狐塚古墳→弁天社古墳→茅原大墓→箸墓古墳→ホケノ山古墳→巻野内石塚古墳→珠城山古墳群→東田大塚古墳→纏向矢塚古墳→纏向勝山古墳→纏向石塚古墳→JR巻向駅
JR三輪駅 | |
「奈良県桜井市に位置する纒向遺跡内には、暑墓古墳やホケノ山古墳に代表される出現期の古墳や、築造時期の分かっていない円墳などが集中していて、それらを総称して纒向古墳群と呼ばれている。纒向古墳群は分布から東田支群と箸中支群に分けることができる。」 今日は、安原先生の初めての例会。纏向古墳群のうち、普段は見過ごしてしまいそうな小古墳を中止に巡る。 狭い三輪駅は、230人もの会員でいっぱい。 | |
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纏向古墳群箸中支群 「箸中支群は、大字箸中から巻野内地区にかけて分布していて、ホケノ山古墳・箸墓古墳といった出現期の古墳や、平塚古墳・慶運寺裏古墳などの古墳時代後期に属する古墳があり、この支群には古墳時代前期のものと後期のものが混在している。そのほか、約25基の時期不詳の古墳が点在。」 | |
狐塚古墳 | |
![]() | 「墳丘は大きく削平されていて、石室石材が露出。周辺の地形から一辺40m以上の方墳と考えられる。」 JR線路脇の果樹園に古墳がある。狭い畦道をたどる。 |
![]() | 「玄室内には、石室主軸に直交して三つの石棺が置かれていた。一番奥に組合式の家石棺があり、その手前にも組合成の石棺が並ぶ。これらの石棺はいずれも盗掘されていたため、副葬品は須恵器と鉄刀が残っていた程度。」 |
![]() | 「石室は南に開口する画仙式の横穴式石室で、全長約17.3m、玄室長約6m、幅約2.6m、高さ約3.2m、羨道長約11.3m、幅約2mと奈良県内でも屈指の大きさ。」 |
弁天社古墳 | |
「富士・厳島神社の境内に位置する。墳丘の多くはすでに削られてしまっていて、墳丘の形は分からないが、両袖式石室が残っている。玄室幅約1.7m、長さ約2.3mで、幅1.4mの羨道が付く。その羨道には、追葬による刳抜式の家形石棺が置かれており、玄室内にも石棺の一部が残存していたと伝えられている。」 | |
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茅原大墓古墳 | |
![]() | 「全長約85m、後円部径約70m、前方部長約15mの帆立貝式の前方後円墳。1982年に国史跡に指定。後円部西側でおこなわれた発掘調査で、周濠や葺石の存在が確認され、円筒埴輪や朝顔形埴輪、家形埴輪などが出土。これら出土遺物から、築造時期は古墳時代中期と考えられる。」 右側が前方部。 |
箸中の小古墳群 | |
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![]() | 写真上左 狐塚古墳 径5~6m円墳 写真上右 手前 田圃中に藤が森古墳(消滅?) 右奥 ツクロ塚古墳 径10m円墳 左奥 ツヅロ塚古墳 径30m円墳 写真左 石神塚古墳 径10m円墳 |
箸墓古墳 | |
![]() | 「倭迹迹日百襲姫命大市墓として宮内庁により陵墓指定されている、全長約280m、後円部径155m、前方部長125m、前方部前面の幅147mで、後円部5段、前方部4段の段築で構成される前方後円墳。前方部北裾部の調査により、墳丘の基壇とそれに伴う葺石や、幅約10mの周濠が確認された。また、後円部東南裾部の調査では、葺石を施した渡り堤と外堤が検出されている。これらの調査で出土した土器は、いずれも布留0式期に相当するものであるので、築造時期は3世紀後半と考えられる。そのほか後円部墳頂付近からは宮山型特殊器台・特殊壷・特殊器台形埴輪、前方部墳頂付近では二重口縁壷などが採集されている。」 |
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ホケノ山古墳 | |
![]() | 「全長約80m、後円邦径約55m、前方部長25mの「纒向型前方後円墳で、纒向遺跡内の同古墳の中では唯一葺石を持つ古墳。墳丘の周りには幅10.5m~17mの不整形の周濠が確認されているが、全周するかは分かっていない。主体部は、「石囲い木槨」と呼ばれる木材で作られた槨の周囲に、川原石を積み上げて囲いを造るという二重構造の埋葬施設で、中には舟形木棺が置かれていた。副葬品には、画文帯神獣鏡・内行花文鏡などの銅鏡、銅鏃、鉄鏃、刀剣、工具類などがあり、石囲いの土には土師器が置かれていた。 また、その他の埋葬施設も見つかっていて、前方部東斜面では、古墳の完成後に葺石をはずして掘り込み、組合式木棺を置いていて、大型複合口縁壷と広口壷が供猷されていた。後円部からは古墳時代後期の両袖武の横穴式石室を横出し、中には組合武家形石棺が置かれていた。石棺内は盗掘を受けていて副葬品は見つかりらないが、石室内からは土師器・須恵器などが見つかっている。 埋葬施設の構造や遺物から、築造時期は3世紀中頃と考えられる。」 |
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堂ノ後古墳 | |
![]() | 「ホケノ山古墳のすぐ西へ近接している古墳で、径約35mの後期の円墳と考えられている。しかし、天理大学歴史研究会の測量調査およびレーダー探査により、全長60m以上の前方後円墳に復元できる可能性が指摘された。そして、堂ノ後古墳の周濠を切ってホケノ山古墳の周濠が造られていることが指摘され、ホケノ山古墳よりも築造時期が古い可能性が出てきた。」 写真 左の森は宮ノ前古墳 奥は箸墓古墳 |
周辺の小古墳群 | |
![]() | 写真右 北口塚古墳 左 茶の木塚古墳 中央奥 巻野内石塚古墳 |
宮ノ前古墳 | |
![]() | 宮ノ前古墳の石材? |
平塚古墳 | |
![]() | 「箸中支群の東端に位置する古墳で、径約35mの円墳と考えられているが、正確な墳形ははっきりしていない。古墳南側の隣接地で発掘調査がおこなわれていて、墳丘施設に関する遺構は確認されていないが、古墳に伴うと考えられる円筒埴輪と朝顔形埴輪が数十点出土。その特徴からいずれの埴輪も古墳時代後期に属するものと考えられ、築造時期もそこに位置付けられる。」 写真 ビニールハウス奥 |
慶運寺裏古墳 | |
![]() | 「慶運寺の境内には弥勒菩薩を刻んだ刳抜式石棺の身が存在しているが、この石棺がどの古墳から運び出されたものかは分かっていない。」 |
「ホケノ山古墳の東に位置する慶運寺の裏側に位置していて、径約13mの円墳と考えられている。南側へ横穴式石室が開口しているため、築造時期は古墳時代後期に属していると判断されますが、未調査のため詳細についてははっきりしていない。」 | |
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巻野内の小古墳群 | |
![]() | 小川塚西古墳 「径約35mの後期の円墳と考えられている古墳。石垣として拳大の大きさの石材が使用されていることから、葺石が存在していた可能性が考えられる。未発掘のため詳細は不明ですが、天理大学歴史研究会の測量調査およびーダー探査により、一辺約41mの方墳に復元され、幅約9~14mの周濠を待っていると推定。」 写真左はサシコマ塚古墳 墳丘は石が詰まっており、古墳ではなく周辺の石を積み上げただけの可能性がある。 |
![]() | 小川塚東古墳 「径約25mの後期の円墳と考えられている古墳。天理大学歴史研究会の測量調査およびーダー探査により石室と思しきものを検出。」 |
巻野内石塚古墳 | |
「箸中支群の最北端に位置する古墳で、径約40mの後期の円墳とする考えが一般的だったが、墳丘北側の果樹畑部分が北側へ不自然な張り出しを持つことから、前方後円墳になる可能性が指摘されていた。2002年の桜井市教育委員会による測量調査で、前方部が北側に取り付く全長約60mの前方後円墳であることが判明。 そして、墳丘の築造企画がホケノ山古墳と同じ「纒向型前方後円墳」の企画と合致していて、墳丘上には本来葺石であったと考えられる石材が石垣として使用されている。纒向型前方後円頂のなかで、葺石を持っているのはホケノ山古墳であり、両古墳の距離も近いことから、巻野内石塚古墳の築造時期はホケノ山古墳と相前後する可能性が考えられる。」 写真右 果樹畑部分の北側への不自然な張り出し | |
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珠城山古墳群1号墳 | |
![]() | 「穴師山から西へ派生する珠城山丘陵上に位置していて、東から1,2,3号墳という順番で築かれた。」 2号墳後円部から1号墳後円部(石室開口部)を望む。 |
「東端に位置する1号墳は、全長約50mの前方後円墳で、南に開口する片袖式の横穴式石室が造られている。 石室は、玄室幅1.65m、長さ3.4m、羨道幅1m、長さ1.3mの規模。 玄室内には、凝灰岩製の組合式の箱式石棺が置かれていた。そして、環頭大刀や桂甲などの武具類、馬具、金銅製勾玉などの各種玉顔、多くの須恵器・土師器などが副葬されていた。」 | |
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珠城山古墳群2号墳 | |
![]() | 「一号墳の西隣には、全長約75mの前方後円墳である2号墳が存在しています。主体部は検出には至っていない。2号墳3号填の前方部を確定させるためにおこなわれた調査では、円筒埴輪は前方部の束側のみにめぐり、2号墳が3号墳より先行して築造されたことが分った」。 写真 2号墳後円部から前方部を望む |
珠城山古墳群3号墳 | |
![]() | 「3号墳は大規模な削平を受けて、現在では宅地となっている。」 写真 西側から3号墳跡を望む。奥が2号墳。 |
纏向遺跡 | |
「纒向遺跡は、桜井市北西部に所在する三輪山の麓から西へなだらかに広がる標高約60~90mの扇状地上に位置している。現在確認されている遺跡の範囲は東西約2㎞、南北約1.5㎞で、太田・辻地区を中心とした場所からは、掘立柱建物群や纒向大浦と呼ばれる矢板と列ねて護岸工事を施した二本の溝、土器や木製品などが納められた祭祀上坑などが見つかっている。 また、尾崎花地区からは、V字形の浦に囲まれた、建物の敷地と思われる大規模な区画が見つかっていて、その東側に位置する家ツラ地区では、水の祭祀の場と考えられる導水施設が検出されている。 この遺跡は、広大な面積を有していて、周囲には一連と考えられる出現期のものを含めた多くの古墳が集中して築かれている。また、出土する土器は、九州から関東に至る広範囲なもので、交流の中心地であったことが窺える。さらに、区画された建物群や、整備された溝等の存在から、纒向遺跡は当時の中心的な場所であったことが想像できる。」 | |
纏向遺跡東端 垂任天皇珠城宮跡石碑から珠城山古墳群を望む | 珠城山古墳群から景行天皇陵を望む。 手前が家ツラ地区 |
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東田(ひがいだ)大塚古墳 | |
纒向古墳群東田支群 「東田支群は、纒向遺跡の西端に位置する太田激高地上に形成されていて、纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、東田大塚古墳の4古墳がそれに属している。 東田大塚古墳は後円部径約68m、推定前方部長約50mで、全長約120mの前方部が長い前方後円墳。墳丘周辺の調査により、幅約21m、深さ約1.3mの周濠が確認され、布留0式新相期の土器が出土。また、墳丘盛上下における調査で見つかった井戸の中から、布留0式古相期の土器がまとまって出土していて、古墳築造時期が判明。」 | |
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纒向矢塚古墳 | |
![]() | 「全長約96m、後円部径約64mあり、前方部は現在ほとんど見えなくなっているが、調査により墳丘の南西部に長さ32mの前方部があったことが確認されている。また、幅17~23m、深さ約60mの周濠も確認されていて、庄内3式期の土器群がまとまって出土。」 |
纒向勝山古墳 | |
「全長約115m、後円部径約70m、前方部長約45mで前方部がやや細長く、柄鏡のような形をしていて、東田支群のなかでは最も規模が大きい古墳。墳丘周辺の調査により、幅約20m、深さ約1mの比較的浅い周濠が確認され、そこからは土器をはじめ、団扇や舟形などの祭祀関係の木製品も出土。」 写真左 後円部(池中の赤い塊は金魚) 右 畑となった細い前方部 | |
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纒向石塚古墳 | |
「全長約96m、後円部径64m、前方部長32mの典型的な「纒向型前方後円墳。周濠の幅は、後円部の周囲では18~24mあるが、前方部の前面では約5mと狭くなっている。また、周濠へと水を引き込む導水溝の存在も確認されている。第二次大戦中に高射砲陣地の設営に伴い、墳丘の上部が埋葬施設とともに大きく削平されてしまっていて、現状では、高さ約4mの後円部の墳丘だけが残っている。墳丘は基底部からすべて盛り土で築かれていて、その盛り土内に含まれる土器片や周濠内から出土した土器などから、古墳の築造時期は庄内1式期~3式期と想定されている。 そのほかの出土遺物として、周濠内からは木製の鍬、鋤や建築部材、鶏形木製品や弘文円板などの特殊な木製品も出土。」 | |
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JR纏向駅 | |
![]() | 午後から雨が強く降るとの天気予報たっだが天気の崩れが遅れ無事纒向駅で解散。15時30分。 |