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JR帯解駅→五徳池→穂積寺跡→東市跡→姫寺廃寺→大安寺→野神古墳→墓山古墳→杉山古墳・瓦窯→奈良市埋蔵文化財調査センター→田村第周辺→宮跡庭園→近鉄新大宮駅

帯解駅
参加者は145名
奈良市埋蔵文化財調査センターのご好意で、「平城京坊城復元図(大版)」、「並び立つ大塔(大安寺)」を配布。
 

「平城京は朱雀大路を中心に西を右京、東を左京としてそれぞれ南北九条、東西四坊の条坊地割を敷いています。
そして左京には、二条から五条にかけてのみ東へ三坊分張り出した外京と称される部分があり、平城京の特徴となっています。」

今回は大西先生の案内で、この左京と外京、及びその周辺の主要な遺跡を南から北上するようにたどる。


 
五徳池

平城京左京の東南隅には、現在五徳池と称する南北250mほどの大きな池があります。この池は本来もう少し大きく、『日本霊異記』などに記される「越田池」と考えられています。そして唐長安城にある「曲注油」と位置的に共通することから、平城京が長安城をモデルとしたという説の根拠の一つになっています。この池から北に延びる東四坊大路は左京の京極であり、北方の外京部分での検出例では側溝心心間距離45大尺(約16m)の規模とされている。それより南での両側溝の検出例は無く、規模や羅城といった施設の有無は明らかではありません。また、池より西に延びる九条大路では、北から南側溝、築地塀(羅城)、外側の東西溝が調査の結果から明らかになっています。しかし最近、西方の下三橋遺跡で十条の条坊に相当する道路が確認された。これは、京南辺条条里の状況から当然四坊にまで広がる可能性が考えられるが、調査はされていません。」

 
五徳池南堤で説明を聞く。
池の北側が九条大路
ゴルフ練習所東側を東四坊大路が北に延びる。

 
穂積寺跡
「左京の南半には小規模な寺院が幾つか知られています。穂積寺、服寺は、ともに『日本霊異記』に記され『西大寺田園目録』からそれぞれの場所が推定されています。調査はされていませんが、特に穂積寺は土檀と礎石、瓦の散布から奈良時代の寺院と考えられます。」

写真上 穂積寺跡の土壇
写真下 礎石

 
東市跡
「平城京には東西に市が置かれました。その場所は東市は左京八条三坊、西市は右京八条二坊で、ともに五・六・十一・十二坪の四町を占めたと考えられています。
そして東市に関しては、現在の奈良市杏町宇辰市周辺にあたり、奈良市埋蔵文化財調査センターなどによって現在まで32次にわたる調査が行われています。その結果、4つの坪内には計画通り道路が施工され、それぞれの坪に築地塀がめぐること、十一坪北辺西半や六坪東道中央付近、南近東半に門が開くこと、特に全面的に調査された六坪では、北西隅に楼閣と思われる総柱建物が配されること、東半の北部は東西棟建物と総柱建物が配され、中央付近は広い空閑地(広場)となっていること、東隣の十一坪では、中央に幅十mの運河(東堀河)が南北に流れ、八条条闇路には橋が架けられていることなどが明らかになっています。
 東・西市は左・右京職の中の東・西市司が管轄しており、市には「肆」、「塵」(いちくら)という専門店が並んでいました。実際には、以上のような施設が市の中に配置されていたようです。さらに周辺には諸国から運ばれた調を一時的に管理する「調邸」と呼ばれる施設もあったようです。文献には相模国の調邸が東市の西にあったことが知られ、最近では東市からは、かなり離れますが播磨国の調邸がその出土瓦などから左京五条四坊に推定されています。また、東西市に近い左京八条二坊四坪と右京八条一坊十一・十三・十四坪に限定して特殊な蓮華文鬼瓦が出土しています。共通した施設に使われたことも考えられましょう。また市の周辺では鋳造や漆工に関わる工房が見つかっていることも共通点です。」
写真上 東市南端の街区公園
写真下 東市の中心を東三坊坊間路に沿って北上
 
姫寺廃寺
姫寺廃寺は文献には全く記されていませんが、発掘調査によって南北16m、東西29.5mの建物基壇と考えられる周囲の溝や西辺の玉石列が、その北側では掘立柱建物が確認され、現在天神社(菅原神社)のある部分が土檀状を呈することから、南から金堂、講堂、僧房を配置する寺院跡と考えられるようになりました。
また、この寺は左京八条三坊十五坪の一町を占めます。出土する瓦は奈良時代のものの他に、飛鳥寺・海龍王寺と、横井廃寺と同笵の7世紀前半の素弁軒丸瓦です。また、7世紀後半の複弁軒丸瓦や四重弧文軒平瓦もあることから、創建は飛鳥時代にさかのぼり、継続していたことがわかります。東方に飛鳥時代創建の横井廃寺などもあることから、古い寺院がそのまま平城京にとりこまれた可能性と全く別の場所から移転してきた可能性が考えられています。」
 
大安寺(だいあんじ)
「平城京左京のほぼ中央に位置する大安寺は、百済大寺から高市大寺、藤原京の大宮大寺と法灯を受け継いだ当時、国家筆頭の大寺院です。また、平城京の寺院の中では他に先駆けて移転していることからも最も重要であったことが知れます。伽藍は南側の左京七条四坊一・二・七・八坪の四町分の中央に東西両塔を配し、六条大路をはさんだ北側の六条四坊二・三・四・五・六・七坪の六町に南大門、中門、金堂、講堂、食堂、僧房などを配置していたとされます。広大な寺域に対して、調査が及んだ範囲は一部ですが、南大門の規模が平城宮朱雀門と同規模であることや、最近全面調査された西塔の基壇の一辺が二Im、塔の初層は一道十二mであること、東西塔は同規模であることから記録どおりに七重塔が二基並んでいたことなどその巨大な姿が少しづつ明らかになってきています。さらに西塔は心礎以外は抜き取られたことや、基壇を版築で築いていること、鎮檀具は認められないことなども明らかになりました。」

写真上 南から東西塔跡を望む
写真下 東塔跡(遠方に若草山)
 






   西塔跡と西塔心礎
 

大安寺南大門

大安寺 現在の本堂

 

大安寺河野管主からご説明


杉山古墳の周濠部にある大安寺僧坊跡

 
「墓山古墳の東方に野神古墳があります。墳丘は大きく削平されていますが、前方後円墳の可能性も考えられています。埋葬施設は刳抜式の家形石棺を納めた竪穴式石槨で、官山古墳と同様に天井石にも縄掛突起を持ちます。また、石棺の石材は九州の阿蘇石で大和では天理市の東乗鞍古墳や桜井市の兜塚古墳などで知られています。明治時代に発掘され、石棺内より鏡二、大刀三、玉、馬具などが出土しました。馬具については当博物館に保管されています。古墳の時期は中期末から後期初頭と考えられています。杉山古墳、墓山古墳、野神古墳は大安寺古墳群と総称されています。」

写真上 墳丘
写真中 石室天井部
写真下 石棺と縄掛け突起
 
杉山古墳
「大安寺の北東隅には杉山古墳があり、『資財帳』には「池併岳」と記されます。前方部の南西斜面には瓦窯が6基確認され、全て半地下式有牀(しょう:ゆか)平窯で1,2,3,5,6号窯は8世紀後半から9世紀にかけて、4号窯は12世紀中頃以降に操業されていました。伽藍の補修などにともなう瓦窯と言え、創延期の窯については京都府井手町の石橋瓦窯が知られています。」

「杉山古墳は前方部を南に向ける全長約154mの前方後円墳で、くびれ部東側に造り出しが付きます。後円部の高さは約11m、墳丘には葺石を葺き、埴輪列を巡らしていたとされます。周囲には盾形の周濠と外堤が巡ります。築造時期は5世紀中頃です。杉山古墳の東約200mには平行するように墓山古墳があります。同じく前方部を南に向け、全長が80m以上の前方後円墳と考えられています。時期は杉山古墳よりやや新しいとされます。」

写真上 杉山古墳 後円部から前方部を望む
写真下 保存された瓦釜
 

移設復元された瓦窯


 
奈良市埋蔵文化財センター
姫寺廃寺出土瓦
 
杉山古墳出土家形埴輪
杉山古墳出土円筒埴輪(後段)
菅原東瓦窯埴輪(前段


 
左京五条二坊十五・十六坪調査地

 
宮跡庭園

この庭園は、昭和50年(1975年)発掘調査によって発見された奈良時代の庭園で、数少ない日本古代の庭園として貴重な遺跡です。庭園は玉石を敷きつめた幅15m、総長55mの屈曲するるS字状の園池が中心で、池の西側には、池とともに,春日山、御蓋ノ山などの東山を望め.るよう東向きの建物を配置しています。池にはその水際の変化に応じて景石、岩島などを配し、萬葉集に詠まれた奈良時代の庭園の姿ここに見ることができます。池に酒杯を浮かべて詩歌をつくる曲水宴を催すことも可能な宴遊施設であったと考えられています。このような奈良時代の規模の大きい庭園が完全に残り、意匠、作庭技法など細部まで知り得る例はきわめてまれで昭和53年(1984年)に国の特別史跡に指定されています。(パンフレットより)


北隣は長屋王邸宅跡