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ベンショ塚古墳→山町早田銅鐸出土地→帯解黄金塚古墳→和爾森本遺跡→櫟本高塚公園(昼食)→東大寺山古墳 →長寺遺跡→石上銅鐸出土地→石上大塚古墳・ウワナリ塚古墳→櫟本駅

 「銅鐸出土地をめぐる」は、展示室で観ることの多い銅鐸を出土地から検討するシリーズです。今回は奈良盆地の東部、帯解から櫟本にかけて巡ります。この地域は、今回訪れる2箇所3口の銅鐸のほか、櫟本町高瀬川周辺からも1口、天理市竹之内町からも1口出土しています。盆地内では比較的多くの銅鐸が見つかっている地域です。銅鐸がどのような場所(見通しが良いか、悪いか。丘陵の最高所か、中腹か、など。)に埋納されていたのかを現地で確認します。人物やトリ、サカナ、トンボ、シカなどの絵から農耕祭祀に使用されたベル(鐘)と考えられています。銅鐸の内側に棒(舌)をつるし、それを振る、あるいは銅鐸そのものを持って振ることで音を鳴らしていたと思われます。
現在近畿地方を中心に約500口見つかっています。銅鐸は鈕の断面形によって4型式(菱環鈕式、外縁付鈕式、扁平鈕式、突線鈕式)に分類されます。
これは鳴らして使用する「聞く銅鐸」から、見て使用する「見る銅鐸」への変化を示しています。つまり、鈕は銅鐸を吊るす部分で、その機能が形骸化することに注目したものです。菱環鈕式は断面菱形の半環状の鈕で、高さが20cm前後の小型品が多く、外縁付鈕式は断面菱形の部分(菱環)の外側に扁平な装飾部分として外縁を加えた鈕をもち、40~50cm前後のものが多く、扁平鈕式は菱環の外側に外縁をもつだけでなく、内側にも扁平な装飾部分(内縁)を巡らしたもので、40~50cm前後の中型品が多くみられます。突線鈕式は扁平鈕の外周もしくは文様帯の界線として、普通の線を鋳出すよりずっと太く高い線(突線)で飾ったもので、高さ60cm以上で100cmを超えるものも多くなります。菱環鈕式は前期、外縁付鈕式は中期前半、扁平鈕式は中期後半、突線鈕式は中期後半~後期後半に位置づけられます。
 日本で初めて見つかった銅鐸は『扶桑略記』に記載された天智7年(668)に滋賀県大津市の崇福寺の建設現場から発見された宝鐸(銅鐸)です。
奈良県内では、『続日本紀』の和銅6年(713)7月6日に大倭国宇陀郡波坂郷の人が銅鐸を長岡野地で得た、という記録かあり、今から約て1300年前に初めて銅鐸が発見されたことがわかっています。これらの銅鐸の現物は残されていませんが、当時から人々の注目を集めていたことがわかります。
 こうした銅鐸ですが、現在、奈良県内からは破片を含めて28点(破片7点)発見・出土しています。この内、出上地のわかっているものは21点です。さらに発掘品に限定すると8点しかありません。内訳は大福遺跡から1口・2破片、纒向遺跡から1破片、唐古・鍵遺跡から1破片、脇本遺跡から3破片です。県内発見の銅鐸で、同じ鋳型で製作した同笵銅鐸は5組12口あります。内訳は、石製鋳型の同笵が4組(上牧銅鐸【静岡天満宮蔵」と島根県雲南市(旧・加茂町)加茂岩倉遺跡第17号銅鐸、山町早田銅鐸【奈良国立博物館蔵】と伝徳島市銅鐸、伝奈良県銅鐸【辰馬考古資料館蔵】と伝滋賀県銅鐸、伝奈良県銅鐸【個人蔵・当館展示」と兵庫県南あわじ市倭文銅鐸・大阪府八尾市恩智垣内山銅鐸・三重県津市神戸木ノ根銅鐸)、土製鋳型の同笵が一組(石上2号銅鐸【宮内庁書陵部蔵」と推定奈良県銅鐸【辰馬考古資料館蔵」)です。特に土製鋳型の同笵銅鐸は2組4口しか見つかっていない希少な例です。
 銅鐸は発掘によって出土することは稀で、そのほとんどが偶然の発見です。そのため発見現場での聞き込み調査などから、埋納状況の復元等がおこなわれています。初めて発掘調査によって埋納状況が明らかになったのは1985年におこなわれた大福遺跡の調査です。大福銅鐸は鰭を上下にし、横倒しにして埋納されていました。その後、調査例が増加し、いくつかの特殊な事例もありますが、その多くは鰭を上下に横倒しに埋納されていました。発掘で見つかる事例は平地の埋納事例が多いですが、多くは見通しの悪い、丘陵や山の中腹に埋納されていました。県内の銅鐸もその多くは偶然の発見によるものです。出土した地点がおよそわかっていますので、どのような場所に埋められていたのか見ていきます。
 今回は銅鐸出土地以外に周辺にある古墳も見学します。 
 
帯解駅
 






①ベンショ塚古墳
②山町早田銅鐸出土地
 
ベンショ塚古墳
 山町早田銅鐸の埋納されていた山村丘陵の西端に位置する古墳時代中期前半の前方後円墳です。墳丘は著しく改変を受けていますが、墳長72~77mで、盾形の周濠を含めると全長106mに復元できます。後円部に3基の主体部かあり、中央の第1主体部が築造時に、その南側の第2主体部が2番目に、最後に第3主体部が東側に築かれました。第1主体部は盗掘のため詳細不明ですが、第2,3主体部は粘土槨でそれぞれ副葬品をもっていました。後円部頂から円筒埴輪、形象埴輪(家、盾、蓋、鶏)、須恵器が出土しています。
 
山町早田銅鐸出土地

 奈良市山町早田の山村丘陵の北側斜面から出土しました。高さ42.5cmの外縁付鈕式の流水文銅鐸です。竹林開墾中に出土したため、詳細は不明ですが現地に残されていた圧痕から銅鐸は、表土から約60cm下で鈕を東北に向け、鰭を上下に横倒しの状態で発見されたことがわかりました。
 現在、竹やぶのため、出土地付近に近づくことは難しいですが、発見地は東西にのびる丘陵に挟まれた谷の奥深く入った地点に位置しています。現地から盆地方面の見通しは悪く、ほとんどみることができません。

写真上 出土地の手前で説明を聞く
写真中 出土地は竹林の中
写真下 奈良盆地方面の展望
 
帯解黄金塚古墳
 帯解黄金塚古墳は一辺約30mの古墳時代終末期の方墳です。現在、宮内庁により陵墓参考地に治定されています。墳丘は現状では2段築成ですが、削平を受けていることから3段築成の可能性もあります。また、墳丘の東・西・北側に外堤が築かれています。外堤を含めると東西120m、南北最大約65mとなります。また、石敷が古墳の外装施設として墳丘の周囲に2段に巡らされています。主体部は南に開口する磚積の横穴式石室で、全長13~16mと想定されています。板状の石材を積み上げたもので、床面をふくめ石室内部全休に漆喰が塗られていたとみられています。
 

銅鐸出土地周辺の弥生時代の遺跡

 山町早田銅鐸出土地点周辺では、広大寺池遺跡で弥生~古墳時代の土器が、横井北樋口遺跡で中期の集落遺跡が見つかっています。また、出土した丘陵の反対側(南側)には、森本窪之庄遺跡、和爾・森本遺跡、長寺遺跡などがあります。森本窪之庄遺跡、和爾森本遺跡では中期の墓が、長寺遺跡では中期と後期末の遺構が確認されています。この他、後期中葉の高地性集落である東大寺山遺跡が長寺遺跡の衰退する頃に出現します。
 高瀬川の南側、石上銅鐸出土地点周辺には別所裏山遺跡や遺物散布地で弥生土器が確認されているくらいで、弥生時代の遺跡はほとんど確認されていません。

写真上 
櫟本高塚公園
写真下 和爾森本遺跡
 
東大寺山古墳
 丘陵上に築かれた全長約140mの古墳時代前期後半~中期初頭の前方後円墳で、前方部を北に向けています。埴輪は墳丘裾と2段目に巡り、墳頂部から形象埴輪が出土しています。後円部頂には全面に篠が敷かれ、墳丘全体を葺石が覆っていました。主体部は後円部頂に主軸と平行する粘土槨があり、棺内から玉類、石製腕飾類、滑石製の坩等が、棺外から鉄剣、鉄刀、鉄鏃、槍、巴形銅器、革製の短甲と草摺等が出土しました。鉄刀は素環のもの7振と三葉環のもの5振かあり、三葉環鉄刀の一振の背に、後漢末の年号である「中平」184~189年)の年号が金象嵌されていました。
 
石上銅鐸出土地
 天理市石上町宇平尾960番地から明治16年と17年に発見され、前者を第1号、後者を第2号と呼んでいます。第1号銅鐸は地表から約50cm下に鈕を東南に向けて、鈕をやや低く横倒しの状態で、第2号銅鐸は第1号銅鐸の東北約15.2mの地点で地表から約70cm下に、鈕を東に向けて、鰭を左右にして水平に埋められていたとされます。
 2点とも突線鈕一式の流水文銅鐸で、第1号は高さ60.8cm、第2号は高さ58.3cmです。突線鈕式銅鐸は土製の鋳型製で、同笵銅鐸は現在2組4口しか確認されていません。この第2号銅鐸はその内の1組で、兵庫県西宮市にある(財)辰馬考古資料館に所蔵されている推定奈良県銅鐸(辰馬406号銅鐸)と同笵関係にあります。この二点を見比べると、鈕に鋳出された戦士や鋸歯文が彫り直されているなど細部に違いが見られます。この違いから石上2号銅鐸、辰馬406号銅鐸の順に作られたことがわかります。
 もう1組の土製の鋳型で製作された同笵銅鐸は加茂岩倉遺跡の第1・26号銅鐸です。
 
石上大塚古墳
 石上大塚古墳は全長107mの前方部を北に向けた古墳時代後期中~後半の前方後円墳です。周濠は後円部側では不明ですが、そのほかでほ確認できます。
前方部の東隅部に幅約2mの陸橋が、西側くびれ部に造り出しがつきます葺石は墳丘全体に葺かれていました。
埴輪は見つかっていません。主体部は南側に開口する片袖式の横穴式石室です。玄室部長6.3m、奥壁部幅2.8mで、花白岩の自然石を構積みしたもので、床面には拳大の礫石が敷かれています。副葬品は出土していませんが、凝灰岩製の石棺材の破片が見つかっています。
 
ウワナリ塚古墳
 ウワナリ塚古墳は石上大塚古墳の東に隣接し、墳丘の置き方や主軸そのものもほぼ平行する前方後円墳です。全長約てIハmで、周濠は現在のところ確認されていません。西側くびれ部に造り出しがあります。埴輪は前方部前面でみつかっています。主体部は南側に開口する両袖式の横穴式石室で、全長10.35m、玄室長6.85m、奥壁部幅2.9m、高さは現状で3.6mです。時期は未調査のため不明ですが、墳丘形態や埴輪の有無、石室構造なとがらウワナリ塚古墳が石上大塚古墳より先行して築かれたと考えられます