長林寺跡→高山2,3,4号墳→中良塚古墳→丸山古墳→城山古墳→広瀬神社→島の山古墳→宝院古墳→寺の前古墳→高山古墳→瓢箪山古墳→アンノ山古墳→天王塚古墳→黒田大塚古墳→黒田駅(田原本駅)
近鉄池部駅 | |
![]() | 近鉄池部駅集合 参加者は175人 左 河合町庁舎は、近鉄田原本線の前身「大和鉄道」の元社長で、大和鉄道敷設工事も請け負った森本組創業者森本千吉氏旧宅。 |
河合町文化財展示室 | |
![]() | 例会前に河合町文化財展示室を見学 |
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安原先生の案内で、大和盆地中央部地域の古墳(大塚山古墳群と三宅古墳群)を中心に巡り、特に後半の三宅古墳群は小さい古墳が点在しているので、どこに古墳があるか、周りを探りながら歩く。 | |
長林寺 | |
![]() | 大塚山古墳群の南西には長林寺がある。聖徳太子が建立した46カ寺のひとつである「長琳寺」として、鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』に取り上げられており、地名から長倉寺、穴闇寺とも呼ばれている。発掘調査によって、西に金堂、東に塔を配する法起寺式の伽藍配置が明らかになりました。伽藍が整備されたのは白鳳時期ではあるが、法隆寺式の瓦が出土していることから、創建時期は飛鳥時代であると考えられる。 金堂の基壇は現在でも花崗岩の礎石が良く残っていて、五×四間、柱間八尺の建物と想定することができる。基壇化粧は瓦積みであるが、丸瓦を立てて並べ、その上に平瓦を横に積んでいる特殊な例である。その他にも講堂、回廊、中門の基壇も見つかっている。塔の基壇は、江戸時代に削られてしまっているが、心礎と考えられる花崗岩の石が現在の長林寺境内に移動されている。 写真上 塔礎石 写真下 金堂跡 |
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高山塚2,3,4号墳 | |
![]() | 中良塚古墳の西側には、現状で20mほどの3基の小古墳が点在しており、それぞれ高山塚2号墳・3号墳・4号墳と呼ばれている。発掘調査の結果、2号墳は直径約35mの円墳で周濠が巡っていたことが確認された。出土遺物は円筒・朝顔形埴輪のほか、人物埴輪の腕部分、動物埴輪の脚の一部や須恵器が見つかっている。3号墳は、2号墳の南側に隣接する直径約30mで幅約5mの周濠が確認されている。周濠からは円筒埴輪や蓋形埴輪のほか、滑石製勾玉や須恵器の樽形「はそう」が見つかっていて、特に須恵器は5世紀中頃後半(TK208並行期)の時期に当てはめることのできるもので、古墳築造時期を考える上でとても重要な遺物である。3号墳の西側に4号墳は位置しているが、詳しいことは解っていません。復元すれば直径約30m程度の円墳であることが考えられる。 大塚山古墳群は、これらの円墳群と中良塚古墳、そして川合大塚山古墳を中心としたまとまりで各々支群を形成していて、現状ではよく確認することはできませんが、中良塚古墳と川合大塚山古墳の間には小さな谷地形があり、それを境にして二つの支群に分けられる。 写真上 高山塚2号墳 写真中 高山塚3号墳 写真下 高山塚4号墳 |
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中良塚古墳 | |
![]() | 中良塚古墳(高山塚1号墳)は、川合大塚山古墳の北西に位置する全長約88mの前方後円墳である。川合大塚山古墳や城山古墳とは墳丘の向きが異なり、前方郡を北に向けている。墳丘は後円郡をはじめ、全体的に大きく削平されているが、二段構成であることが窺がえる。周濠は幅約14mで、墳丘西側でその痕跡を見ることができる。また、発掘調査の結果、外堤の存在が確認され、その内側には葺石があることが分かっている。遺物については、円筒埴輪のほか、家・盾・蓋などの形象埴輪や須恵器が見つかっている。しかし、埋葬施設からの遺物については知られていません。築造時期に関しては、中期後半と考えられる。 |
川合大塚山古墳 | |
![]() | 奈良盆地の中でも最も海抜が低く、多くの河川が合流して大和川となる地域に、大塚山古墳群と三宅古墳群が築かれている。 大塚山古墳群は、高田川左岸域に形成されていて、古墳時代中期から後期(5世紀後半から六世紀前半)までの短い期間に次々と古墳が築かれました。現状で前方後円墳3基、円墳4基、方墳1基の計8基で構成されていて、それらの古墳が一括で国史跡に指定されている。 その中で最初に築造されるのは、川合大塚山古墳で、前方部を南に向けた全長197mの前方後円墳である。墳丘の周囲には幅約40mの周濠の痕跡がはっきり残り、発掘調査で外濠の存在も明らかになっている。埋葬施設は後円郡上から板石と考えられる石材が見つかっていることから、竪穴式石室と思われるが、詳しいことは解っていません。墳丘には円筒埴輪や、家・盾・蓋などの形象埴輪が並べられ、斜面には葺石が葺かれていました。これらのことから、築造時期は中期後半と考えられる。 |
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九僧塚古墳 | |
![]() | 古墳の西隣には、一辺約30mの方墳である九僧塚古墳があり、川合大塚山古墳と一体で造られた副葬品埋葬用の墳丘と考えられている。 |
城山古墳 | |
![]() | また、北東側には全長107mで前方部を南に向けた前方後円墳の城山古墳がある。墳丘上は後世の開墾により現在では畑になっている。墳丘周囲も水田になっているが、幅約20mの周濠が確認できる。出土遺物は埴輪や須恵器の破片などがある。 また葺石も施されていました。埋葬施設については不明であるが、かつて石室が開口していたとの伝えもありる。築造時期は、後期初頭に位置付けられ、この古墳群の中でも最後に造られたと考えられる古墳である。 |
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丸山古墳 | |
![]() | 城山古墳の西方には直径約48mの大型円墳である丸山古墳が位置している。 |
広瀬神社 | |
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島の山古墳 | |
![]() | 大塚山古墳群から東へ向かい、曽我川と飛島川を越えたところに三宅古墳群が形成されている。 『記・紀』によると、三宅町一帯はかつて垂仁・景行天皇期に大和政権の直轄地として置かれた「倭屯倉」の想定地と考えられている。 屯倉は田畑や灌漑施設、倉などが設置され、大和政権が国を治める上での基礎となるものである。また、軍事的性格を持ち合わせることで、周辺豪族を支配したり、いざという時は大和政権を守る要地としての意味合いもあったのではないかといわれている。 三宅古墳群は、その立地から「倭屯倉」と非常に関わりの深い古墳群と考えられる。その理由として、同古墳群内で前方後円墳の割合が大きいことが挙げられる。前方後円墳は身分の高い者しか造ることのできなかったものと考えられ、規模は小さいであるが、これだけ密集していることから、この地は大和政権にとって重要な地であったことが窺がえる。また、多くの河川が合流している場所であることから、交通の要地であり、河川を上ってきた人々には大塚山古墳群を含めたこれら古墳群は壮大に感じられたのではないでしょうか。 三宅古墳群の最北端に位置しているのは、この古墳群で最大の規模を誇る島の山古墳である。全長200mで周囲に水をたたえた周濠が巡っており、前方部を南東に向けた前方後円墳である。現状では造り出しは見られませんが、発掘調査で両側に三角形の形状をした造り出しの存在が明らかになりました。 墳丘は後世の開墾による変形が大きいであるが、3段の築成が確認できる。 |
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比売久波神社 | |
![]() | 埋葬施設は、後円部の削平の際に竪穴式石室の天井石が持ち出され、古墳のすぐ西に位置している比売久波神社の境内に残っている。石材は竜出石である。後円部の埋葬施設は壊されていましたが、前方部頂部からは粘土槨が末盗掘の状態で発見されました。中からは緑色凝灰岩製の車輪石、鍬形石、石釧といった大量の石製腕飾類や滑石製の勾玉や刀子、碧玉製の合子などが出土している。築造時期は前期末と考えられ、同古墳群の中では最も古いと思われる。 |
寺ノ前古墳 | |
![]() | 宝院古墳の西側に隣接して、寺ノ前古墳が築かれている。前方部を南に向けた前方後円墳であるが、前方部は大きく破壊されてほとんど原形を留めていない。後円部も同様に東西側か大きく壊されている。周囲の水田の形状から、幅約17mほどの周濠が確認できる。埋葬施設は盗掘にあっていて、中から冑が見つかったという記録もある。過去に須恵質の円筒埴輪と家形埴輪が採取されていることから、築造時期は後期初頭と推定される。宝院古墳の東側には、2基の前方後円墳が存在していたという記録かあるが、現在ではその痕跡は全く見ることはできない。 |
宝院古墳 | |
![]() | 島の山古墳の南、現在は安養院が建っている場所に、かつて宝院古墳が存在していました。西側に前方部を向ける全長約50mの前方後円墳であったと考えられる。墳丘の周囲に池などで周濠の名残が残っていましたが、現在は埋められてわずかに痕跡が窺える程度である。出土遺物など知られておらず、築造時期も不明である。 |
花子塚古墳 | |
![]() | 安養院墓地の中の道を南に下ると花子塚、別名茄子塚古墳がある。周濠痕跡かと思われる水田の中に小高く墳丘が残っているが、改変が激しく墳形は定かではない。現状の墳丘は径約18m程度の規模である。この古墳から出土したという須恵器が伝わっており、6世紀代の築造と考えられる。 |
高山古墳 | |
![]() | 宝院古墳の南、東西に延びる町道1号線の南に接する場所に高山古墳がある。全長約50mで前方部を東に向けた前方後円墳である。周辺の地形から、幅約12mの周濠を持っていたと考えられる。墳丘はかなり削平されていて、すでに主体部は失われている。発掘調査はおこなわれていませんが、北側の道路工事の際に円筒埴輪が出土したと伝えられている。 |
瓢箪山古墳 | |
![]() | 瓢箪山古墳は高山古墳の西に位置している。全長約35mで前方部を南西に向けた前方後円墳とされているが、墳丘の全周を削平されているため、実際には少しずれがあると思われる。古墳の周辺地形から、周濠の痕跡が窺がえる。遺物は知られておらず、築造時期については解りません。 |
無名円墳 | |
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アンノ山古墳 | |
![]() | また、高山古墳の南東にもアンノ山古墳という、全長約40mの前方部を南東側に向けた前方後円墳がある。この古墳も高山古墳と同じく墳丘が大きく削平され、現在では畑となっている。周辺地形から周濠の痕跡を窺うことができ、幅約9mであったと推測される。 |
芝ぞえ古墳 | |
![]() | 飛鳥川堤防の東側に芝ぞえ古墳、天王塚古墳がある。芝ぞえ古墳は径約30mの円墳であるが、前方後円墳の可能性もある。墳丘は削平されて高さはあまり残っていないが、周囲には周濠が巡っていたようだ。 |
天王塚古墳 | |
![]() | 天王塚古墳は径約16mの円墳で、水田の中に墳丘が残っている。 |
黒田大塚古墳 | |
![]() | 近鉄黒田駅の西側に黒田大塚古墳が築かれている。全長約55mで、前方部を西に向けた前方後円墳である。墳丘斜面は急斜面となっていて、削平を受けていることが窺がえる。発掘調査の結果、幅8mの周濠が巡ることが確認され、本来の墳丘規模は70mで、くびれ部には造り出しが存在していたことが解りました。周濠からは円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形埴輪が出土し、北側と南側、後円部側では鳥形・蓋形の木製品が見つかっている。埋葬施設に関しては未調査である。出土した埴輪の特徴から、築造時期は後期初頭と考えられる。これら、三宅古墳群に属する古墳の多くは未調査であって、測量すらおこなわれていない古墳がたくさん含まれている。現在残っている古墳でも大きく壊されてしまっていることから、完全に消滅してしまった古墳も多いのではないかと思われる。「倭屯倉」との関わりが考えられる重要な古墳群と考えられるので、これからの調査に期待したいと思う。 |
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