奈良教育大学教育資料館→新薬師寺→東大寺→正倉院→聖武天皇陵・仁正皇后陵→法華寺・海竜王寺→阿弥陀浄土院→皇后宮(旧長屋王邸)→新大宮駅解散
光明皇后ゆかりの遺跡をたずねて -光明子追憶- 光明皇后は藤原氏の出身ながら皇后位につき、聖武天皇と協力して様々な仏数的施策を実施したり、慈善活動にも力を入れ、天平時代と呼ばれる奈良時代の栄華を築いた。光明子は厚く仏教を信仰し、中でもその施策は唐の則天武后に範を取ったとも指摘されている。その生涯を概略する。 光明子は譚は安宿媛といい、大宝元年(701)に藤原不比等、県犬養宿禰橘三千代の長女として生まれた。同年の文武の首皇子に霊亀二年(716)に16歳で皇太子妃として嫁した。養老二年(718)には安倍皇女を出産した。首は神亀元年(724)に即位して聖武となり、光明子は三位に叙され、大夫人となった。神亀四年(728)には待望の皇子が誕生したが、翌年に夭逝してしまった。長屋王の変を経て天平元年(729)には皇后として冊立された。この後は下記概要に記すように長男(某王)を亡くした光明子はより深く仏教の、中でも浄土信仰に傾倒してゆく。それとともに夫聖武と様々な仏教施策を展開していった。 | |
奈良教育大学 | |
![]() | 平松良雄氏初めての例会。200人を越える会員が集まった。 吉備塚古墳の横を抜けて教育資料館へ。 資料館では教育大学の先生の説明を聞く。 |
![]() | ![]() |
新薬師寺 | |
![]() | 新薬師寺の創建は『東大寺要録』第一によると「(天平)19年丁亥三月。仁聖(ママ)皇后。縁天皇不作豫。立新薬師寺。并造七佛薬師像。」と記される。また同巻六によれば、「后又造香薬寺九間佛殿。造七佛浄土七躯。請在殿中。造塔二区。東西相対。鋳一鐘口。(略)住僧百余。増房田園食料。」とあり、新薬師寺の構造が窺える。聖武は天平17年(745)頃から体調不良が続き、これを契機として光明子が平癒を祈願して創建したものと考えられる。またこのために造顕された七佛薬師像を安置する堂は「佛殿九間」と記されている。そしてこの堂で聖武の病悩回復のための七佛薬師悔過が修された。天平勝宝六年(754)11月8日には孝謙が聖武・光明のために七佛薬師続命法を修しているが、その舞台は新薬師寺がふさわしい。その祈りも空しく天平勝宝8歳5月2日に聖武は崩御した。その後『続日本紀』『要録』によれば宝亀十一年(780)に金堂・講堂・西塔が焼失したとされる。延暦十二年(793)には以前に光明子によって東大寺に施人された五千戸のうち一千戸が寺の修理費に分配されていたが、さらにそのうちの百戸が新薬師寺の修理分として配分された。 応和3年(963)8月には七佛薬師堂が大風によって倒壊したとされる。 2008年には奈良教育大学新校舎建設に先立つ発掘調査によって壇正積基壇、礎石建物の一角が検出された。礎石は失われるが、壷掘事業によってその位置が強固に締め固められていた。礎石振付の掘り方は4基検出された。中央三間は17尺(5.1m)、その両側4間15尺(4.5m)、両端一間は13尺(3.9m)の逓減法がとられている。身舎は約五九m、庇を含めて約68mの幅が推定される。特徴的なのは階段幅が長く、約52mと推測される。横長の堂舎に幅広の階段が取り付く特徴的な建物が想定される。 発掘調査によって6235G、6236E、6301I、6732D、6732Fという、純粋な東大寺式が使用されたことが明らかになった。これらは6236を除くと東大寺式でも初期の段階の軒瓦であり、天平19年頃の新薬師寺創建段階の瓦と考えて良かろう。瓦から見れば造東大寺司が新薬師寺の造営を担当したと見て良い。 写真上 付属小学校東側の微高地が新薬師寺遺構 写真中 手前壷掘遺構 写真下 教育資料館の遺構展示 |
![]() | |
![]() | |
興福寺 | |
![]() | 興福寺は藤原氏の氏寺として天智8年(669)に鎌足の妻、鏡女王が創建した山階寺をその濫觴とする。 『興福寺流記』によれば、その後飛鳥に移転されて厩坂寺となり、平城に運されて興福寺となった。同書には平城に和銅3年(710)移転と記されるが、最新の説では和銅7年頃に(中)金堂が供養されたと考えられている。 中金堂には不比等の妻、橘県犬養三千代が夫の一周忌に弥勒浄土変を施人した。神亀3年(726)7月には聖武が元正太上天皇の病気平癒を祈願して東金堂を建立した。『扶桑略記』天平2年には「4月28日。立興福寺塔。藤原皇后。並中衛大将藤原前房等。自臨彼伽藍。率文武官。持簀運土。建五重宝塔一基。」とあって光明子は天平2年(730)に五重塔を建立し、舎利は水晶の小塔に入れて2層から5層にまで安置したと記される。天平5年5月に三千代が死去し、翌天平6年正月11日に西金堂を建立して一周忌の供養を行っている。著名な阿修羅像もこの時安置された釈迦三尊像に付随していた。この他主要な伽藍は藤原氏の氏長者が代々建立を重ねていき、現在見られるような複雑な配置となった。 現在興福寺では境内整備が進められており、発掘調査が進行している。 興福寺の創建瓦は6301-6671の組合せだが、これら以外に東大寺弐6235-6732も多く出土する。 |
![]() | |
東大寺 | |
![]() | 東大寺は聖武が天平12年(740)、河内知識寺に行幸して盧舎那佛建立を志した事に端を発する。次いで13年には国分寺の詔勅が発せられた。盧舎那佛は紫香楽宮で進顕作業が進められたが、頓挫した。現在の東大寺の地で盧舎那佛鋳造が再開されたのは、平城還都後の天平17年(745)8月の事とされる。 天平18年10月6日には「天皇。太上天皇。皇后行幸金鐘寺。燃燈供養盧舎那佛。佛前後燈一万五千七百余坏。夜至一更。使数千僧令擎(ささげる)脂燭。讃歎供養繞(めぐる)佛三匝。至三而還宮。」と記され、この時大佛の鋳型の原型が完成したものと推測されている。 天平勝宝元年(749)4月1日には「夏4月甲午朔。天皇幸東大寺。御盧舎那佛像前殿。北面対像。皇后太子並侍焉。群臣百寮。及士庶分頭。行列殿後。」とあって聖武らは前殿から盧舎那佛を拝している。その後、同12月27日、天平勝宝2年2月22日と度々聖武、光明らは盧舎那佛造顕の進捗に合わせて東大寺を訪れる。そして天平勝宝4年4月9日に盧舎那佛の開眼供養があった。「夏四月乙酉。盧舎那大佛像成。始開眼。是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設斎大会。其儀一同元日。(略)佛法東帰。斎会之儀。未嘗有如此之盛也。是夕天皇還御大納言藤原朝臣仲麻呂田村第。以為御在所。」 天平勝宝6年4月には『唐大和上東征伝』によると「初於盧遮那佛殿前立戒壇。天皇初登壇受菩薩戒。次皇后皇太子亦登壇受戒。」とあって、聖武らはこの年の1月に来日したばかりの鑑真から大佛殿前に臨時に設置された戒壇で受戒した。 天平19年には講堂の佛像が造顕される。このうち虚空蔵菩薩・地蔵菩薩・文殊師利菩薩・維摩詰は皇后宮の御願とされる。また所在不明ながら下如法院に光明子発願の一切経が納められた。 写真上 中門、西塔跡を眺めながら大仏殿へ 写真下 聖武天皇が立った位置で説明を聞く。 |
![]() | |
正倉院 | |
![]() | 元来正倉とは官衙・諸大寺に設置されたものだが、東大寺正倉院がその名を独占した形になっている。創建は明らかでないが、初度の東大寺献物帳の目付前後には完成されていたと考えられる。檜造、寄棟、本瓦葺で、東が正面の高床式の南北棟である。総高約14m、南北約33m、東西約9.3mを測る。束柱は直径約93cm、高さ約2.42mを測り、40本を数える。正倉内部は三室に分かれ、北倉・中倉・南倉と呼ばれる。内部は二階で天井もある。中倉は板倉造りだが、他は校倉造りである。 聖武の七七日忌の天平勝宝8歳(756)6月21日に光明は東大寺に「国家珍宝」を施入する。これは聖武遺愛の品々で御袈裟9領を先頭に六百数十点に及び、光明自ら作文した「国家珍宝帳」が添えられた。このリストの奥書は「右件。皆是。先帝翫弄之珍。内司供擬之物。追感艨昔。触目崩摧。謹以奉献盧舎那佛。伏願。用此善因。奉資冥助。早遊十聖。普済三途。然後鳴鑾(すず)花蔵之宮。住即涅槃之岸。」と光明自らがつづり、夫を亡くした悲哀に溢れる。 同時に衆人の病苦救済のために六十種の薬物を大佛に奉献しており、それが「種々薬帳」に記される。次いで同7月26日に追加献納された品々は「屏風花氈等帳」として記される。さらに天平宝字2年(758)6月1日篋笥に造されていた先帝玩好の大小王(王義之・献之父子)真跡書一巻が奉献された。これは聖武の形見として最後まで身辺にとどめていた物である。そして同10月1日には不比等追善のため不比等直筆の屏風二帖が奉献され、「藤原公真跡屏風帳」として記される。 これら身辺に留めた遺品を納めたのは、自身の死期を悟ってのことと、推測されている。 |
![]() | |
転害門 | |
![]() | |
聖武天皇陵仁正皇后陵 | |
![]() | 聖武天皇陵は佐保山南陵と呼ばれる。 『延喜式』諸陵寮では「兆城東四段。七町、南北七町。守戸五烟。」の遠陵とされる。『東大寺要録』では、聖武陵を本願山陵と称して山陵守を置き、祭祀にあたった。創建期は不明だが、陵の南に眉間寺が創建されて山陵に奉仕したが、松永久秀が永禄年間(1558~70)に多開城を築城するとその郭内に取り込まれた。 聖武は天平勝宝8歳(756)5月2日に崩御した。翌三日には御装束司、山作司、造方相司、養役夫司が任命されて、聖武の葬儀、造墓の準備がなされた。5月15日には山陵に埋葬されたが、その様は佛に仕え奉るごとくであったという。供物は獅子座の香炉・天使の座・金輪の幡・香幡・花縵・蓋の類があった。内部構造は不明だが、鎌倉時代の盗掘記録によれば石室があった。聖武は火葬されたと記されていないので、不明である。 仁正皇后陵は佐保山東陵と呼ばれ、佐保山南陵に隣接する。光明子は天平宝字4年(460)6月7日に崩御し、6月17日に葬られたが、12月に至り、御墓を山陵と改称し忌日を国忌に入れ、設斎された。 葬送については装束司、山作司、養民司、前後次第司などが設置された。 両陵ともに山頂に後世の改修の可能性がある円墳状の高まりがある。 写真上 聖武天皇陵 写真中 仁正皇后陵 写真下 古図に残る三角池 |
![]() | |
![]() | |
海竜王寺 | |
![]() | またの名を「隅(角)寺」「隅(角)院」とも言う。海竜王寺の初見は保延6年(1140)頃である。『諸寺縁起巣』によれば「件寺。光明皇后之御願也。玄昉入唐之時。求法安穏為遂。皇后立願所造也。而興福寺智尊僧都為彼寺別当。恐盗賊言上長者殿下。去永久三年安寺家也云々。又云。釈迦像-十一-。為先姐橘大夫人造立。清僧四百人。皆悉施納袈裟。少々納此。宝蔵云々。」という。『正倉院文書』から天平八年以前の存在が確実だが、瓦からみれば飛鳥時代頃まで遡る可能性かある。平城京以前からある古代寺院が平城遷都に伴って不比等邸の東北隅に取り込まれ、改装されたと考えられる。なお玄防は天平七年帰国した後に内道場に住して皇后の側近となったが、隅院が内道場の可能性がある。また毘沙門天像が安置されたことが知られており、隅院の性格を暗示している。寺地は平城京の一町に近いが、条坊と食い違う。伽藍配置は三金堂型式で、僧房が金堂の両脇にあり、講堂・食堂もあった。 |
![]() | |
法華寺 | |
![]() | 天平17年(745)5月11日に平城還都がなされたが、この時皇后宮を宮寺とした。天平19年頃から法華寺と改称されたと考えられるが、これは大和国国分寺としての法華滅罪寺に由来する。永正7年(1510)に金堂三尊下から発見された金版には「維天平宝字三年歳次己亥十二月廿三日乙卯。菩薩戒弟子皇太后藤氏光明子道名則真。稽首和南常住三宝。夫聞将聖湛寂。浄域沖虚。現身現方。為斎為益。人天帰命。龍神竭誠。利渉苦流。莫加此道。故以奉為先帝及先考先妣。捨居宅以建伽藍。傾珎財面模真容。(後略)」と記され、創建由来が明らかにされる。 写真上 鐘楼跡付近 写真下 講堂跡付近 |
![]() | |
阿弥陀浄土院 | |
![]() | 阿弥陀浄土院は法華寺南西隅の平城京左京二条二坊十坪に位置する。『続日本紀』によれば「設皇太后周忌斎於阿弥陀浄土院。其院者在法華寺西南隅。為設忌斎所造。其天下諸国、各於国分尼寺、奉造阿弥陀丈六像一躯・扶侍菩薩像二躯。」とあって光明の一周忌のために阿弥陀浄上院が建立された。その推定地には景石(立石)が残されている。 2000年の発掘調査では奈良時代の護岸石を持つ園池遺構が検出された。 総延長45m以上で、地底は石敷きで、汀線に沿って景石が立ち上がり、中島がある複雑な園池である。池の北西には礎石建物とその下層に掘立柱建物がある事が判明した。池の下層にも池があって阿弥陀浄上院が何らかの園池・建物を踏襲して建て替えられたことが判明した。 出土遺物は金銅製の垂木先飾り金具や釘隠、木製品、軒瓦(6138A・F~J、6767A・B、6768A~D)が出土した。線粕水波文博も出土している。木簡、墨書土器、奈良二彩も出土している。 この調査によって初めて阿弥陀浄上院が確認されたが、下層にも遺構があり、これが外嶋院、中嶋院などに比定できる可能性がある。 立石は、正面遠方家屋の手前田んぼ内に残る |
長屋王邸 | |
![]() | 長屋王邸は父の高市皇子の広大な宅地を伝領し、平城遷都後も同規模の邸宅を占地したが、神亀6年(729=天平元)いわゆる長屋王の変後、収公され分割されて別の機関として使用された。この地で出土した二条大路木簡の分析によって、皇后宮として使用されたことが判明した。 『続日本紀』「辛未。始置皇后宮職施薬院。令諸国以職封井大臣家封戸唐物充価。買取薬草毎年進之言とあって、天平2年(740)4月17日には施薬院が皇后官職内に設置されている。『扶桑略記』によれば同時に悲田院も設置された。 これらの機関は先述した大佛殿西の谷から出土した木簡に記載された内容とも矛盾なく、その設置位置の特定が望まれる。 さらに天平勝宝元年7月には光明子の娘、安倍が即位して孝謙天皇となり、9月には皇后官職を改めて紫微中台が成立し、やがて甥の藤原仲麻呂の政権掌握の礎となる。 長屋王邸は収公後の建物に使用された瓦が、法華寺などに共通することから、光明子に近い造営機関によって建物が使用されたと推定される。 |