石光山古墳群→地光寺跡→笛吹神社・笛吹神社古墳群→山口千塚古墳群→寺口忍海古墳群→二塚古墳→寺口古屋敷古墳(通過)→神明神社古墳→屋敷山古墳→近鉄新庄駅
御所駅 | |
![]() | 秋晴れの御所駅 参加人員は191名。 今日は松田館長の案内で「葛城の群集墓と横穴式石室」と題して御所から新庄駅までの葛城山麓の遺跡を巡る。 |
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葛城の群集墓と横穴式石室 | |
地域の歴史的概観 表題は葛城という広い地域としているか、今回はなかでも古墳が集中して分布している、旧忍海郡とその周辺の主な群集墳を中心に見学する。忍海郡という郡制を示す名称としての初見は『続日本紀』大宝元年の記事に「大倭国忍海郡の人三田首五瀬を対馬島に遣わして・・」があり、平城宮から出土している「忍海郡」と記された和銅6年の木簡の史料もある。『古事記』清寧天皇3年には官名として「葛城忍海之高木角刺官」と見え、また『日本書紀』神功記には葛城襲津彦か葛城の忍海など四邑に住む漢人の祖先を連れ帰ったとする記事がある。このように忍海の地はもともと葛城に含まれていたが、先の『続日本紀』記事などから大宝律令施行以前に、葛城国が葛上郡と葛下郡に分割されるか、後にさらに分離成立したと考えることができる。 この地域は葛城川の支流である安位川や高田川の流域にあり、葛城山から東に延びる尾根や東麓を下刻して形成された谷や、沖積地との境に拡がる扇状地がつくる複雑な地形を呈している。 葛城市寺ロ遺跡では有茎尖頭器か出土していて、縄文時代の早い時期の足跡が知られる。また寺目忍海古墳群の調査にともなって、早期終末の羽状縄文を施文した繊維土器や中期終末から後期初頭の縄文土器が比較的纏まって出土しているほか、後期後半から終末や晩期終末の土器もみられる。先の寺口遺跡からも後期の遺物が出土している。葛城市脇田遺跡では縄文晩期終末に集落が営まれたことか推測されるか、破片ながら早期に遡る土器も含まれているほか、西に近接する押上池からは後期前半や橿原式文様をもった晩期前半の土器も採集されている。また南方の御所市小林遺跡でも後期の土器か出土している。 脇田遺跡からは弥生時代の中期から後期の遺物が出土していて、主な遺構には中期の方形周溝墓、土坑、溝などかあり、伊勢湾沿岸地域の特徴をもつ細顕壷も出土している。隣接する小林遺跡からも弥生中期の方形周溝墓かみつかっていて同一集落の可能性もある。忍海の地域からはやや南方になるが、御所市街地の南には弥生時代の拠点集落である鴨都波遺跡が所在する。これまでの度重なる発掘調査で葛城川の段丘上から20棟あまりの竪穴住居や高床式建物のほか、護岸水路、溝、土坑などか確認されている。 ここからは古墳時代前期の竪穴住居や溝などの遺構も発見されているか、特筆できるのは前期古墳の御所市鴨都波1号墳か発見されたことで、一辺20mの規模の方墳は墳丘を失ってはいたか中央に粘土槨を設け、据えられた木棺の内外からは4面の三角縁神獣鏡はじめ硬玉製勾玉、碧玉製管玉、ガラス玉などの装身具、鉄剣、鉄刀、漆塗靭、楯、短甲、鉄鏃などの武器・武具類などが出土した。この地域の古墳では粘土槨内から獣帯鏡や筒形銅器などが出土した西浦古墳、古くに巴形銅器か出土したとの報告かある金鋳山古墳のほか、寺ロ忍海古墳群に隣接する火野谷山1号墳も前期に遡る可能性かあるか、 当該期の古墳はきわめて希薄な地域である。中期に入り忍海地域では全長約90mの火振山古墳と、後述する全長約145mの屋敷山古墳の2基の大型前方後円墳が造営されるほか、碧玉製の童子や船形埴輪か出土した寺ロ和田1号墳なども知られている。後期には宮内庁が飯豊陵としている北花内大塚古墳は6世紀初頭前後に造営され、6世紀中葉から後半になるとこの地域の首長墓とみられるものには、横穴式石室を備えた前方後円墳である忍海地域の二塚古墳や当麻地域の平林古墳かあげられる。二塚古墳の南側に築かれた横穴式石室をもつ方墳団子山古墳は7世紀に入ってからの築造であろう。また屋敷山古墳の北側に位置している神明神社古墳は、切石を用いた横穴式石室を内包する終末期の古墳として知られる。 こういった後期の首長墓か造営された5世紀後半以降6世紀から7世紀にかけて、大和盆地の東縁南半から南縁および西縁南半一帯には、多数の小古墳からなるいわゆる群集墳か隆盛する。 なかでも忍海周辺には以前から知られている群集墳が集中していることに加えて、最近の発掘調査でその構造や特徴か捉えられてきている。 | |
石光山古墳群 | |
石光山古墳群は御所市市街地の西側に近接した東西長約300mの独立丘陵上に存在する古墳群で、4基の小型の前方後円墳を含むもののほとんどか10~15m程度の円墳からなる。住宅開発に伴って1972年と翌年におもに古墳群西側の52基の古墳を対象とした大規模な発掘調査が実施された結果、大和でも他に先駆けて造営か開始された群集墳のひとつであることかわかった。 5世紀後半に前方後円墳の築造を契機として造営が開始されるが、埋葬施設は6世紀中葉に至るまで一貫して木棺直葬を採用していて、築造の最盛期を過ぎた6世紀後半になって埋葬施設か横穴式石室に変換することか明らかになった。古墳の新たな築造は7世紀初頭まで継続する。隣接する古墳の墳丘か重なりあって造営される事例のほか、主たる埋葬施設以外に埴輪円筒棺、小型竪穴式石室、土器棺、箱式石棺など副次的な埋葬遺構も確認されている。 副葬品にもこの古墳群の特徴が現れていて耳飾りや玉類などの装身具や武器や武具類もあるが、これらの僅少さに比較して、鉄製農工具類を副葬する割合か高い傾向か指摘されている。 北側公園で説明を聞く(写真左)。古墳群西側は住宅地に変貌。(写真右) | |
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葛城山山麓へ登り道が続く(写真左)。振り返ると石光山を望む。(写真右) | |
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地光寺跡東遺跡 | |
![]() | 地光寺跡は忍海郡に所在する唯一の古代寺院跡である。1972年に塔の心礎が遺存する葛城市の脇田神社付近や、以前から瓦が出土していた西方地区の遺跡確認調査が実施された。地光寺東遺跡とされた神社付近では基壇などの遺構は確認できなかった。現存する塔心礎によって7世紀後半創建の東西両塔を備えた薬師寺式伽藍が想定されているが確定しているわけではない。屋瓦には新羅系の特徴をもった鬼面文軒丸瓦や三重孤文軒平瓦が使用されていて、朝鮮半島から渡来した系譜をもつ忍海氏の氏寺と考えられている。 脇田神社と塔の心礎 |
脇田遺跡 | |
![]() | 脇田遺跡は葛城市脇田集落の西側を、南北に通過する主要地方道御所・香芝線建設に伴って1982年に発掘調査が実施された。遺跡の核となる場所は時代によって異なるが、概ね脇田集落西方の丘陵地から扇状地への傾斜変換地域に展開し、地光寺東遺跡がある脇田神社付近や、西遺跡も包括する一帯に拡がる。遺跡は縄文時代に始まり、弥生、古墳、飛鳥、奈良時代にかけて断続的に営まれ、これまでにおもに弥生時代中期を中心とした方形周溝墓、土坑、溝、古墳時代前期から中期の竪穴住居跡などの遺構か検出されている。特に注目できるのは、6世紀後半以降の土坑や溝などの遺構のほか、堆積土中からも鉄滓、箱羽ロなど鍛冶関係の遺物や、製塩土器か多数見つかっていることで、かつての地光寺跡の発掘調査でも東西の両遺跡から鉄滓か出土していて、この一帯に鍛冶工房の存在か推定され、盛んに鉄器生産か行われていたことを示している。 脇田神社から西方向 脇田遺跡と地光寺西遺跡(正面右丘)を望む |
地光寺跡西遺跡 | |
![]() | 地光寺西遺跡からは塔の基壇とみられる8世紀前半の壇上積基壇の東辺と西辺を確認しており、四天王寺式伽藍を備えた寺院の存在か推定され、複弁五弁蓮単文軒丸瓦や葡萄唐草文軒平瓦などか出土している。両遺跡は極めて隣接して存在し、出土瓦の年代差以外にも東遺跡の伽藍は条里地割に規制されていない一方で、西遺跡の基壇の位置が条里坪中軸線に一致していることなどから、東遺跡の寺院か造営された後に、西遺跡の場所に移転されたと考えられている。 地光寺跡西遺跡から、脇田神社、地光寺東遺跡を望む |
笛吹神社 | |
![]() | 笛吹古墳群は葛城市笛吹集落の西に標高200m前後の二筋に分かれて東に延びる丘陵があるが、その丘陵の西の基部から二筋の丘陵上に分布する古墳群である。総数80基ほどからなり群中に全長約40mと30mの2基の前方後円墳を含むか、その他は直径かいずれも20m以下の規模の円墳からなる。1971年に尾根基部に分布している一群か破壊された際に、6世紀後半代の片袖式の横穴式石室か発掘調査され、鉄斧、鉄鋤、鉄鎌、刀子などの農工具のほか、轡や辻金具などの馬具や鉄鏃などの武器類か出土している。1987年にも6世紀代に築造された約20基あまりの古墳か発掘調査された。古墳の埋葬施設はすべて横穴式石室であるが、石室には片袖の比較的規模の大きなものと、無袖の小規模な石室とに別けられるが、古墳の数からすると小規模な無袖横穴式石室墳が圧倒する。このほかに円筒埴輪を用いた棺を直接埋葬した例もある。古墳から出土した副葬品には大刀、鉄鏃、玉類、土器のほかに、金銅製紋子や鍛冶に伴う鉄滓かあるほか、ミニチュアの炊飯具なども出土していて、渡来系氏族である忍海氏に関わった古墳群と見る考えかある。かつて兄川底古墳と呼ぱれた横穴式石室もこの群中の西端に位置した一古墳である。 この古墳群の北側丘陵の東端付近に所在している式内社笛吹神社(葛城座火雷神社)は笛吹連の祖を祀るか、その境内には6世紀初頭ないし前半頃の造営とみられる笛吹神社古墳が位置している。古墳は直径約25m、高さ約4mの円墳で、花崗岩の自然石で構築した全長約10‐6m、玄室長約6m、幅約2.4mの片袖式の横穴式石室内が南に開ロし、石室内には屋根部平坦面の狭い古い型式をとどめた刳抜式家形石棺が納められている。かつて金銅装の大刀などの遺物か出土したと伝える。 |
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笛吹神社古墳![]() | |
山口千塚古墳群 | |
![]() | 山口千塚古墳群は笛吹古墳群の西に葛城市山口の集落かあるが、さらにその奥まった西方の丘陵南側の谷を望む斜面地と周辺に営まれた古墳群である。現在直径か10~15m程度の小円墳50基あまりか確認できるか、実数はそれをかなり上まわると考えられる。これまでに発掘調査が行われたことがないため、詳細は不明な部分が多いが、最近の測量調査で数基の横穴式石室の内容が明らかになり、従前の分布調査なども考え合わせると、多くか横穴式石室をもつ古墳であるとみられる。石室には両袖式と片袖式の両者かあり、玄室平面形か正方形に近く、持ち送りか急で羨道が短い形態の石室もあるが、比較的大型の石材を用いたものもあり、古墳群の造営が6世紀の古い段階から始まった可にある支群では平坦地を造成した場所に石室規模の大きい優位な古墳か先行して築造され、その斜面や周辺に比較的小規模な石室をもつ従属的な古墳が築造されたことか想定されている。支 群中最大の規模を誇る4号墳は直径約24mの円墳で、石室全長約Hm、玄室長約6mを測り石室規模も大きい。なお、野淵龍潜の「大和国古墳墓取調書」によると、石槨状に描かれた石室があり、群中に横ロ式石槨を有する古墳か1基存在している可能性かある。 写真上 山道の両側に古墳が並ぶ 写真中 4号墳(円墳が3基並ぶ) 手前に開口部 写真下 高松氏宅に移築された石棺 |
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寺ロ忍海古墳群 | |
![]() | 寺ロ忍海古墳群は葛城市平岡集落の西の山麓にあって、直径10m~15m程度の規模をもつ200基に近い数の小円墳か主体で構成され、古墳は約1』四方の範囲に群集している。1984年に墓地造成に伴って60基ほどか発掘調査された結果、古墳は5世紀後半から終末頃に造営か始まり、6世紀を通じて造営され続け、7世紀中葉まで追葬されていることか明らかとなる。古墳はかなり密集して築造され、先行する古墳の墳丘に重なるように新たな古墳が造営されている例もある。辞中最も遡る5世紀後半から終末頃築造のE支群21号墳は、すでに横穴式石室を採用していたか、石室内には割竹形木棺を据えており追葬は行われていない。副葬品は須恵器などの土器以外に石製紡錘車、刀子、砥石などがある。引き続いて5世紀終末造営の横穴式石室をもつ D支群27号墳は、西側に方形の張り出し部をもつ直径約17mの円墳である。群中に埴輪を用いた古墳は少ないなか、頂上部に蓋形、盾形、靫形、家形埴輪などの器財埴輪か配置され、墳丘西側裾部には円筒埴輪のほかに馬形埴輪と馬子形人物埴輪、大刀をもつ人物埴輪、弓をもつ人物埴輪などか並べられたことがわかった。副葬品には須恵器のほか大刀、鉄鉾、鉄剣、鉄鏃などの武器類、鉄鎌、鉄愁、鉄斧などの工具類や馬具がある。本古墳群では5世紀終末から6世紀中葉過ぎまでの時期で、かつ規模や副葬品で優位な古墳に限って埴輪の使用が認められる。 この古墳群の埋葬施設はすべて横穴式石室で構成されていることと、古墳群中最も古いと考えられるE支群21号墳やD支群27号墳か既に横穴式石室を採用していることか特徴といえる。横穴式石室は片袖式か両袖式や無袖式の石室の数を上まわり、うち大半か右片袖式であって、大和のほかの横穴式石室墳と同様の傾向かある。石材についても時代か下るにつれてより大型のものを使用する傾向は変わらない。使用された棺には刳抜式と箱形の木棺と組合式の石棺がある。組合式の石棺は通有の二上山産の凝灰岩製の2例石棺を除いたほかの石棺には、現地で産する花崗岩か用いられる。副葬品の中では鉄鎚、鉄紺、鉄鎧、鉄鍬、鉄鋤、砥石などの鍛冶具や農工具が目立つほか、鍛冶作業に伴う鉄滓も出土している。また朝鮮半島に類例の多い楕円形鎮板付轡などの馬具類のほか、鉄刀、鉄剣、鉄矛などの武器類や、ミニチュアの農工具なども副葬されていて、鍛冶技術関連品や豊富な鉄製品の存在かこの古墳群を造営した集団の性格を表している。 写真左上 山道に墳丘が並ぶ 写真左上 2、3枚目 移築されたD30号墳 写真下 墓地の中に残るE2号墳 |
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火野谷山古墳群 | |
![]() | 火野谷山古墳群を眺めながら二塚古墳へ向かう。 火野谷山古墳群は寺口忍海古墳群の北東に位置する2基の前方後円墳を含む計12基からなる古墳群で、1973年に土取工事によって古墳の破壊が明らかになり、影響のある円墳4基か発掘調査された。1号墳とした前方後円墳は既に大半か破壊されていたか、4基の円墳のなかで最も規模の大きい2号墳の埋葬施設は木棺直葬で、握文鎮、鉄剣、刀子、鉄鎌、石製双孔円板、櫛などが出土していて、造営年代は5世紀前半頃とみられる。その他の古墳も木棺直葬ないしは土坑墓で、棺を複数備えているものや、小竪穴石室か付随するものなどかある。3号墳を除いて総ての古墳に埴輪かともなっている。これらの古墳も2号墳に引き続き、5世紀後半から6世紀初に築造されていて、周辺の群集墳に先んじて群を形成したことかわかる。なお上取中に合わせロの銅製骨蔵器(附属博物館に常設展示)か発見されている。骨蔵器は底に炭を敷いた幅深さとも約1mの土坑内に納められていたと推定される。 写真上 池の向こうが火野谷山古墳群 写真下 さらに山麓を登る |
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二塚古墳 | |
![]() | 二塚古墳は葛城市寺口集落の北西方に所在し、葛城山東麓の標高約200m前後の丘陵を切り離して築造している。全長60m、後円部直径36m、前方部の幅41m、高さは後円部前方部ともに約10mの規模を誇る。規模の大きい石室を覆うために腰高な填丘外観が特徴である。填丘には葺き石かあり、墳丘の周囲に約15m幅の周濠の跡か残る。1955年に発掘調査され後円部と前方部および西側造り出し部の3ケ所に、横穴式石室か南側に開口するように構築されている。後円部石室は全長16.4m、玄室長さ6.7m、幅3m、高さ4mの規模を誇る大型両袖式横穴式石室で、凝灰岩製の石棺か納められていた。前方部には全長約9mの片袖式石室、造り出し部には全長約8mの竪穴系の横穴式石室がある。造り出し部石室は盗掘をまぬかれていて多くの副葬品か出土している。鉄鏃や甲冑などの武器や武具類、および馬具、鋤先などの農工具、玉類、鉄挺などのほか多数の須恵器や土師器が出土している。築造時期か6世紀中葉であることか明らかになっている。 団子山古墳は一辺22m、高さ5mの方墳で、南側に開口する玄室は長さ4.5m、高さ2,3mあり長さ5.2mの羨道かつ両袖式の横穴式石室で、西側にも1基の横穴式石室を備えている。二塚古墳後円部石室ないし前方部石室に後続する段階の石室で、6世紀後半から終末の築造であろう。 写真上 後円部石室 写真中 造り出し部の石室 写真下 前方部石室 |
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寺ロ古屋敷古墳 | |
![]() | 寺ロ古屋敷古墳は寺ロ集落北方の尾根から派生した小支丘上に立地する。県道工事で崖面に露出した状態で放置されていた本古墳は、1979年に発掘調査が行われた。墳丘本体を含め石室の周囲が既に削られ、墳丘の原形はほとんど明らかにできない。石室を構築した墓坑は確認した範囲で幅約2.5m、深さ約2.2m。石室は小型の横穴式石室で奥壁I石、両側壁それぞれ1段で2石以上からなり、長さ約1.7m以上、幅約0.8m、高さ0.9mの規模で床には敷石か施される。本古墳は石材に漆喰を塗布しているか、石材間だけでなく壁面全体及び敷石にも塗っている点か特徴である。本墳の石室は神明神社古墳石室より縮小化かさらに進んだ段階と考えられ、漆喰の使用状況などもあわせてみると、神明神社古墳に後続する7世紀後半頃の築造であろう。 |
神明神社古墳 | |
![]() | 神明神社古墳は中戸新池南の北東方向に延びる丘陵の南側に位置している。墳丘は南側だけを二段に築いた直径20m前後の円墳で、花肖岩の切石を用いた南東に開口する横穴式石室かある。墳丘は版築によって築き、北側に浅い空堀か確認されている。石室は玄室と羨道か一体となった無袖形態で、全長6.14m、幅1.94m、高さ1.82mの規模で、奥壁1枚、両側壁と天井石ともに2枚で構成され、羨門前面に長さ約11m、幅約3mの墓道かつくられる。石室壁面は小叩きの後、水磨きして平滑に仕上げられ石材の隙間には漆喰が用いられるが、壁面最下部は粗いままで床面の位置を暗示する。奥壁から3m手前の石材継ぎ目に幅が約10mの刳り込み溝が刻まれていて、閉塞のための罪状の施設かあったことを推定させる終末期の石室である。当古墳の出土品には木棺の装飾とみられる銀製金物や水晶切子玉などがあるか、ほかに鉄製環金具があり、扉につけられた金具の可能性がある。石室は明日香村岩星山古墳を標識とする型式のなかでは西宮古墳などとともに新しい段階とみられることや、玄室相当部分の長さが3m、幅1.8m、高さ1.5mで、それぞれ唐尺の10尺、6尺、5尺にほぽ揃えていることなどから、築造年代を7世紀中葉から後半とする見方か強い。 |
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屋敷山古墳 | |
![]() | 屋敷山古墳は大屋集落の南に沿って西から東に延びる丘陵を利用して築かれている。古墳は中世にこの地域に勢力を広げた布施氏の居城とされたことや、近世に入部した桑山氏の陣屋となったため本来の墳丘かかなり改変されている。1974年の発掘調査の結果、墳丘の全長135m以上、後円部の直径78m、前方部幅90mの規模の前方後円墳であったことか明らかとなっている。 前方部の西側には一辺が25mの規模の張り出し部か備わっている。周囲からは明確な周濠痕跡は見いだされていない。埴輪は楯形、蓋形、家形などの形象埴輪と須恵質の円筒埴輪か出土している。埋葬施設は完全に破壊されていたが、赤色顔料の付着した片岩の割石や玉石のほか前後に突起を作りだした天井石が出土しており、割石で築かれた玉石敷きの竪穴式石室が想定でき、石室内に長持形石棺が納められていたと推定できる。石棺は現在蓋石と短剣石とかあり、蓋石は長さ215cm、幅102cm、高さ56cmの四注屋根形で左右に円筒状の二つの突起を造りだす。短側石は高さ93cm、幅88cmで上辺か蓋石と組み合うようにカーブする形態をなし、中央やや上部に小さい長方形の造り出しをもつ。棺の形態は久津川車塚古墳のものと類似しており、型式的に新しい段階の長持形石棺の特徴をもっている。なお天井石と石棺ともに竜出石が使われている。僅かにガラス玉と金銅装鉄製品破片が出土しているだけで副葬品に関する情報はほとんどない。 写真下 天井石 |
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