物集女車塚→丸塚古墳→中海道遺跡→竹林公園→寺戸大塚古墳→妙見山古墳→五塚原古墳→元稲荷古墳→長岡京大極殿→向日市文化資料館→長岡京北苑
JR向日町駅 | |
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春のような暖かい穏やかな朝、JR向日町駅に145人の会員が集まった。 「南山城の前方後方墳」の最終回として卜部先生の案内で桂川右岸の向日丘陵に点在する前期古墳を巡る。 駅前交番前で先生の説明を聞く。 「古墳時代前期の向日丘陵で認められる前方後円(方)墳の築造系譜には、前回見学した城陽市の久津川車・塚古墳の出現による地域変動が及ぶ。現在、元稲荷古墳、北山古墳、五塚原古墳、寺戸大塚古墳、妙見山古墳の5基か確認されているが、南北2つの地域に分けて前3基と後2基のそれぞれの系譜かほぽ4世紀代を通じて築造されたと考えられ、最初に築かれたのは前方後方墳の元稲荷古墳。やや時期は下がるが、南西に2㎞離れた長岡系譜も前方後方墳である長法寺南原古墳が最初に築かれている。また前回訪れた木津川右岸も前方後方墳から系譜が始まっています。 5世紀に入ると向日丘陵の前方後円(方)墳系譜は途絶え、円墳が築造されるようになる。かわって北方の樫原系譜(天皇ノ杜古墳)や長岡系譜(恵解山古墳)に移勤。この時期は先述した全長180mの大型前方後円墳である久津川車塚古墳の出現と符合。強大な首長と関係をもった新興の勢力の台頭と見ることができるかも知れない。」 | |
物集女車塚古墳 | |
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![]() | 物集女街道の西に面する全長48mの前方後円墳。前方郎を北東に向けています。後円部、前方部とも2段築成で、後円部径31m、前方部幅38mを測り、前方部が発達。墳丘上には葺石と埴輪列を確認。 埋葬施設は後円部に築かれた片袖式の横穴式石室。全長11m、玄室長5m、幅2.8m、高さ3m、羨道幅1.5m、高さ1.7m。玄室奥壁に沿って組合せ式家形石棺が置かれ、2ないし3棺の道葬が想定。 石室内は盗掘を受けていたが、金銅製冠、耳環、ガラス玉、握り環頭太刀、銀装大刀、字形鏡板付轡、須恵器、土師器などの豊富な副葬品が出土。築造時期はこれらの遺物から6世紀中葉で、6世紀末にかけて追葬が行われていたようです。 物集女車塚古墳は向日丘陵に前方後円墳が築造されなくなって以降、この地域に再び築かれる唯一の前方後円墳。 |
丸塚山古墳 | |
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淳和天皇火葬塚 | |
中海道遺跡 | |
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向日丘陵の東側斜面と沖積低地に挟まれた段丘面上に立地する集落遺跡。弥生時代終末から古墳時代前期にかけてが集落の中心となる時期で、中世から近世にかけての遺構もみられる。遺跡の範囲は東西600m、南北500mと想定。 60次以上の調査が行われていますが、最も注目されるのは第32次調査で検出された大形掘立柱建物。遺跡の説明板か設置されている場所から約300m北東に離れている。 この建物は身舎の4周に庇状の柱列を配しており、身舎は桁行2間(5.3m)、梁行2間(5.0m)で、周囲の柱穴を含めた全体の規模は桁行8.6m、梁行7.7mとなり、その床面積は66.22m2。建物の周囲には南北で8m、東西15mの規模で方形に囲む区画溝が巡らす。溝の幅は2m、深さは0.6m、建物に通じる中央には陸橋状に掘り残す。建物の時期を示す遺物は非常に少ないのがおおよそ古墳時代前期初頭とみられます。 このような建物の類例として奈良県南郷安田遺跡や城之越遺跡など約10があげられ、その多くが豪族居館ないしはその関連施設内にあることから、祭祀に使われた祭殿とみられる。 | |
竹林公園 | |
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織田信長が室町幕府最後の将軍、足利義昭のために築いた旧二条城(永禄12年、1569年) の石垣に使ったといわれる石仏で、現在の烏丸通・新町通・丸太町通・下立売通の2町四方のうちの烏丸出水ー丸太町間の390m にわたって石垣に使われていた。 昭和56年に開通した京都市の地下鉄工事の際に発掘されたもの。 蝋梅がよい香りを放つ。 | |
寺戸大塚古墳 | |
向日丘陵古墳群の北端に位置し、前方部を南にむく、後円部3段、前方部2段築成の前方後円墳。全長98m、後円部径57m、前方部幅38m。 墳丘の平面形は、前方部は開かずに同じ幅で続き、墳丘上には葺石が施され、円筒埴輪が巡る。後円部頂には方形壇が営まれていたとみられ、祭祀に使われたミニチュア土器が出土。 埋葬施設は後円部と前方部にそれぞれ竪穴式石室が1基営まれ、後円部の竪穴式石室からは舶載三角縁神獣鏡、石釧、勾玉、管玉、鎌、刀子、斧、素環頭大刀、剣などが出土。また前方部の竪穴式石室からは傲製三角縁神獣焼をはじめとする鍋焼、、碧玉製品、刀剣、銅鏃などが出土。それぞれの石室は構造がよく似ており、副葬品も前方部石室がやや新しい様相だが、ほぼ同じ内容。 古墳の築造時期は4世紀前半と考えられ、向日丘陵古墳群のなかで元稲荷古墳の次に造られたとみられる。 写真上 後円部 写真中 後円部墳頂の礫 写真下 崩れた前方部 | ![]() |
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桓武天皇皇后 藤原朝臣乙牟漏(おとむろ)墓 | |
![]() | 寺戸大塚古墳に後続する4世紀後半の妙見山古墳跡を通って、桓武天皇皇后陵に至る。 妙見山古墳は、全長が100mを越え、副葬品も豊富な内容を示しており、一連の系譜が安定したものであったことをうかがわせるが残念ながら土取によって消滅。 桓武天皇皇后藤原乙牟漏は、藤原式家良継の子。母は安倍朝臣古美奈。平城・嵯峨両天皇と高志内親王の母。 延暦9年、31歳で死去。 直径約65m、高さ約7mの円墳を流用ともいわれる。 |
五塚原古墳 | |
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向日丘陵のほぽ中央に築かれた前方後円墳。過去に測量調査や墳丘確認調査が行われ、箸墓古墳の3分の1の墳丘を持つことが指摘されている。全長91mで、後円部は3段、前方部は1段の段築。くびれ部の幅が狭いことが特徴的です。前方部には方形壇がある可能性が指摘されている。墳丘の斜面には葺石が施され、基底石に大振りな川原石を縦長に置き、その上に小振りな磯を積み上げ。これは元稲荷古墳の前方部前端で確認された葺石と同様の施工の仕方。古墳に関する出土遺物は全く伝わっておらず、墳丘調査においても埴輪類や土器類は出土していないが、築造年代を決定しにくいが墳丘が古相の特徴をもつことから前期前半と考えられ、築造順序は元稲荷古墳に続くものと思われる。 写真左 後円部から前方部を望む 写真右 墳丘裾 | |
元稲荷古墳 | |
![]() | 向日丘陵の南端に築かれた前方後方墳。これまで四次の調査が行われ、後方部の埋葬施設や墳丘の様子が明らかになっており、現在、第5次調査中、現地説明会は21日。 全長94m、後方部幅52m、前方部幅49m。寺戸大塚古墳や五塚原古墳と同規模。後方部は北辺がやや広がる歪な形で、前方部の前端は弧状に膨らむ。墳丘斜面や平坦面には葺石が施され、葺石は小振りな磯を小口積みにしており、これも五塚原古墳と共通。埋葬施設は竪穴式石室で、墳頂部に建設された施設によって完全に破壊されている。壁体が内側にせり出す合掌形と呼ばれる形態で、上部には小振りな天井石を載せる。現在、後方部南斜面に3石遺存(写真下)。特殊器台形埴輪、壷形埴輪が出土していることから前期前半の築造と考えられ、向日丘陵古墳群の中で最初に築かれた。 |
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長岡京大極殿 | |
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長岡京は延暦3年(784)、桓武天皇が平城京から移した都で、10年後には平安京に遷都。昭和29年以降、発掘調査が進められている。 京の規模は確定したわけではないが、南北5.3km、東西4.4km。条坊は平城京の条路を2町北に移動した独自の「長岡京型条坊制」を布いている。 宮には朝賀や謁見に用いられた大極殿や後殿、朝堂院が配置されている。通常天皇の生活空間である内裏は大極殿の背後に造られますが、長岡京では東に離れて独立。 | ![]() |
向日市文化資料館 | |
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玄関には元稲荷古墳の天井石 | |
長岡京北苑 | |
![]() | 平成7年、朝堂院中軸線に近い北京極大路付近で整然と配置された掘立柱建物、池状遺構が検出され、宮城の北方に広がる苑池「北苑」を確認。ただその範囲は確定したわけではなく、内容も京内に宅地に近いものとする見解もある。物集女車塚古墳の近傍でも複廊遺構が検出されてお築山として利用されていた可能性もある。苑池などの周辺施設につ<ては今後の検討。 サティの2階に遺物が展示されている。 |