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額安寺→額田部窯跡・鎌倉墓→筒井順慶五輪塔覆堂→筒井城跡→丹後庄環濠集落→杉環濠集落→本庄環濠集落→大井環濠集落→大和郡山城(柳大門跡→外堀→町屋地区→五軒屋敷→二の丸→本丸→天守台)

近鉄平端駅

今日は、山田先生の案内で午前中は石塔を、午後は大和の戦国大名筒井氏の城跡や環濠を巡る。

額田部丘陵

額田部丘陵を額安寺ヘむかう。(遺跡地図 シート11 斑鳩額田の遺跡 参照)
写真左
途中、西嶋古墳(30mの円墳)のそばを抜けると松山古墳(52mの円墳)が見える。
写真右
推古神社は、推古神社(全長41mの前方後円墳)古墳の上にたつ。
額安寺
額安寺は。寺伝では聖徳太子が創建した熊凝精舎に始まり、推古天皇の額の傷を祈祷によって平癒したことから額安寺の名前を賜ったとされているが古代豪族額田氏の氏寺とする見解もある。
写真上左
慶長11(1606)年建立の本堂には11面観音像がある。
写真上右
文応元(1260)年の年号が刻まれた宝篋院塔。
写真左
宝篋院塔が置かれていた境内南東にある明星池中島。
額安寺土塁
境内を囲む土塁に沿って北上。
鎌倉墓
額安寺五輪塔は、8基で構成され、内2基には永仁5年(1297)の年号がある。手前、一番大きな塔は忍性の墓。忍性は三宅町屏風に生まれた僧で、南都仏教戒律の再興に大きな役割を果たす。鎌倉極楽寺で乾元2年(1303)年に亡くなり極楽寺と生駒竹林寺(遺跡地図シート8 生駒谷の遺跡 参照)、額安寺に分骨された。解体修理時の発掘調査で銅製骨蔵器などが見つかった。
額田部瓦窯

鎌倉墓の西隣に額安寺再興時に瓦を焼いた瓦窯が残る。

筒井順慶墓
額田部丘陵の東端、平端駅北東に筒井順慶の墓と五輪塔覆堂(重文)がある。筒井氏は大神姓の社家の出身と推定されるが、春日若宮祭りに流鏑馬を奉納する国民(春日社領荘園内の荘官、有力名主を白衣神人として任じたもので、末社神主でもあった)の一つとして名が見え、興福寺一乗院の宗徒として登場する。筒井順慶の時代に大和を統一して大和の守護となる。天正12年(1584)に36才でなくなり、奈良円証寺に葬られた後、長安寺に移された。今は、覆堂が残るのみ。
筒井城跡
筒井城は、筒井氏の居城で、東西約500m、南北400mの奈良県最大級の城館跡。

写真上左
菅田神社付近は屋敷が置かれたと推定される内郭跡。
写真上右
神社東側に残る内堀環濠。
写真左
集落北側に残る外堀環濠。
丹後 庄環濠 杉環濠
丹後庄環濠と杉環濠の中間地点で説明を聞く。
写真左 遠景は丹後庄環濠
     国道を挟んで東側には城屋敷、城の内などの小字があり環濠居館があったと想定される。
写真右 杉環濠
本庄環濠
本庄環濠の外側に神社がある。
天井環濠
本庄環濠北側の神社から見た天井環濠の神社。
天井環濠は、筒井方の組したため、文明14年(1482)に越智方の属した郡山中殿に焼き討ちにあったという記録が残る。
郡山城柳御門
柳御門外にある旅籠。
門が閉まったあとは旅籠に泊まるしかなかった。
柳御門内側にある奉行所跡。
郡山城外濠
外堀は公園として整備されている。
柳1丁目にある創業400年の和菓子屋さん「菊屋」
郡山城鉄門
鉄門にて石材切り出しの話を聞く。

郡山城は、筒井順慶によって築かれるが、それ以前は郡山衆と呼ばれる土豪集団が居住。
郡山城西側あたりに、郡山中、郡山辰巳、郡山東、郡山戌亥、郡山南、郡山伊賀、野興、向井の8集団があった。
筒井順慶の養子定次が伊賀に転封された後、豊臣秀長が入城、その後柳沢氏により幕政時代を迎える。
梅林門
豊臣時代は梅林門が正面。
極楽橋跡
梅林門から毘沙門槨をとおり、極楽橋から本丸にいたる
本丸柳沢神社
本丸南半分には藩祖柳沢吉保を祀る柳沢神社がある。
本丸石垣
本丸石垣には様々な石材が転用されている。

写真左
平城京羅城門の礎石
写真下
石仏
本丸にて解散