に通じる。 そして、 地形が低い前方部側で、 下に1段を足して3段の墳丘にしていて、 行燈山古墳より整備された墳形になっている。
 周濠は、 墳丘に接する幅15mほどの狭いもので、 渡り土堤によって10か所で階段状に区切られ、 前方部の前面は幕末の修陵時に拡張されている。 これに似た幅の狭い周濠は、 箸墓古墳の後円部南東側などで検出された。
 関西大学に所蔵される伝・渋谷出土の蛇紋岩製の石枕は、 この古墳の出土品である可能性が考えられる。 その底部が平坦なつくりで、 石棺にともなうと想定でき、 石棺を採用した早い例になりそうだ。


写真上 渋谷向山古墳 ロ号倍塚
写真中 後円部
写真下 前方部
 
赤坂古墳 シウロウ塚古墳
この東側に、 陪塚とされている赤坂古墳 (方墳) に接してシウロウ塚古墳がある。 その墳形は、 東側の円丘と西側の方丘が連接した形であり、 2つの墳丘の間が極端に低くなるのが通常の前方後円墳とは異なる。
 東側の墳丘が方形であれば、 大阪府太子町の2子塚古墳のように双方墳といえる。 ただ、 既存の墳形に無理にあてはめずに、 大和神社の北にある星塚古墳とともにその特異性に注目しておきたい。 全長120m前後の規模になる。
 向山古墳の北西にある上の山古墳は、 墳丘長125m、 後円部径86m、 前方部幅60mで、 前方部を南に向けている。 前方部西側の調査で周濠が検出され、 鰭付円筒埴輪と盾形木製品が多くの埴輪片とともに出土している。


写真上 北から望むシウロウ塚古墳と三輪山
写真中 南から望むシウロウ塚古墳
写真下 赤坂古墳
 
上の山古墳
向山古墳の北西にある上の山古墳は、 墳丘長125m、 後円部径86m、 前方部幅60mで、 前方部を南に向けている。 前方部西側の調査で周濠が検出され、 鰭付円筒埴輪と盾形木製品が多くの埴輪片とともに出土している。
 
柳本大塚古墳
山麓の2つの支群から西方の平坦地に離れて位置する古墳は、 北からノベラ古墳、 石名塚古墳、 柳本大塚古墳の3基の前方後円墳があり、 いずれも前方部を南に向けている。

 もっとも南の柳本大塚古墳は、 大型内行花文鏡の出土した古墳として、 よく知られている。 墳丘は畑地に耕作されていて、 墳丘長94m、 後円部径54m、 前方部幅29mに復元できる。
大正7年 (1918) に後円部の小石室から39・7㎝の鏡が出土した。 それとは別に、 中心の竪穴式石室がその以前に掘り出されていて、 なかに 「1種刳り舟状」 の木棺材がのこっていたようだ。 小石室に大型内行花文鏡を納めるのは、 下池山古墳に通じる例であり、 こちらの鏡は37.6㎝で少し小さい。


写真上 柳本大塚後円部に登る
写真中 後円部で説明を聞く
写真下 後円部に残る石室材
 
石名塚古墳
 石名塚古墳は、 後円部東側が宅地になり、 前方部前面の裾は池で削られているが、 墳丘長111m、 後円部径66m、 前方部幅40mに復元できる。 後円部に比べて前方部の低い墳丘で、 その高低差は現状で約7mある。
 
ノベラ古墳
 ノベラ古墳は、 墳丘の大半はすでに削平されていて、 墳丘長約71m、 前方部幅30m、 前方部の広がらない墳形であったようだ。