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川西池田駅→最明寺川→加茂遺跡〔谷Ⅰ〕→川西市文化財資料館・宮川石器館→栄根銅鐸出土地→加茂遺跡〔斜面環濠→中心域・鴨神社→大形建物検出地→台地東端〕→川西池田駅

例会だより
「摂津加茂遺跡を歩いて」
突き抜けるような青空の下、川西池田駅の陸橋上に141名が集合。日差しがきついが、乾燥しているので陰に入ると心地よい。
眼前にこんもりと茂った加茂遺跡は平成12年に国の史跡に指定された。
ここは伊丹台地の北端にあたるそうで、昨年訪れた猪名川廃寺が伊丹台地の南端であることを考えると、伊丹台地を征服した感じがする。
 加茂遺跡は、弥生時代中期に最大となり、後期になると縮小していき、それに反比例するように周辺の遺跡が増加しているとのこと。解体の理由としては、人口の増加などらしい。尼崎の田能遺跡も、そういった意味での集落の再編成があり、地域間の争いを繰り返し、統廃合されていったのだろうか。
 車に注意しながら、最明寺川沿いを通り、川西市文化財資料館に到着。ここで、宮川石器館との二手に分かれて見学する。宮川石器館では、丁寧に手入れされた夥しい展示物に目を奪われる。展示物を収めたガラスケースも開館当時のもので、体重をかけないように注しながら見学する。
文化財資料館では、斜面環濠復元模型、栄根復元銅鐸が印象深い。栄根銅鐸の実物は東京国立博物館にあるそうだが、形状としては最も新しく、このような突起の付いた例は10例ほどしかないそうだ。
昼食後、斜面環濠を目指す。斜面環濠は、およそ幅250mと推定され、下から見てもかなりの急斜面であることが分かる。その近くから、栄根銅鐸が出土したのだが、地元の人が細かい破片を拾い集め、くっつけたら銅鐸の形になったそうで、そのお話も興味深かった。鴨神社から斜面環濠を上から一望できる公園で、解散。
汗をふきつつ説明して下さった北井先生、本当に有り難うございました。(暦利 和子)
 
加茂遺跡
川西市教育委員会 調査報告書より

 兵庫県南東部の川西市南部に位置し、西摂平野東部を流れる猪名川を見下ろす標高約40mの伊丹台地の北東端部にある旧石器時代から平安時代にかけての遺跡。明治44(1911)年、台地東側崖下から銅鐸(栄根銅鐸)が偶然出土したのに続き、大正4(1911)年に鴨神社周辺で弥生土器や石器の散布することで笠井新也氏により報告され、遺跡の存在が明らかになりました。 弥生時代中期初頭から集落が形成され始め、弥生時代中期には東西800m、南北400m(約20ヘクタール)となり、厳重な防御性をもった畿内有数の大規模集落。東部に集落の主要施設と考えられる板塀で囲まれた大型建物と居住区、西部は墓域、そして集落中心域の周りには数条の環濠が取り囲み、環濠の外側にも居住区があるなど当時の集落の様子もわかってきました。最盛期には、竪穴住居数約100軒で、およそ500人の人々が住んでいたと推定されています。墓域は約7ヘクタールで、集落中心域とは数条の環濠によって隔てられていますが、南・北環濠外居住区とは接しています。ここからは方形周溝墓が23基、木棺墓・土壌墓が38基確認されています。このほか土器棺が集落中心域6基、環濠外南部居住区3基、環濠外北部居住区1基、墓域で4基確認されています。また、同時期の台地周辺には栄根・下加茂・小戸遺跡などの小集落が営まれますが、これらの集落は加茂遺跡とともに稲作農耕、交易、祭祀などを共にする地域社会をつくっていたと考えられます。
 中期に最盛期を迎えますが、後期になると遺構・遺物量が減少し、集落が縮小していきます。近年の調査成果によると、後期後半から終末期にかけての竪穴住居が台地の東西に分かれて確認されています。東部居住区は13基の住居が発見されており、中期集落の中心居住区を継承すると考えられています。しかし、西部居住区は8基の住居が散在的に確認されている程度です。
こうした集落の縮小化と周辺遺跡の増加・充実化がみられ、やがて加茂遺跡は解体されていきます。

 
川西池田駅
JR川西池田駅陸橋上に140人集合。
案内は、北井利幸先生。
後方が今日訪問する摂津加茂遺跡。
駅前広場が栄根遺跡。
加茂遺跡衰退後、住民が移転した先と考えられている。
 
最明寺川
加茂遺跡最北端で遺跡の説明を聞く。
 
>谷Ⅱ
最明寺川に沿って川西市文化財資料館に向かう。遺跡北側には、人工の谷が2本掘られており、右手の林が谷Ⅱ。
 
谷Ⅰ
谷Ⅰに沿って現在は道路が走る。
 
川西市文化財資料館







  斜面環濠と遺跡の模型







  栄根銅鐸(複製)
絵画土器
 現在のところ、採集品と出土品をあわせて20点確認されています。そのほとんどが集落中心域やその近辺からの出土ですが、一点のみ環濠外北部居住区から出土しています。
 絵画の内容は、小片が多く絵画全体や土器の全体器形がわかるものは少ないが、「建物」「鳥」「魚」などです。左図の「魚」を描いた絵画土器は甕の外面に描かれており、環濠外北部居住区から出土しました。この土器は細かく破砕された後、柱を抜いた掘立柱建物の柱庭内に詰められていました。内面に朱が塗られていたことから特殊な土器であったと考えられます。
 
環濠の入口
 これまでの調査で中心域の西側には集落を取り囲むように多重の環濠がめぐっていることが判明していました。
これらの環濠にかかる地区、川西市文化財資料館北東50m付近が平成19(2007)年、20(2008)年に調査されました。その結果、弥生時代中期後半の環濠が約60mの幅で並行する7条の環濠帯で囲まれていたことが明らかとなりました。さらに環濠の一部が途切れていることが明らかとなり、この部分が環濠の人口通路と考えられるようになりました。
 この入口通路は右下図にあるように復元されます。通路の両側に柵列をもち、途中木橋がかかっていたと推定されます。非常に防御性が高かったと考えられます。こうした多重環濠帯を通過する入ロは全国的にも類例のない施設です。
左下図 川西市教育委員会 調査報告書より
 
宮川石器館

 地元加茂集落在住の宮川雄逸氏が収集した石器・土器などを展示・公開するため、自宅の長屋門を改造して、昭和11(1936)年に開館しました。資料点数は2645点て、打製石鏃が1190点、石組が513点、石庖丁が230点あります。なお、展示品の中にはナイフ形石器や銅鏃など発掘調査でもなかなか出土しない資料や開館を伝える当時の新聞なども展示されています。
 また、同館には開館以来の来館者名簿が残されており、その中には佐原真氏や武藤誠氏が若い頃に訪れていたことが記されています。
 
外濠
外濠を歩く。
 
斜面環濠
平成7(1995)年に遺跡東側崖斜面が調査されました。当初、急傾斜地であったため、環濠の存在は考えられていませんでしたが、調査の結果、幅約2m、深さ約1.5mの規模の溝が、台地上面より10m程下ったところで等高線沿いに長さ約50mにわたって見つかりました。溝内からは弥生時代第Ⅳ様式(中期)の土器が大量に廃棄されており、第Ⅳ様式期に掘削され、同期末に絶したと考えられています。この環濠の性格は、集落の防御または防戦用と思われます。これは、溝が断面台形を呈していることから通路としても利用可能で、ここから弓矢や投石などによって侵入者を迎撃きるからです。復斜面環濠に東側の斜面全域をめぐっていたとは考えられず、北限は傾斜の強くなる地点の手前までで、南限は中心域の西側にめぐる環濠が東側斜面に達したであろう地点までの約250mと推定されます。(写真左 マンション建設中に斜面環濠が見つかる。手前の斜面まで広がる。)
 
栄根銅鐸出土地
明治44(1911)年に加茂遺跡東側の崖下から1mを超える銅鐸が発見されました。当時の出土地名が「栄根字井坂13番地」(現在 加茂1丁目15番地)であったことから通称「栄根銅鐸」と呼ばれています。実物は東京国立博物館に所蔵され複製が川西市文化財資料館に展示されています。栄根銅鐸は、地表下約90cmのところより、紐を南に向け、鐸身の下端をやや高めにして、横にねかした状態で発見されました。大きさは、復元総高114cm(現存総高107.6cm)、紐高35cm、鐸身高79cm、鐸身の厚み5mmです。佐原真氏の編年によると突線鈕5式の六区袈裟襷文の近畿式銅鐸で、銅鐸の中でも最も新しく位置づけられます。鈕と鰭のまたがるところに左右1個ずつ、計4個の矢羽状突起がついています。現在のところ、こうした突起のついた例は10例ほどしかありません。斜面環濠が発見されたマンションの東側(写真の左側)、低い崖が発見場所。
 
鴨神社
加茂遺跡中心地 大型建物と方形区画
 大型建物と方形区画は遺跡東部の鴨神社北側、遺跡内でも最高所の平坦地の北西端から見つかった。方形区画は南北方向三条、東西方向二条の幅約14~40cm、深さ10~20cmの小溝が検出され、この溝内から厚さ5cm、幅30cmの板を約5cm間隔で垂直に立てた痕跡が確認されました。この方形区画の内側に、区画の方位に合わせた大型掘立柱建物が一棟検出されました。桁行三間(10.5m)以上、梁間一間(4.5m)以上の東西棟の建物で、柱穴は、径0.7~1.0m、深さ0.4~0.65mと非常に大きい。柱の間隔は、梁間で4.5m、桁行で3.5mもあり、各住の中間に径35cmの小型の柱穴を想定できるものの、構造的に高床ではなく土間構造の住居的な建物であったと考えられています。建物の規模は、南側と西側が未発掘のため不明ですが、現在現出している部分だけでも47平方mあり、さらに大きくなる可能性があります。なお、建物の時期については、出土した土器から、弥生時代中期後半でも第Ⅲ様式期新設階と位置づけられます。
 大型掘立柱建物を囲む方形区画施設は一部を調査しただけで、全体像は今後の調査を待たねばなりませんが、現在のところ大型掘立柱建物一棟を囲む小区画の可能性が高いと考えられます。方形区画の構造については、内部に若干の盛土と土留めがなされ、東辺二重、北辺一重の竪板塀で囲まれていたと推定されます。竪板塀は、北東部の交点が途切れていることなどから、防御的なものとするよりも目隠し塀的なものと捉えられています。こうしたことから内側の大型掘立柱建物の性格を、集落統括者の住居ではなく、宗数的な要素が強い施設と考えられています。(左図 川西市教育委員会パンフレットより)
 
加茂遺跡最高地点から北を望む。
中央遠くに、加茂遺跡衰退後住民が移住した、栄根遺跡(川西池田駅)、さらのその奥、川西市市役所付近が小戸遺跡。
 
番外編
川西池田駅コンコース天井にアクリル板がぶら下がっており、朝の受付の最中に、コンコースを抜けようとした雀が激突して落下しました。会員が拾い上げて窓際に乗せましたが、目を閉じて動きません。(写真左)
しばらすると目を開け(写真右)。手を伸ばすと飛んでゆきました、よかった!