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三里古墳 →現・長屋王墓(梨本南2号墳)→現・吉備内親王墓→ツボリ山古墳→あすのす平群→西宮古墳→ 剣上塚古墳→石床神社旧社地→柿塚古墳→烏土塚古墳→宮山塚古墳→宮裏山古墳→竜田川駅

 平群谷には、北から竜田川がその中央を南流していて、その両岸の丘陵地帯に70基ほどの古墳が確認されている。
それらの分布状況をみると、比較的広い平坦地が広がる右岸に、甲胃をもつ剣上塚古墳、初期横穴式石室の大塚山古墳、そして、前方後円墳の烏土塚古墳、方墳のツボリ山古墳、西宮古墳などの主要古墳が集中する。後者の3基は、特に目立った所を選んで築いていることに注目できる。
それに関連して、平群谷の横穴式石室の変遷をみると、まず、玄室の上部をドーム状に積み上げる構造の石室が、最初の宮山塚古墳から三郷町勢野茶臼山古墳、柿塚古墳と続く。そして6世紀後半に、畿内型大型横穴式石室が採用される。それは、玄室の天井が平天井で、大和や河内の主な大型横穴式石室と共通の特徴をそなえた石室構造であり、烏土塚古墳、ツボリ山古墳、西宮古墳の3基がそれにあたる。つまり、烏土塚古墳の段階に畿内型大型横穴式石室を採用した背景に、その被葬者(平群氏)が中央政権の構成メンバlとしての地位を確立したことが想定でき、同時に、地元での勢力基盤も安定したものになったとみられる。左岸地域でも、梨本南2号墳が6世紀前半の前方後円墳と確認され、可能性のある三里古墳とともに、梨本地区周辺での今後の調査に注目できる。

 
近鉄生駒線 平群駅

近鉄生駒線平群駅に集まった会員は221名。
平群町教育委員会)村社仁史氏と千賀 久氏に平群の古墳を案内いただく。


 
三里古墳
竜田川左岸の三里・梨本地区に、三里古墳がある。
墳丘の周囲は大きく削られていて、その墳形は、円墳と前方後円墳の両方の可能性が考えられ、円墳では径24m、前方後円墳の場合は長さ約35mになる。
石室は、上部の石が抜き取られていたが、その床面はよくのこっていた。両袖式の石室で、玄室の幅は2.4m、長さ約4.9m、羨道の幅1.5m、長さ7.1mで、玄室の奥壁に床面の上40cmのところに低い石棚を造り出している。
石室内には組合式家形石棺(二上山の凝灰岩製)が中心の棺で、馬具や鉄刀・須恵器・土師器の多くはこの棺に伴う。羨道にも花山岩の組合式石棺があり、このほかに、玄室と羨道の各1か所と、石棚の上下の空間にも埋葬された可能性はある。
副葬品は、鐘形の鏡板と杏葉がセットの飾り馬具と、心葉形鏡板をともなうもう一つの馬具セット、150点ほどの須恵器と土師器、各種の玉や鉄刀などがある。須恵器や馬具の特徴から、六世紀中葉から後半に埋葬が続けられたことがわかる。
ところで、石棚をもつ横穴式石室は、和歌山市岩橋千塚古墳群をはじめとする紀伊地域を中心に、近畿の北部と瀬戸内から九州の一部にまで分布する。これらは、文献史料で想定される紀氏一族の分布に重複する地域が多く、石棚のある横穴式石室は紀氏とその同族が造った墓と考えられ、三里古墳も同様な性格づけができると、河上邦彦さんが報告書で指摘している。
これに対して辰巳和弘さんは、岩橋千塚などの石棚は高い位置にあり、石室の構造材としても機能していて、三里古墳の低い石棚はそれらとは同列に扱えないこと、さらに、平群谷に紀氏が居住したのは奈良時代以降として、否定的な見解を示している。

 
梨本南2号墳
三里古墳の西にある現・長屋王墓と現・吉備内親王墓は、ともに後期古墳である。「続日本紀』によれば、天平元年(729)、藤原氏の策謀で自殺させられた長屋王とその妃は、生馬山に葬られたとの記事がある。現・長屋王墓は、平群町教育委員会によるその周囲の調査で、周濠の痕跡などがみつかり、全長45mほどの西向きの前方後円墳の後円部と考えられるようになった。これは、梨本南2号墳(6世紀前半)と名付けられ、左岸地域で確実な前方後円墳の例になる。
そのすぐ西にも、径28mの円墳の同1号墳(6世紀中葉)が確認された。

 
吉備内親王墓
現・吉備内親王墓は、径20mの円墳で、野淵龍潜「大和国古墳墓取調書』 (明治26年)には、ウシヲ塚という名で、埴輪片が多く散布するとあり、絵図には横穴式石室のように描かれている。
平群町としては残念だが、本当の吉備内親王墓は生駒市にあるのではないかとの村社氏の意見。
 
ツボリ山古墳
ツボリ山古墳は、平群駅の西約800mの丘陵上にあり、周辺の宅地造成の際にここだけが保存された。一辺20mほどの方墳で、南に閉口する横穴式石室は、羨道の上半部の石材が抜き取られ、内部の石棺も破壊された状態にあった。
石室は、両袖式で、玄室の幅2.5m、長さ4.2m、高さ2.5m、前に幅1.4m、長さ4.7mの羨道がつづく。玄室の奥壁と壁の一段に大きな石をするが、二段の石はさい。そして、奥壁の二段を内 にさせて積むのは、明日香打上古墳の石室や岩屋山式石室に通した特徴といえる。その岩屋山式石室のなかでも新しい特徴をもつ西宮古墳に、7世紀中葉すぎの須恵器がともなっていて、平群谷の主要古墳のなかではその前段階にあたるツボリ山古墳は、7世紀前半までの時期が想定できる。玄室と羨道に、二つの朝抜式家形石棺(二上山の凝灰岩製)がある。蓋石の形状のわかる玄室棺は、御所市水泥南古墳の奥棺にやや近く、その羨道棺や桜井市帥墓古墳の石棺よりは先行することから、6世紀後半から7世紀前半までの年代幅が考えられる。
 
あすのす平群
里帰り展「平群製の瓦が朱雀門を飾る」を見学
 
竜田川
川筋に小魚を加えたカワセミ。
 
西宮古墳
竜田川右岸の廿日山丘陵の南側に築かれた西宮古墳は、整美な切石造りの横穴式石室が閉口していることで、よく知られた古墳である。古墳の整備の際に、墳丘の確認調査がおこなわれた。一辺約36mの三段築成の墳丘は、一段目が地山を削り出し、二・三段目は盛土で、斜面には花山岩の貼り石、平坦面には丸みのある石を敷き詰め、墳丘の北側と東西の丘陵を八の字形に掘削した大規模な造成が伴うことがわかった。石室は、南側の二段目に閉口している。玄室は、天井と奥壁・側壁ともに一石で組み、その長さ3.6m、幅・高さともに1.8mで、規格性の高い数値になっている。長さ9.1m、幅1.5mの羨道が続き、玄室との境に竜山石の石棺身が置かれている。その外面の上下に低い突帯がめぐるのは珍しく、橿原市菖蒲池古墳の石棺を簡略化したような形状である。
この調査にともなって、石室の前面で7世紀中葉すぎの須恵器が出土していて、古墳の時期を特定する手がかりにできる。

写真下 斜めの石が張り石の残り
 
剣上塚古墳
平群駅の南西一回ほどの丘陵上の住宅地に、径約23mの円墳の剣上塚古墳がある。横穴式石室ではない五世紀代の古墳として注目されていたが、平群町教育委員会の調査で、長さ約3.6m、幅1.0mの玄室に、その半分ほどの幅の横口部がつく石室であることがわかった。玄室の中央には、長さ3.2m、幅0.8~0.9mの刳り抜き式木棺の痕跡がみられた。

副葬品は、三角板鋲留短甲と頚甲(あかべよろい)・肩甲、初期の剣菱形杏葉、鉄剣・鉾・鉱など豊富なものであった。須恵器と円筒埴輪と馬具の特徴から、五世紀中葉1後半にさかのぼると考えられ、横穴式石室が採用される前段階の様相をこの石室にみることができる。また、甲胃と初期馬具が副葬されていることから、武人的な性格をもち渡来文化を積極的に受け入れた新興勢力による平群谷の開発が、この頃から開始されたと考えられる。

 
石床神社旧社地
 
柿塚古墳
剣上塚古墳の南600mの柿塚古墳は、径約20mの円墳で、横穴式石室がある。左片袖式の石室で、玄室の長さ5.3m、幅3.1m、高さ約4m、羨道は長さ3.3m、幅1.3m。
羨道の入り口は土砂が堆積して狭いが、玄室の天井は高く、四壁の上部は持ち送って積み上げられている。特に、高さ1mの低い玄門の横と上に小さな石を多く積む玄室前壁のようすは、宮山塚古墳の石室からの系譜を感じさせる。谷の入り口部に造られた、三郷町勢野茶臼山古墳の石室(6世紀前半)に後続する時期の特徴である。
なお、玄室の奥の天井石が一段高く積まれているが、その真下には横向きに据えられた組合式石棺があり、その位置に対応しているように見える。

写真上 足から下向きに入る
写真下 狭い羨道の入り口
 
烏土塚古墳
竜田川駅の西200mの丘陵上に、周囲の造成から島状にのこされた烏土塚古墳がある。
昭和43年に発掘調査され、墳丘長60.5m、後円部径35mの前方後円墳で、墳丘には円筒埴輪列がともなう。6世紀後半のこの古墳は、近畿で埴輪列を巡らす古墳としては最も新しい時期の例である。さらに、後円部の横穴式石室の入り口前庭部に、女性埴輪と家・較形などの形象埴輪と、連杯形の子持ち高杯などが置かれていて、墓前での埴輪祭紀が想定できる。
横穴式石室は、天井の高い玄室の奥壁と前壁を垂直に積むのが大きな特徴で、これは畿内型の大型横穴式石室の典型例に含まれる。玄室の高さ4.3m、幅2.8m、長さ6.0m、両袖式の羨道は幅1.9m、長さ8.2m。
玄室の中央には、組合式の家形石棺があり、羨道にも組合式石棺の底石がのこっていた。いずれも二上山の凝灰岩製である。石室内の出土品は、金銀装大刀と飾り馬具、四獣形鏡、鉄鉱と較、各種須恵器・土師器などで、六世紀後半の時期が想定できる。
 
宮山塚古墳
剣上塚古墳に続く時期の古墳には横穴式石室が採用されていて、その代表例が椿井宮山塚古墳である。竜田川の東岸、椿井集落の東の丘陵部にあり、隣接する春日神社の造成で削られているが、径20mほどの円墳である。この横穴式石室は、玄室が正方形に近く、四壁がドlム状に積まれた天井構造が特徴で、近畿の初期横穴式石室としてはやくから注目されている古墳である。
玄室の長さ4.2m、幅2.9m、高さ3.1m、手前の羨道は、長さ0.8m、幅1.0mで、狭く短い。玄室の石積みは、高さ1mほどまではほぼ垂直に積み、それより上は急に内側に持ち送る積み方で、天井石に特に大きな石材を積んでいるわけではない。
この石室の玄室の幅と長さの比率(幅/長さ×1OO)は69で、長さに比べて幅広であり、これに近いのは桜井市桜井公園2号墳の石室の67と、大阪市七ノ坪古墳の石室の71などがあげられる。なお、時期的に近い柏原市高井田山古墳の石室は62で、これらよりは幅の狭い平面形である。
宮山塚古墳の石室は、百済の都公州の宋山里古墳群の横穴式石室に形状が共通している。このように小さな石材をドーム状に積んで、石室の空間を構築する技術は独特のものであり、渡来人の石工集団の足跡をこの石室にみることができる。

 
宮裏山古墳
宮山塚古墳の南東に位置する宮裏山古墳は、径15mの円墳で、両袖式の横穴式石室がある。石室の全長8.8m、玄室の長さ4m、幅2.2m、高さ3.3m、羨道は長さ4.6m、幅1.3m。玄室の左右の壁の持ち送りはあまりなく、玄室の天井が高いのは烏土塚古墳の石室に通じる特徴で、同じ六世紀後半の時期が想定できる。
この石室は、玄室奥の天井石が一段高く積まれていて、これは柿塚古墳の石室とともに、竜田川左岸にある大谷古墳(径約15mの円墳、7世紀前半)の石室にも見られ、平群谷の横穴式石室の地域色といえるだろう。


写真下 上部開口部