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忍坂8、9号墳→越塚古墳→粟原カタソバ遺跡→赤坂天王山塚古墳→石位寺→段ノ塚古墳→忍坂遺跡→慈恩寺跡→脇本遺跡→近鉄大和朝倉駅

地域の歴史的概観
 大和盆地南東部、現在の桜井市街地を東へ進むと桜井市外山東方で北東へ入る初瀬川に沿った谷と、南東方向へ入る粟原川の谷とに分かれる。このふたつの谷に挟まれた要に位置するのが、後述する外鎌山古墳群が分布している標高290mあまりの外鎌山である。初瀬川や粟原川はその両側に余り広くはない沖積地を形成するが、そのなかでも東方へのルートが分岐する場所にあたる、この外鎌山の西側と北側には縄文時代以来の各時代の遺物が濃密に分布していて、近年の発掘調査では重要な遺構の検出も相次いでいる。
 初瀬谷の谷口に近い脇本地区にある朝倉小学校の北側から出土した1点の有茎尖頭器が、この地域で最も時期の遡る考古資料である。さらに初瀬谷を遡った初瀬遺跡からは縄文早期の土器が出土している。また脇本集落の南側沖積地に拡がる脇本遺跡からは、縄文時代後期から晩期にかけての土器や石器が出土している。弥生時代になると脇本遺跡や忍坂遺跡で、主に後期の住居跡や溝などの遺構が確認され、それぞれの遺跡からは古墳時代の建物跡や柵跡なども発見されている。忍坂は東方へのルートの分岐から粟原川を僅かに遡った附近にあり、谷の両側の丘陵一帯には多くの古墳が所在する。古墳時代の遺跡に関してはこの後に詳しく記述する。
 忍坂の地名は日本書紀の神武即位前紀に、「道臣命が神武に命ぜられ忍坂に大室をつくって饗宴を催す」とみえるのが初見である。垂仁紀には皇子の五十瓊敷入彦命が、茅渟の川上宮において、後に石上に移し管理されることになる一千口の剣を作って、忍坂邑の蔵に納めたとあって、ここには王権が所有する重要な武器が集約されていた可能性がある。また允恭天皇の皇后忍坂大中姫については、記紀に系譜について記載の違いがあるが、母百師木伊呂辨の家における闘雞国造との逸話などから、忍坂の地に居たことが推定できる。隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡にはその忍坂に関わる銘文があり、紀年の「癸未年」については、443年とする説と503年とする両説がある。前者であれば允恭朝となり「意柴沙可宮」と記されているのは、忍坂付近に忍坂大中姫と関係する宮室が所在したことを意味するが、後者であれば允恭朝から大作や息長氏が経営していた忍坂宮に、武烈朝になって大中姫の兄の孫にあたる継体が居住していたとする解釈も可能となる。
 朝倉は三輸山と外鎌山に夾まれた初瀬谷の谷口にあたる慈恩寺、脇本、黒崎附近一帯の地名で、雄略即位前紀には「壇を泊瀬の朝倉に設けて即天皇位す」とあり、雄略が朝倉官をこの地にひらいたことが知られる。母である大中姫の、宮が忍坂にあったことや、雄略が泊瀬に住む女性のもとにかよう万葉長歌もあり、雄略は泊瀬の地との関係が深いことが窺える。泊瀬朝倉宮については「帝王編年集成」では磐坂谷とし、「大和志」では黒崎集落の北斜面の天の森としているほか、黒崎白山神社には泊瀬朝倉宮伝承地の碑が建つ。また近鉄朝倉駅新設の際、石敷き遺構や祝部式土器が発見されたと伝えるが詳細は不明である。また、武烈の泊瀬列城宮も初瀬谷の出雲などが候補地として推定されているほか、欽明の泊瀬柴籬宮なども所在している。これら泊瀬の地名を冠した5世紀後半から6世紀に営まれた宮室の所在地については、近年の脇本遺跡の発掘調査の成果などが注目されている。
外鎌山古墳群
 寺川に合流する粟原川と、初瀬川に合流する竜谷川が、外鎌山のそれぞれ西と東を画している。その範囲に分布している本古墳群は総数で約90基にのぼるが、さらに外鎌山山頂から派生した尾根毎に支群として把握できる。この地域の古墳分布を俯瞰すると、鳥見山山麓や粟原川に面した外鎌山西麓、および南西側に当たる忍坂集落周辺は、特に古墳が集中している。一方初瀬谷に面した外鎌山の北麓一帯は、比較的分布がまばらである。
 この外鎌山の北半部を中心とした大規模宅地開発にともない、1972年から1975年にかけて北麓に延びる7つの尾根に分布していた36基の古墳が発掘調査の対象とされた。これらの古墳は東から竜谷支群、慈恩寺支群、忍坂支群の3グループに分けて捉えられている。前方後円墳の可能性がある慈恩寺1号墳と、多角形墳の可能性がある忍坂8・9号墳を除くほかはすべて15m以下の円墳で構成されている。埋葬施設は木棺直葬18基と横穴成石室11基からなっており、木棺は割竹形木棺が5基、組合式木棺が6基で、ほかは棺型式が不明で、横穴式石室は片袖式が5基、両袖式が3基、石室形態不明が1基、磚槨式石室が2基である。
 副葬品を中心とした出土遺物をみると、装身具には金環や銀環などの耳環が5基の古墳から、指輪は慈恩寺1号墳から1対が出土していて、玉類は6基の古墳から出土しているが、最も豊富な資料を出土した慈恩寺1号墳では、ガラス玉付銀製空勾玉、銀製空玉、琥珀製棗玉、琥珀製丸玉、水晶製切子玉、滑石製臼玉、ガラス製小玉が出土している。武器類には鉄剣、鉄刀、鉄鉾、鉄槍、鉄鏃がある。鉄刀は6基から12本が出土するが、刀装具を伴うものは僅かで、3基の古墳から金銅製や鉄製の責金具が出土しているに過ぎない。刀に関してはそのほかに竜谷8号墳から三輪玉が出土している。鉄剣は1本、鉄槍3本、鉄鏃1本出土しているだけで少ないが、鉄鏃は14基の古墳から出土し、大半が有頸尖根式によって占められている。農工具類は鉄刀子が21と多く、ほかに数は少ないが鉄鏃、鉄斧、鉄鉇、砥石などがある。馬具は5基の古墳から出土していて、忍坂4号墳の轡は密に打たれた鋲留めが特徴の、抉り入り楕円形鏡板付轡で、5世紀終末前後の所産とみられる。ほかには鉄製環状鏡板付轡、鞍の鉸具、引手などが出土している。
 竜谷支群に属する古墳はさらに4つの小支群に分かれ、調査された12基の古墳は概ね6世紀初頭から後半にかけて、木棺直葬墳から横穴式石室墳へ埋葬施設の構造を替えながら営まれたことがわかっている。中央の慈恩寺支群は15基のうち10基が調査され、6世紀初頭に最優位な木棺直葬の1号墳の築造を契機として支群の形成が始まり、横穴式石室墳へ移行するものの、ほかの支群に先駆け6世紀中葉に造墓を終了している。忍坂支群では8基の古墳が調査されているが、調査対象地内では最も先んじて5世紀初頭に壷棺だけが検出された5号墳と、4号墳の下層に遺された2基の木棺を直葬した古墳が築造される。その後時期を隔てて6世紀初頭になって新たに木棺直葬墳が築造され、さらに6世紀中葉以降の横穴式石室墳造営へと推移することが明らかとなっている。
近鉄大和朝倉駅
昨日までの梅雨空から一転快晴


写真上左 大和朝倉駅から二上山方面
写真上右 大和朝倉駅から脇本遺跡方面
忍坂8号墳(桜井市忍坂)

移設された忍坂古墳群で説明を聞く。

 外鎌山から北西に派生した尾根が粟原谷を臨む位置に立地している古墳である。墳丘の大半が失われていたが、残存していた周溝から復元される規模は、直径18m程度の円墳ないしは多角形の墳丘をもっていたと考えられる。
 古墳のほぼ中央付近で確認された埋葬施設は室生安山岩の板石を用いた磚槨墳で、石室南半が破壊されていたものの、残存部から平面プランが一辺176.5cmの六角形の特殊な構造であることが判明した。壁面は最もよく残っていた場所で4段目までで、上部の形状は明らかでないが、ほかの磚槨墳の事例を参考にすると、ある程度の高さまで垂直に近く立ち上がり、その上を宆蕯状に構築したものとみられる。石室背後には板石と礫を用いた排水溝が、円形に巡るように設えている。また、石室内部にも壁面の六角形に添うように板石を底石とした排水溝が備えられている。石室の一辺の長さは高麗尺の5尺に、唐尺では6尺になる。
 石室内からはガラス小玉約100点、銅製釘4点、須恵器杯蓋、土師器甕のほか、歯が1点出土している。磚槨石室であることや出土遺物から、7世紀中葉から後半に築造されたと考えられる。六角形プランの石室については、直接的系譜関係はないが、中国においては内蒙古自治区の遼代晩期や契丹の墓のほか、太原や洛陽の北宋時代以降の墳墓にいくつかの事例が知られている。

忍坂9号墳(桜井市忍坂)

 忍坂8号墳の西側約12mに隣接して営まれた直径が約18mの円墳ないしは多角形墳で、8号墳とほぼ同じ規模の古墳が、それも石室レベルを揃えて、並んで立地していることになる。墳丘の背後には周溝が巡るが、8号墳同様鈍角となる角のあるプランを呈していて、多角形の可能性がある。
 石室は室生安山岩の板石を用いて構築するが、破壊は著しく壁面の石材から全休の形態は把握できない。ただ壁面に添った排水溝が遺存していて、玄室の幅が2.62mあり、玄室長を上まわるT字形の特異な石室プランをもつ磚槨墳であることが明らかになっている。排水溝は8号填と異なり板石は用いず、溝内に礫を充填した構造である。また石室背後にも8号墳と同じ仕様の板石を用いた排水溝が、石室の形に合わせて付設されていた。石室内からの出土遺物はなく、僅かに周濠内から土師器甕1点出土した。
 この石室の玄室幅は唐尺の9尺に、石室内排水溝の東西内幅と南北外幅がともに唐尺6尺に一致する。先の8号墳とほぼ同時期の築造とみる。T字形石室は九州や近畿地方に類例があるが、磚槨式石室としては奈良市帯解黄金塚古墳や石川県蝦夷穴古墳東石室があり、石室構造の特徴から高句麗との繋がりが指摘されている。粟原谷周辺には花山東塚や花山西塚古墳のほか、舞谷古墳群など、忍坂8・9古墳と前後して造営された室生安山岩を用いた磚槨墳が分布している。

忍坂1,2号墳
忍坂ヲムロ古墓(桜井市忍坂字ヲムロ)

忍坂8、9号墳忍坂ヲムロ古墓出土地
(外鎌山右麓)

忍坂古墓は外鎌山古墳群忍坂10号地点において、耕作中に発見されていたものが1974年になって経緯が明らかになった奈良時代前半の火葬墓である。出土状況は詳らかにし難いが、ともに出土したとされる最長のもので長さ1.24mの室生安山岩の5枚の板石があり、外容器が直葬されたのではなく板石を使った小石室内に入れられていた可能性が高い。骨蔵外容器は2石からなる凝灰岩製で、身部および蓋部ともに角を面取りした長方形の箱形を呈す。身部は球形の容器が納まるよう半球形の凹部を、蓋受けの1.4cmの段をつくる方形に造り出した台の中央に穿つ。蓋はその台を受ける方形の繰り込みの中に、容器を納める半球形の凹部を穿っている。
蓋石の凹部には対角線となる4方向と、身部中央の台の上には赤褐色の顔料が塗布されたまま残されている。外容器の総法量は長さ44cm、幅30cm、高さ30cmである。この外容器は現在附属博物館に常設展示中。
 骨蔵器は盗難に造って現在は失われているが、外容器から直径18cm、高さ18cmの高台の付いた球形であることは明らかで、また発見者の言によって表面に文様のある金属製品であることもわかっている。

忍坂8、9号墳忍坂ヲムロ古墓出土地 
(車の周辺)
赤尾熊ケ谷古墳群(桜井市赤尾字熊谷・ウキ谷)

 鳥見山から北東に派生した尾根の先端附近に位置する古墳群で、同一尾根上には10基ほどの小古墳が連なって立地している。そのなかの4基の古墳が土地区画整理事業にともなって2002年に発掘調査された。1号墳は一辺13m前後の方墳で、長さ2.6mの刳抜式木棺が納められていた。墳丘は流出が著しく副葬品の有無は明らかにされなかった。
 2号墳も一辺が15m前後の方墳で、墓坑内に2.75mと2.2mの2基の刳抜式木棺が納められていた。1号木棺からは12個の連孤文帯と、櫛歯文帯と六葉文からなる鈕座で構成された類例のない内行花文鏡I面、ガラス製小玉、緑色凝灰岩製管玉、翡翠製勾玉が出土し、墓坑内からも内行花文鏡I面、ガラス製小玉、緑色凝灰岩製管玉、鉄鏃、鉄槍、鉄鑿、鉄鎌、鉄斧などが出土している。また堀割りからは壷や甕などの古式土師器が出土している。1号墳、2号墳ともに、4世紀前半頃の築造年代が導き出されている。
 3号墳も一辺が15m前後の方墳で、長さ5.2mの刳抜式木棺が納められていた。鉄剣や鉄刀のほか、銀製空玉、瑪瑙製勾玉と切子玉と丸玉、碧玉製算盤玉、緑色凝灰岩製管玉、ガラス製小玉、滑石製臼玉などの玉類が多数副葬されていた。また墳頂部からは円筒埴輪のほか朝顔形埴輪や鶏形埴輪が出土していて、築造年代が5世紀前半から中葉頃と考えられる。
 4号墳は2号墳と3号墳の間で確認された、東に開口する横穴式石室を埋葬施設とした直径6mの小円墳である。
石室は無袖式で奥壁から長さ3.5mまで残存していたが、副葬品など出土品は須恵器の細片を除いて得られなかった。
石室の構造から7世紀初頭頃の築造と思われる。

粟原カタソバ遺跡(桜井市粟原字下り尾)
赤坂天王山塚と越塚の分岐点付近で粟原カタソバ遺跡、カタハラ古墳群の説明を聞く
 粟原カタソバ遺跡は、粟原川を臨む左岸斜面に位置している5世紀から7世紀にかけての遺跡で、1992年に土取工事に先立って発掘調査が実施された。尾根の南から北西にかけての斜面から11基の横穴式石室墳がみつかり、6世紀終末から7世紀前半にかけて造営され、石室内に凝灰岩製の石棺を納めた古墳も確認された。北斜面からは飛鳥時代を前後する頃の20棟の竪穴住居や、高さ2.8m、長さ30mにわたる造成地に、直線的な石列のともなう大型掘立住建物などからなる遺構が検出され、北側に東方へ通じる交通路を見下す。またこれらの建物群に先行して、同じく北斜面からは臼玉のほか、手捏ねのミニチュア土器が、須恵器などの土器とともに土器溜まりから出土し、5世紀代には祭祀の場として利用された可能性が高い。
カタハラ古墳群(桜井市倉橋出屋敷字カタハラ)

カタハラ古墳群(桜井市倉橋出屋敷字カタハラ)は1999年に市最終処分場整備に関わる発掘調査が実施されて内容が明らかになった。音羽山から北西に延びる尾根上に赤坂天王山古墳があるが、同一尾根の西側に分布する3基の古墳と土坑墓群が調査されている。1号墳は北側に掘割りをもつ直径約15mの円墳で、全長6.3mの片袖式横穴式石室が南西方向に開口する。玄室は小型の石材を基底部に並べ、比較的大型の石をその上に積み、上部では隅部に石材を渡し、四壁の接する角をつくらないよう、かつ天井部の面積を狭くした穹窿状の天井を構築している。同じく穹窿状の横穴式石室をもち、6世紀後半に築造された橿原市沼山古墳とは、規模が異なるものの、石室のプランや壁面規格が相似する指摘がある。出土遺物には須恵器杯蓋と土師器長頸壷のほか、本古墳出土とされる須恵器高杯などが伝えられていて、6世紀中葉前後に築造されたとみられる。
 2号墳は区画周溝をもった一辺の長さが5m前後の古墳で、中央に穿たれた墓坑内に、小口部に板石を配した長さ約1.9mの組合式の木棺を納めていた。出土品には木棺にともなう鉄釘5本と、周溝からの須恵器杯と土師器杯とがあり、7世紀初頭前後の年代を示している。
 3号墳は尾根の背からやや外れた位置にあり、土砂採取によって崩壊の恐れがあったため1982年に先行して発掘調査が実施されている。北側に掘割りをもつ直径約12mの円墳で、南に開口する全長約4.3mの両袖式横穴式石室を構築している。石室内から金環、須恵器杯蓋、杯身、黒色土器杯などが、掘割りからは須恵器無頸壷、土師器杯、台付皿などが出土している。6世紀後半頃に築造年代が求められる。
 本古墳群からは墳丘をもたない埋葬施設が、1号墳と2号墳の間や2号墳の北に続く尾根筋に添って合計16基確認されている。長さ3~5m程の土坑内に木棺を納めたものや、土坑内に小型の石室を設けたものなどがあり、墳丘をもつ古墳に従属する埋葬施設とみられる。墓坑や石室のほか木棺内からの副葬品も少なく、金環、須恵器、土師器などと木棺に使われた鉄釘が出土しているに過ぎない。これら土坑墓などは概ね7世紀前半を中心にした時期に造営されたものとみられる。

越塚古墳(桜井市粟原字越塚)
 音羽山から北へのびる尾根上に立地する、直径が約40m、高さ約5mの大型円墳である。ただし方墳の可能性もある。
玄室長約5.2m、幅約2.5m、高さ約3.8m、羨道長約10.2m、幅約1.7m、高さ約1.9mの規模の両袖式横穴式石室が、南西方向に開口している。構築された石材には大型の自然石が使われ、玄室は3段に積み上げる。石室床面には大きめの角礫が敷かれ、玄室には播磨竜山産凝灰岩と思われるサイズの大きい組合式家形石棺底石が残されている。新宮山石棺についで大和では比較的早く用いられた竜出石製石棺といえる。発掘調査が行われていないため出土品に関する手掛かりはないが、石室の規模や構造から6世紀後半から終末の築造と考えられる
赤坂天王山古墳(桜井市倉橋字赤坂)
 音羽山山塊から北西側の丘陵は、粟原川を臨む位置にまでのびるが、その尾根の先端附近に立地する墳丘の一辺が約45m、高さ約9mの史跡に指定されている大型方墳である。墳丘の各側辺を東西と、南北方向にほぼ一致させ、3段に築き上げている。石室は南に開口する、全長約15mを測る両袖式の巨石を用いた横穴式石室で、玄室は長さ6.4m、幅3.0m、高さは現状で4.3m、羨道は長さ8.5m、幅1.8mの規模をもっている。石室全休に礫が敷かれ、羨門部には閉塞石が残存しており、玄室ほぼ中央には長さ2.4mの、6世紀終末以降に事例が増加する、二上山産の凝灰岩製刳抜式家形石棺が安置されている。
 本古墳は元禄年間に地元倉橋村の覚え書きを元に、南都奉行所が『日本書紀』にみえる592年に暗殺された崇峻の陵と決定しており、明治22年に宮内省が現陵に決定するまでは、その倉梯岡陵とされていた。現在も石室型式から導かれる6世紀終末頃の造営年代や、地域で最大の規模を誇る方墳であることなどを根拠として、崇峻陵と考える研究者が多い。
石位寺(桜井市忍坂)
 石位寺には重要文化財に指定された三尊石仏がある。高さ1m余り、幅1.5m前後の板状砂岩を巧みに利用して、三尊像を浮き彫りした白鳳期に遡る石仏で、天蓋の下に両手を膝前に揃えた如来形の中尊が倚座し、両側に胸前で合掌する形の脇侍立像が表現されている。三尊の蓮華座を斜めに造り出した表現技法も優れている。法衣を透して身体の起伏が表されているほか、いまも蓮華座の一部に朱の彩色が確認できる。粟原寺から遷されたという由来があるほか、額田王の念持仏という説がある。なお今回は訪れないが、粟原寺は塔跡や金堂跡に礎石が残され、白鳳期の軒瓦などが出土し、談山神社には和銅8年に鑪盤を上げたことが記された塔の覆鉢が所蔵されている。
忍坂段ノ塚古墳(桜井市忍坂)
 外鎌山南西麓に派生した尾根からさらに南に分岐した支尾根の先端に位置し、ちょうど忍坂集落の奥まった場所にあたりにある本古墳は、南側に幅105mの規模の大きく開く前面部を最下段とした方形壇を3段重ねた背後上部に、2段築成の恐らくは八角形をなす墳丘を築いた特殊な形態を呈している。
8角形をなす上部墳丘の高さは約12m、対角線距離は約42mを測る。方形壇の最下段前面は花崗岩を用いた列石が並べられる。忍坂集落内の石垣などには、本陵から出土したとされる小口部に小敲き調整した室生安山岩の磚状板石が散見されるが、これらは本墳の上部墳丘の裾に重ねて並べられていた列石が持ち出されたものとみられる。
 内部構造については詳らかでないが、本墳については近世以来の考証によって、皇極元年滑谷岡に埋葬され、翌2年に改葬された舒明天皇の忍坂内陵とされている。谷森善臣が文久年間に著した「山陵考」には、石室内に主軸を直交させた2基の石棺が置かれていたとあり、大型の横穴式石室の存在が想定される。修理記録や上記の考古学的検討からも本古墳が「延喜式」記載の舒明「押坂内陵」である可能性は高い。
鏡女王押坂墓
また「延喜式」には田村皇女の押坂墓「舒明天皇陵内無守戸」、大伴皇女の押坂内墓「押坂陵域内無守戸」、鏡女王の押坂墓「押坂陵域内東南無守戸」とある。忍坂段ノ塚古墳に隣接して、鏡王女忍坂墓と大伴皇女墓が所在するが、前者は直径約15mの円墳だが詳細不明、後者はそれよりやや大きい円墳と思わ
れるが詳細は不明である。
忍坂遺跡(桜井市忍坂)
 外鎌山の西麓は北西に流れる粟原川が形成した沖積地へ接する。忍坂遺跡は外鎌山から低く延びる舌状台地上と沖積地一帯に広がる。1986年に宅地造成にともなって発掘調査が実施され、弥生時代と古墳時代の遺構が初めて確認された。弥生時代では庄内式期の手焙形土器などが多量に出土した溝と、方形周溝墓の可能性がある溝の2条を検出したほか、同時期の土坑などの遺構も存在した。この調査で特に注目されるのは調査地東半部で確認された、5世紀後半から6世紀後半にかけて営まれた、古墳時代の建物や柵などの遺構である。建物の1棟は北に対してやや西に振れる東西5.3m、南北4.5mの3間四方の掘立柱建物で、掘方は一辺が1m前後と大きく、柱径も20cmと比較的太い材を使っている。建物西側にはこれに平行した南北方向の柵が検出され、東側に約150基も穿たれた柱穴を中心とした遺構群の西を区画する施設とみなせる。また、建物の柱穴によって一部を壊されていたが、区画のためと恵われる東西溝も存在し、先の建物と方向を異にしていることから、建物を含む改造や立て直しが行われたことも明らかである。
 6世紀後半に属する直径約5m、深さ約1mの土坑は、長さ1.5m、深さ20cmの溝が備わっていて、溝に近い土坑壁には大きい礫を置いた特殊な遺構である。同様の遺構が南方でも検出されているが、前者の土坑内からは須恵器や土師器などの遺物以外に、鉄滓や鞴羽口が出土していることが特筆できる。遺跡からは鉄鉾、銅鏃、滑石製や碧玉製勾玉、製塩土器、馬歯などが出土している。遡る1977年の道路側溝の工事中にも、弥生後期の土器や、古墳時代中・後期の土器が出土していて、なかには漢式系土器も含まれていた。
 忍坂遺跡は大和盆地南東部から東へ行く、初瀬谷と粟原谷を通る2つのルートの分岐する要衝な位置を占めている。遺跡は掘立柱建物を中心に構成され、鍛冶関係の遺構や遺物が出土するなど、忍坂にあったとされる王権の武器庫などとの関連を想像させるもので、古代文献にみる忍坂の地の重要性を示している遺跡と考えられる。
慈恩寺跡(桜井市慈恩寺字北山)
 三輪山から南側初瀬谷に向かう丘陵の末端で、慈恩寺集落の北側に所在したとされる奈良時代の寺院跡である。伽藍などの主要な遺構について全く手掛かりはないが、慈恩寺出土とされる複弁蓮華文軒丸瓦が東京国立博物館に所蔵されているほか、朝倉宮出土とされる扁向唐草文軒平瓦など奈良時代後期の屋瓦がある。
脇本遺跡(桜井市脇本)

 遺跡は脇本集落の南側に拡がる沖積地に立地し、西に流れる初瀬川に沿って東西の広範囲に及び、これまでに数次に及ぶ調査が実施されている。まず戦前の国道工事の際に、縄文時代や古墳時代の遺物が発見され初めて遺跡の存在が明らかになった。脇本にある朝倉小学校の敷地では、1981年の調査で5世紀から6世紀にかけての掘立柱建物や溝が確認された。1984年から磯城・磐余地域の諸宮の解明を目的とした発掘調査では、集落に近い灯明田地区において、柱径30cmの柱筋を揃えた5世紀後半の掘立柱建物2棟のほか、石敷き遺構や石組み排水溝などと、6世紀から7世紀後半の規模の大きい柱堀方をもつ掘立社建物を数棟検出している。
 2005年からは新たに国道拡幅工事にともなって発掘調査が実施され、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての竪穴住居が10数棟や掘立柱建物3棟のほか、古墳時代前期や飛鳥時代の柱穴群や多数の土坑や溝などが検出されている。なかでも弥生時代後期から古墳時代初頭の竪穴住居からは、銅鐸片、銅鏃、銅滓、土製鋳型外枠片、砥石、鉄鏃、鉄鉇、管玉、ガラス製小玉、勾玉などが出土した。銅鐸の破片と鋳造関係の遺物の出土は、弥生時代の終焉と新たな時代の胎動を象徴するもので、この遺跡の果たした役割も含めて貴重な材料を提供した。またその北東方で実施された別の発掘調査では、弥生後期の土器棺墓が確認され集落と墓地の関係が窺える成果が揃ってきつつある。
 一方で、古墳時代中期以降の遺構群については、これまで一部しか明らかにされていなかったが、今年実施された国道拡幅工事に先立つ調査で、新たに古墳時代後期から飛鳥時代にかけての遺構が発見された。6世紀後半の大型掘立柱建物は柱穴が一辺約1.8m、柱痕跡の直径が約40cmの南北棟であるが、7世紀初頭には直径最大58cmの柱を持つ建物に建て替えられていた。また7世紀中葉には大型建物の北側に、東西塀に区画された掘立柱建物が建築されたことも明らかになった。記紀に記載される泊瀬におかれた諸宮を含め、中央政権が関わった重要な施設がこの地に継続して営まれていたことを示している。

国道拡張工事で遺跡が明らかに。