桜井茶臼山→安倍文殊院(文殊院西古墳、東古墳)→安倍寺跡→谷首古墳→メスリ山古墳→兜塚古墳→上之宮遺跡→艸墓古墳
奈良盆地東南部には全長200mを超える大型前方後円填が6基存在し、うち西殿塚、行燈山、渋谷向山、箸墓の4基は初瀬川以北に、桜井茶臼山、メスリ山の2基は初瀬川以南に造営されている。これらの前方後円填はそれぞれの時期において突出した規模を有し、かつ箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に継続的な造営が想定しうることから、初期政権の累代王墓である蓋然性が高い。6基の大型前方後円墳を初瀬川以北の4基と以南の2基とに分け、それぞれ系列や性格を異にすると評価する向きもあるが、初瀬川の以北と以南に王墓の占地のダイナミズムを否定するほどの環境の差があるとは思えない。一連の古墳が分布する範囲かあるレベルでのひとつの地域、すなわち狭義の倭(ヤマト)の範囲(磯城(城上・城下)・十市郡と山辺・高市郡の一部)に収まることも見逃せない。 | |
桜井駅南口 | |
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JR近鉄桜井駅南口10時集合 岡林先生の初めての例会。 森田会長からアサヒビール「うまいを明日に」補助金対象に認定されたことを紹介。 | |
桜井茶臼山古墳 | |
![]() | 6基の古墓のうち、箸墓古墳、西殿塚古墳に次いで築造されたと考えられるのが桜井茶臼山古墳である。全長200m、後円部径mm、同高さ24m、前方部幅60mを測る。鳥見出から北にのびる尾根の先端を利用し、いわゆる丘尾切断によって築造された前方後円填の典型例とされてきたが、本年1~3月におこなわれた発掘調査で後円部墳頃まで風化した花崗岩盤を削り出して成形していることが判明した。おそらく独立丘に近い尾根先端の残丘をもっぱら削って全長200mもの墳丘をつくり出したもので、単純に丘尾切断といった概念では捉えられない特異な築造方法が注目される。後円部3段、前方部2段に築成され、後円部第2段テラスと前方部の頃部平坦面が一続きになる。墳丘斜面には葺石が葺かれ、2003年の発掘調査では東くびれ部の葺石が良好な状態で検出されている。埴輪は存在しない。 戦後間もなく大規模な盗掘を受けたことから、1949年10月と翌年8月に後部竪穴式石室およびその周辺の発掘調査が実施された。このときの調査では、後円部頂に方形壇があり、その裾に土師器壷を並べた状態が想定されたが、本年1~3月の調査で方形壇の裾には南北13.8m、東西11.3mの方形に丸太が立て並べられており(「丸太垣」)、壷は本来方形壇の上部に置かれていたことが判明した。竪穴式石室は花白岩岩盤に掘り込まれた南北約11m、東西約4.8m、深さ約2.9mの長方形の墓池内に構築されている。長さ6.75m、北端幅1.27m、南端幅1m、高さ平均1.6mの大規模なものである。四壁は板石小目積みて、垂直に積み上げ、大きな大井石12枚を架構する。床面には全面に板石が敷かれる。壁休、天井、床面のすべての石材が末で赤く塗られている。石室内には割竹形木棺が長さ5m弱にわたって遺存しており、以前の報告てはトガ材とされたが、本年の調査でコウヤマキであることが判明した。 徹底した盗掘にもかかわらず、60年前の調査では多量の副葬品が出土している。三角縁神獣鏡7~8面分、画文帯神獣鏡類3~4面分、大型銀製内行花文鏡3面分等を含む銅鏡片、玉杖4本分とその付属品と考えられる玉葉、壷形季節品、弓矢に関連する各神石製品、玉類、石製腕節類、鉄織、銅織、鉄刀剣類、鉄製工具類などがある。とくに玉杖は茶臼山占墳に後続する古墳と考えられるメスリ山占墳と共通する副葬品てあり、また弓筈・俯・鳴鏑などの弓矢に関連する石製品も、メスリ山古墳における鉄製弓矢や多数の石製織との関連性を想起させるものてある。 写真上 南西から後円部 写真中2枚 後円部に順番に上る。 写真下 まだ発掘作業が続いていた。 |
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![]() | 後円部の花崗岩岩盤露頭 |
文殊院西古墳 | |
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安倍文殊院の境内には、文殊院西古墳と文殊院東古墳の2基の横穴式石室墳が存在する。文殊院西古墳は、もっとも精美な切石積み横穴式石室として知られ、1924年に特別史跡に指定されている。墳形は不明であるが、径20m以上の円墳の可能性が高い。石室は、全長12.5m、玄室長5.1m、同幅2.87m、同高さ97‐m、羨道長7.4m、同幅1.9m、同高さ2.0mを測る両袖式である。玄室見かけ上横長長方形に加工した花岡岩切石を互目状に積む。切石は奥壁18個、両側壁器31個である。両側壁には横行の石材の中央に縦線を刻み、あたかも2石が横に並んでいるように見せる部分か3ケ所ある。玄室天井石は巨大な切石土石を架横し、天井面をやや掘りくぼめる。羨道は両側壁とも1段4石で構成し、前端部の両側壁上部および天井面には幅3m、深さ1.5mの溝が刻まれている。玄室・羨道とも石材の隙間に漆喰が残る部分かおる。また、間口部両側には外護列石が取り付くとみられる仕口かおる。花岡岩切石積みの石室である点、全体の平面プラン、玄室四壁に折り上げがみられる点、羨道天井が手前で一段高くなる点などから、岩屋山武石室との関連性が考えられるが、互目積の壁面は岩屋山武系の石室における壁面構成の単純化とは異なる指向性を示すものといえる。時期を知る手がかりが少ないが、7世紀中頃から第3四半期にかけて築造されたものと推定される。披葬者については、大化改新後に左大臣となり、大化五年(750)3月に薨じた安倍倉橋麻呂の墓に比定する意見かおる。 | |
文殊院東古墳 | |
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文殊院東古墳(6)も墳形は不明であるが、全長10.3m、玄室長4.8m、同幅2.2m、同高さ2.4m、羨道長5.5m以上、同幅1.8m、同高さ1.7mの両袖式横穴式石室が開口している。石材は一部加工されており、壁面構成から石舞台式の谷首古墳よりも新しく、岩星山式系の文殊院西占填、艸墓占墳よりは古く位置づけることができる。現在は内部に立ち入ることがてきない。 | |
安倍寺跡 | |
![]() | 水田中に土壇あり、仲麻呂屋敷と呼ばれていたが、1963年から木材工場団地の開発にともなって発掘調査がおこなわれ、史跡指定を受けて保存されている。中心伽藍は南面し、塔を西、金堂を東に、講堂を回廊外後方に配する法隆寺式である。ただし、塔と金堂の間隔が法隆寺の13mに対して38mと広いことから、第3の建物の存在を予想する意見もある。 『東大寺要録』によれば安倍寺(崇敬寺)は安倍倉橋大臣の建立とされ、中世以降は現在の安倍文殊院をその後身とする。三重弧文を巡らした単弁6弁蓮単文軒丸瓦、型挽き四重弘文軒平瓦 などかおり、創建時期は7世紀中葉と考えられている。講堂の西端で5基の平窯からなる鎌倉期の瓦窯群が検出されており、講堂の廃絶時期がそれ以前であることが知られるが、寺域内での鎌倉期の瓦生産はこの時期に伽藍の大がかりな修築がおこなわれたことを示す。 写真上 塔跡 写真中 金堂跡 写真左 瓦窯 |
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谷首古墳 | |
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![]() | 一辺約40m、高さ8mの方墳で、東側に空濠が残る。横穴式石室は全長13.8m、玄室長6m、同幅2.8m、同高さ4m、羨道長7.8m、同幅1.9m、同高さ1.7mを測り、石舞台古墳と並ぶ巨石石室である。玄室は奥壁2段、両側壁3段(下段3石、中段3石、上段2石)で構成され、部分的に加工がみられる。古く開口し、副葬品等は不明であるが、凝灰岩片の存在から家形石棺が安置されていたものとみられる。開口部南側の発掘調査では、多量の土師器皿や瓦器椀等が出土し、南北朝期に砦として利用されていたものと推定されている。 |
メスリ山古墳 | |
![]() | 桜井茶臼山古墳に後続するとみられる大型前方後円墳てある。もともとこの場所に存在した低丘陵を利用して造営されたものと考えられるが、前方部前面ては幅50mにわたって丘陵を切断している。全長224m、後円部径128m、前方部幅80m、後円部の高さ19m、前方部の高さ8mとされてきたが、1985年の北側斜面での発掘調査で現状の墳丘裾よりも15m北側で葺石列が検出されたことから、墳丘はさらに一回り大きく、全長は250mを超えると推定されている。葺石・埴輪を有し、後円部3段、前方部2段築成てある。1959~1963年の前後3次にわたる発掘調査で、墳頂部の方形埴輪列、主宰・副宰の2基の竪穴式石室が検出され、初期王権の王墓にふさわしい多種多量の副葬品が出土した。 方形埴輪列は内外二重に巡らされている。内側の埴輪列は東西6.7m、南北13.3mの長方形で、南北辺各12本、東辺23本、西辺22本の合計69木を立て並べる。主宰の中軸上に相当する箇所にはもっとも大きな埴輪を立てている。内側埴輪列の周囲に合計106本の埴輪を東西10.2m、南北15.2mの長方形にたてならべた外側埴輪列が巡る。さらに、内外の埴輪列の間には、大型円筒埴輪、高杯形埴輪など計24個が立てられている。 これらの方形埴輪列で囲まれた中央に、礫を積み上げた方形壇があり、その下部に大規模な竪穴式石室(主宰)が営まれていた。主室は盗掘によって大きく破壊されていたが、長さ8.06m、北端幅1.35m、中央幅1.18m、南端の高さ1.76mを測る、最大規模の竪穴式石室である。壁休は板石小目積みとし、大井石8枚で覆う。粘土棺床に残された痕跡から、長さ7.5m以上、幅80m内外の割竹形木棺が安置されていたことが知られる。断面調査によって、この棺床は石室下に設けられた高さ20㎝強の基台の上面を掘りくぼめて設えられたものであることが判明している。また、この石室の墓壙は壁面を石垣によって補強した「構築墓壙の典型例である。副葬品の多くはすでに持ち去られたものと考えられるが、王類、石製腕節類、椅子形・容器形・櫛形などの石製品類、銅鏡、鉄製刀剣類などが出土している。 主室の4.75m東に一回り小さな副室が設けられていた。長さ6m、幅72㎝のさいわいにも盗掘を免れ、おびただしい量の副葬品が出土した。まず、床面に有機質の盾を置き、その土に槍107本を鋒を南に向けて、105木を逆に向けて交互に積み上げる。槍を積み上げる際、石室北端に長さ50mほどの空間を残しており、そこに斧、ヤリガンナ、手鍋、ノミ、刀子、錐、鋸などの農工具類、玉枝4木などを納めていた。それらの土に、銅織を着装した矢236木、石製織を着装した矢50木、矢柄・矢羽根まですべて鉄製の矢5木、弓弦まで鉄製の鉄弓(銅製弣付属)1張、鉄刀1目を置く。矢は有機首の矢筒に盛られて整然と置かれており、すでに腐朽消滅してしまった有機首の弓も含め、10組以上の弓矢が納められていたと推定される。これらにより石室内はほぼ満杯となり、遺体を埋葬する余地はなかったと考えられている。 写真上 果樹園になっている前方部 写真中 後円部に登る 写真下 墳頂部埋葬施設 |
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兜塚古墳 | |
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![]() | 全長45m程度の西向きの前方後円墳で、後円部填頂に河原石積みの竪穴武石室があり、石棺が露出している。石室は長さ約3.7m、福1.4mで、床面には粘土を敷きつめる。 刳抜武家形石棺は長さ約2.1m、福lm、高さ1mを測る。阿蘇熔結凝灰岩製で、蓋は蒲鉾形に近く、左右に二個ずつ縄掛突起を有する。碧土製管玉・琥珀製渠土・銀製空土・ガラス製小玉・鉄鏃・金銀波鎗板・杏葉などの出土が知られている。5世紀末~6世紀初頭の築造と推定される。なお、兜塚古墳北東の八坂神社境内には半壊した初期横穴式石室墳(浅古八坂神社古墳)がある。 |
メスリ山古墳北方の阿部丘陵一帯には、桜井公園2号墳などの初期横穴式石室を含む後期群集墳とともに、コロコロ山古墳、谷首古墳、辨墓古墳、文殊院西古墳などの後・終末期古墳が集中する。また、6世紀後半~7世紀前半にかけての豪族居館として上之宮遺跡がある。阿部の地名や安倍寺跡の存在なとがら、これらは古代豪族阿倍氏との関連が考えられている。 | |
上之宮遺跡 | |
![]() | 寺川左岸の段丘上に立地する豪族居館である。東西50~60m、南北約100mの楯や溝に囲まれた方形区画の中に、長辺13.6m、短辺11.4mの四面庇付大型建物と、長辺19.4m、短辺4‐8mの長棟建物が規則的に配される。建物群の西側には横穴式石室を思わせる石組遺構と円形石溝とて構成される園池遺構かおる。園池遺構からは、モモやスモモの核が多量に出土し、花園が存在したと推定される。また、木簡のほか、べ。コウ・琴柱・祭祀川木製品、ガラス王鋳型、ナツメ・ゴヨウマツなど外来の食物が出土しており注目される。西アジア原産とされるナツメは日本最古の出土例である。阿部丘陵てはメスリ山占墳北西方の中山遺跡でも7世紀初頭の庇付大型建物が単独てみつかっている。 |
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艸墓古墳 | |
![]() | 阿部丘陵の東斜面に築造された一辺24m、高さ7mの方墳である。南に開口する横穴式石室は、全長13.3m、玄室長4.5m、同幅2.8m、同高さ2m、羨道長8.8m、同幅2.0m、同高さ1.5mの両袖式である。花山岩切石を用い、玄室は奥面で1段1石、側面で1段2石のシンプルな壁面構成で、岩屋山亜式石室の典型例である。玄室では石材間の隙間に充填された漆喰が残る。玄室中央に心出石製の刳複式家形石棺を安置している。蓋は平坦前幅が80㎝と広く、長辺各2、机辺各1の縄掛突起をつくり出す。蓋の長さ248cm、幅153cm、高さ62cm、身の長さ238cm、幅145cm、高さ99cmを測る。この石棺については、総高が羨道の高さを凌駕することから、石棺を安置してから石室を積み上げたのてはないか、との感覚的な議論が古くからある。7世紀第3四半期の築造と考えられる。 |
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