市尾墓山古墳→高取町歴史研修センター→市尾宮塚古墳→権現堂古墳→水泥南古墳・水泥塚穴古墳
![]() | 高取町市尾から御所市古瀬まで、 曽我川沿いの巨勢谷を歩きます。 この地域は、 武内宿禰の後裔氏族である巨勢氏の本拠地と考えられており、 紀路(巨勢道)と呼ばれる飛鳥から巨勢谷を経て紀ノ川沿いに和歌山まで通る古道(のちの高野街道)が貫いています。 巨勢谷には大規模な横穴式石室を内蔵する後期古墳が多数存在し、 当時の巨勢氏の首長の墓とみられています。 巨勢氏は葛城氏衰退後の奈良盆地南部に勢力を張った古代豪族で、 継体朝の大臣であり、 外戚であった巨勢男人 (?-529)、 大化5年に左大臣となった孫の巨勢徳太 (徳陀古) (593-658) など、 著名な人物がいる。 |
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市尾墓山古墳 | |
![]() | 水田のひろがる沖積地にあって遺存状況の良好な墳丘や周濠・外堤を明瞭に観察できる点で、 奈良県を代表する後期前方後円墳といってよい。 国史跡 (1981年指定)。 前方部を北西に向けた前方後円墳で、 全長約70m、 高さ約10mを測る。 二段築成で、 円筒埴輪列がめぐらされている。 くびれ部の両側には造り出しがある。 墳丘周囲に幅6~8mの周濠、 さらに外堤が巡る。 外堤は幅8~12mで、 高さ2mをこえる部分もみられる。 外堤まで含めた総長は約100mに達する。 1978年の発掘調査で、 後円部の中央に内蔵された横穴式石室が発見された。 全長9.45mで、 初期の畿内型横穴式石室を代表する右片袖式の大型石室である。 玄室は長さ5.87m、 幅2.60m、 高さ3mを測り、 やや細長い平面プランである。 羨道は長さ3.58m、 幅1.82mを測る。 玄室は比較的小振りの自然石を8~10段持ち送りながら積み、 天井石5枚を架構する。 羨道の入り口から墳丘斜面までは大規模な墓道がのび、 後円部テラス面に開口する。 この石室の特徴として、 奥壁の上半部左壁寄りに存在するいま一つの羨道状施設の存在がある。 この部分は周囲の石材よりもさらに小振りの自然石で閉塞されており、 石室の完成時までは通路として機能していたと考えられている。 確認された羨道状施設は幅1.9m、 長さ2.2mで、 2枚分の天井石が架構されている。 河上邦彦氏はこの羨道状施設の床面が、 玄室の床面よりも約80㎝高いこと、 この高さが石棺身の高さにほぼ合致することから、 石棺蓋の搬入路であった可能性を指摘した。 いま一つの特徴は、 玄門部に石を積み上げた階段状施設 (「段状区画施設」) を有することである。 この施設は宮原晋一氏によって存在が指摘されたもので、 天理市東乗鞍古墳、 高取町市尾宮塚古墳、 川西市勝福寺古墳など、 初期の畿内型横穴式石室に特徴的にみられる。 また、 玄室床面の礫敷き下部はよく叩き締めた粘土であるが、 さらにその下には20~30㎝大の割石層が広がっている。 この施設は2004年の調査では 「基礎石」 と呼ばれ、 石室下部の全面に広がるものと推定されている。 盛土の上に石室を構築するに先立ち、 基盤を強化したものと考えられ、 同様の施設は高槻市今城塚古墳 (「石室基盤工」)、 宇治市宇治二子塚古墳などでも検出されている。 玄室内部には大型の刳抜式家形石棺を安置する。 二上山白色凝灰岩製で、 全長2.71m、 幅1.33m、 高さ1.39mを測る。 蓋長側辺斜面に2個ずつ計4個の大きな楕円形の縄掛突起を付す。 石棺内部は全面に鮮やかな赤色顔料が塗られている。 石室内は盗掘されていたが、 馬具、 刀、 鉄鏃、 ガラス・水晶などの玉類、 須恵器などが出土した。 2004年から2006年にかけて史跡整備のための発掘調査がおこなわれ、 墳丘テラスの円筒埴輪列が検出された。 墳丘の断ち割りでは、 「楕円形か方形を呈し、 一辺0.1~0.3mの長さと、 幅」 をもつ非常に締まった堅い粘土の固まりが多数見られた。 これは土嚢の痕跡と考えられている。 また、 周濠からは鳥形、 笠形、 石見型などの木製樹物が出土した。 須恵器はⅡ型式1段階から2段階を中心とする。 6世紀初頭~前半の築造と考えられ、 継体朝の大臣であった巨勢男人の墓に比定する説がある。 |
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高取町歴史研修センター | |
![]() | 「高取に渡来人がやってきた-1500年前の韓流-」を見学。 |
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市尾宮塚古墳 | |
![]() | 墓山古墳の西南方約250mの独立丘陵上にあり、 前方部を東北に向けた前方後円墳である。 国史跡 (1981年指定)。 二段築成で、 全長約44m、 後円部径約23m、 高さ7m、 前方部幅約23m、 高さ4.5mの規模を有し、 市尾墓山古墳の墳丘上段とほぼ等しい。 後円部の中央に北々西に開口する横穴式石室がある。 全長11.6mの両袖式石室である。 玄室は長さ6.2m、 幅2.5m、 高さ3mで、 墓山古墳同様細長い平面プランをもつ。 羨道は長さ5.4m、 幅1.5m、 高さ1.8mを測る。 石室壁面は赤色顔料が塗られる。 床面の壁面に沿ってY字型の排水溝を設置し、 小礫を敷く。 玄室内に二上山白色凝灰岩製の刳抜式家形石棺が安置されている。 棺身は長さ1.9m、 幅1.2m、 高さ0.65mを測る。 蓋長辺斜面には各2個計4個の縄掛突起があり、 市尾墓山古墳のものより角張った形状に変化している。 石棺外面は赤色顔料を塗布する。 鉄釘も出土しており、 石棺のほかに木棺による追葬があったと考えられる。 かつては自由に石室内に出入りできたが、 石棺の破損が激しくなってきたことから、 1997~1998年に石室内の発掘調査、 石棺の修復、 整備が実施された。 金銅装環頭大刀・大刀・水晶三輪玉・鉄鏃・弓金具・鉄製挂甲小札など武器・武具類、 金銅装鞍金具・杏葉・辻金具などの馬具、 金銅製鈴・耳環・銀製魚形歩揺・水晶切子玉・トンボ玉などの装身具、 須恵器などが出土している。 須恵器はⅡ型式2段階を主体とし、 6世紀前半の築造と考えられる。 年代的に市尾墓山古墳に後続することから、 市尾墓山古墳の被葬者に次ぐ同一系列の首長墓と考えて間違いない。 |
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権現堂古墳 | |
![]() | 天ノ安川神社境内に所在する。 墳丘は大きく削られ、 原形をとどめない。 径30m程度の円墳であったと推定されるが、 前方後円墳であった可能性も残る。 県史跡 (1978年指定)。 横穴式石室は本来開口部を南東方向に向けているが、 羨道部が土砂で埋没し、 反対に奥壁側が破壊されて開口している。 右片袖式で、 玄室長5.5m、 幅2.5m、 高さ2.3m、 羨道幅1.7mを測る。 玄室内中央に二上山白色凝灰岩製の刳抜式家形石棺を安置する。 長さ2.3m、 幅1.1m、 蓋の高さ57㎝を測る。 蓋の側辺斜面に2個ずつ計4個の縄掛突起を付す。 珍しいことであるが、 内部には石枕がつくり付けてある。 この石棺以外に、 二上山白色凝灰岩製の刳抜式家形石棺がもう1個あり、 蓋の縄掛突起の一部が石室内に存在する。 また、 1979年に石室を補強するための鉄骨を設置した際、 床面から多数の副葬品とともに緑泥片岩が出土したことから、 新宮山古墳と同様の箱式石棺が存在したと推定されている。 1979年に出土した副葬品は、 須恵器・土師器・金銅装馬具・挂甲小札・鉄鏃などである。 須恵器にはⅡ型式1段階から3段階までの幅があり、 6世紀初頭~前半に造営され、 6世紀中葉まで追葬がおこなわれたと考えられる。 |
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水泥南古墳 | |
![]() | 巨勢谷のもっとも奥まった位置の、 丘陵の東斜面にたがいに約100m離れて並んで築造されている。 北側が水泥塚穴古墳 (水泥北古墳)、 南側が水泥南古墳 (蓮華文古墳) である。 ともに1961年に国史跡に指定されている。 『日本書紀』 巻二十四・皇極天皇元年是歳条には、 蘇我蝦夷・入鹿父子が多くの民を徴発して今来に双墓を造営し、 蝦夷の墓を 「大陵」、 入鹿の墓を 「小陵」 と呼ばせたという記事があり、 水泥の二古墳をこの 「今来双墓」 に比定する説がある。 この説は18世紀の 『大和志』 に 「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、 与吉野郡今木隣」 とみえ、 一定の地名考証に基づいたものであるが、 現状では年代的な不一致から否定されている。 むしろ、 6世紀後半から7世紀前半にかけての巨勢氏の墳墓と考えるのが自然であろう。 水泥南古墳は現状で直径約14m、 高さ約5mの円墳であるが、 発掘調査の結果、 本来の直径は約25mであったと考えられている。 横穴式石室は両袖式の巨石石室で、 南に開口する。 全長約15m、 玄室は長さ4.6m、 幅2.4m、 高さ2.6mを測る。 玄室は側壁3~4段、 奥壁2段、 前壁1段の壁面構成で、 天井石は2枚である。 羨道は袖石1段、 側壁2段で天井石5枚を架構する。 玄室の床面には拳大の礫を敷き詰める。 玄室と羨道にそれぞれ石棺が安置されている。 玄室棺は二上山凝灰岩製の刳抜式家形石棺で、 蓋は大きく欠損する。 蓋の短辺斜面に各1個、 長辺斜面に各2個、 計6個の縄掛突起が付く。 羨道棺は追葬棺と考えられるが、 蓋短辺の縄掛突起に六弁の蓮華文が線刻されていことで著名である。 竜山石製の刳抜式家形石棺で、 蓋の短辺斜面に各1個、 長辺斜面に各2個、 計6個の縄掛突起が付く。 このうち長辺の縄掛突起4個は完成後に再加工され、 小さくなっている。 これは、 石棺を搬入する際に側壁に接触するなどしたため、 削られたものと推定されている。 1996年の発掘調査で、 須恵器、 金銅製耳環などが出土した。 また、 石室内から墳丘外にのびる排水溝が検出されている。 7世紀前半の築造と考えられる。 |
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水泥塚穴古墳 | |
![]() | 水泥塚穴古墳は径20mあまりの円墳と考えられる。 1977年に河上邦彦氏らにより石室の実測調査がおこなわれた。 横穴式石室はやはり両袖式の巨石石室で、 南に開口する。 全長13.4m、 玄室の長さ5.6m、 幅3m、 高さ3.45mを測る。 玄室は側壁3~4段、 奥壁2段、 前壁1段の壁面構成で、 天井石は2枚である。 羨道は袖石1段、 側壁2段で天井石3枚を架構する。 過去に、 羨道の床面で玉縁の付いた丸瓦を2個接合したような土管をつないだ排水施設がみつかっている。 6世紀後半の築造と考えられるが、 土管を利用した排水施設は追葬時の造作である可能性が指摘されている。 西尾さん宅に遺跡が存在。 ご自宅には出土品を展示しておられる。 |
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