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下ツ道→保津・阪手道→中ツ道、村屋神社(昼食)→芝遺跡、慶田寺→織田氏芝村陣屋跡→上ツ道→桜井市立埋蔵文化財センター→城島遺跡→脇本遺跡→横大路→近鉄大和朝倉駅

近鉄田原本駅 津島神社
奈良の平城京から吉野への道中を詠った『万葉集』巻第23に雑歌27首のひとつ
 「幣帛を 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石走る 甘奈備山に 朝宮に 仕え奉りて 吉野へと 入り坐す見れば 古おもほゆ」(巻13 3230)
反歌 「月日は行きかはれども久に経る三諸の山の離宮地」(巻23、3231)

この歌に出てくる地名、「穂積」については奈良市東九条や天理市新泉町、同前栽付近などの説があり、田原本町保津ではないかとする説もある。「甘奈備山」については飛鳥のミハ山をあてる説が一般的だが、、反歌には「三諸の山」とあり、このことから「甘奈備山」を三輪山だと考えることもできる。「甘奈備山」が三輪山ならば、「石走る」は初瀬川を指していると考えら、田原本の保津から阪手を経て、三輪へと向かうというルートがひとつの案として想定できる。このルートにちょうど合うものが保津・阪手道と称されている古代道路を飛鳥時代以前に諸宮が営まれた初瀬、磯城、磐余の地へ向かって歩く。
このコースの大部分は近世にも街道として使用されており、途中には石造の道標や太神宮灯寵などの常夜灯、古い町並みが今なお残っている。


写真下 津島神社東 奈良街道と交差
 
保津・阪手道 下ツ道と交差
保津・阪手道は、西北西-東南東を向いた古代の道路で田原本町の富本から阪手にかけて、地割が良好に遺存。太子道と下ツ道を結ぶバイパスな役割が考えられますが、それぞれ交差点で終結せずに延長があり、西は広陵町を経て河合町の方面、東は今回の目的地である三輪山麓を結んでいたと考えられる。これまでに保津・宮古遺跡や羽子田遺跡の発掘調査で道路遺構が検出され、羽子田遺跡第10次調査と第16次調査では南北画側溝が検出された。北側の側溝は新旧3時期あり、当初は幅14.5mあったものが、10.5m、9mと徐々に縮小。出土した遺物から飛鳥時代から奈良時代にかけては存続。

 保津・阪手遺は田原本町田原本付近で下ツ道と交差。下ツ遺は上・中・下の南北三道のひとつで、西側に位置。三道が設置された年代は、壬申の乱の記述などから、7世紀後半までにはすでに重要な役割を果たす道路であったと考えられる、考古学的に具体的な設置年代を推定できる資料は多くない。

2007年度の平城京左京三条一坊四坪での発掘調査で検出された下ツ遺の東側溝から六世紀末から七世紀初頭に位置付けられる須恵器が出土し、下ツ道の設置が従来考えられていたのよりもさかのぼる可能性が指摘されている。道路の幅はこれまでの調査成果から、側溝心々距離で23~4m、路面幅19.5~20.5m程度であることが判明。

写真上 田原本町役場前の道標
写真下 保津・阪手道を東 初瀬へ向かう

 
阿斗河辺館
 保津・阪手遺と下ツ道との交差点付近には阿斗河辺館があった想定される。推古18年(610)に来朝した新羅使が招かれた施設で、新羅使はここを経て海石榴市へと向かったと推定。このルートは隋からの使節裴世清一行が通ったルートのひとつ。ただし、阿斗河辺館の位置を具体的に示すものはまだ発見されていない。

写真 保津・阪手遺と下ツ道との交差点付近で阿斗河辺館の説明を聞く
 
田原本町 大安寺 森市神社
 阪手を過ぎて東へ進むと、田原本町大安寺の付近にも北西-南東方向の地割があり、保津・阪手道の延長の痕跡と考えられる。
 
村屋神社
 そのまま進んでいくと、田原本町蔵堂で次は中ツ道と交差。保津・阪手近の延長と中ツ道の交差点の部分には式内社の村屋神社が鎮座。村屋神社は通称、村屋社とか森屋社、正式には村屋坐弥富櫛比売神社。
祭神は弥富都比売命と大物主命、神社の森は県指定の天然記念物。また、村屋神社は壬申の乱の舞台となったことでもよく知られる。『日本書紀』によると、将軍犬伴吹負かいた飛鳥の倭京本営を衝くために近江軍が中ツ道を進軍してくることを、村屋神すなわち弥富都比売命が神官に神がかりして予言し、それが現実になったことが記されている。
この功績により天皇から位が授けられたという。逆に近江軍もその直前には村屋に軍を駐屯しており、この地が重要な拠点であったことをうかがわせる。
 
昼食
三輪山を眺めながら初瀬川河畔で昼食
 
中ツ道
 中ツ道は三道のなかで真ん中に位置。発掘調査での検出事例は少なかったが、2003年度の橿原市出合町での発掘調査(ホームセンターコーナン橿原香久山店の増築に伴う調査)で、中ツ道の路面と東西両側溝が検出され、幅が確定。道路は拡幅されており、当初は側溝心々距離で16m、路面幅14.5mで、拡幅後は側溝心々距離で28.3m、路面幅25m。

写真 中ツ道との「ちまた」の道標
 
シロト古墳
村屋神社の南にはシロト古墳がある。南北に主軸をもつ全長50mの前方後円墳と考えられるが、墳丘は削平され、埴輪などの出土もないため、その実態は不明。古代以前から村屋神社周辺に未知の勢力が存在していたのかもしれない。
 
桜井市大西
 村屋神社から桜井市大西にかけてと大西の集落内にも道路の痕跡と考えられる地割が残る。ここからは、初瀬や磯城に向かうルートと、磐余に向かうルートの二種類が想定できる。磐余への方向の先には、桜井市大泉の集落内に斜行する地割がみられるが、磯城と初瀬への方向には、ここから先、道路の痕跡はあまり残っていないが、磯城そして初瀬を目指して歩く。

写真 大西の集落の道標 左 ほうりゅうじ 右 はつせみち
 
芝村陣屋
初瀬川を越えて、南東へと道んでいくと、やがて桜井市芝へと至り、上ツ道と交差。
芝は江戸時代に織田家芝村藩の陣屋が置かれた地。織田信長の弟である織田有楽斎は関ケ原の戦の功績で大和国威上郡と山辺郡に3万石を与えられたが、大坂夏の陣ののちに所領を三分して、四男長政に戒重藩1万石、五男尚長に柳本藩1万石を与えた。戒重藩は桜井市戒重に陣屋が置かれていたが、1745年(延享2)、戒重藩第7代藩主織田輔宜の時に芝へ陣屋を移した。
現在の市立織田小学校のところに藩主の御殿があり、その周囲に家中屋敷が建てられた。現在は、織田小学校の南面に御殿の石垣の一部と、陣屋の南を画する堀がわずかに残る。また、陣屋の南門は織田氏の菩提寺であった慶田寺の山門として移築されている。

写真上 慶田寺の山門
写真中 織田小学校の南面の石垣
写真下 堀跡に浮かぶ三輪山
 
芝遺跡
 芝遺跡は縄文時代から奈良時代にかけての複合遺跡。
遺跡の中心年代は弥生時代で、拠点集落のひとつとも考えられている。竪穴住居群や方形周溝墓などが検出され、絵画土器や多種大量の木製品などが出土。弥生時代の遺構の中心は遺跡の西半と考えられるが、遺跡の東端に位置する大三輪中学校の校内では、縄文時代晩期の土器を大量に含む包含層と、子持ち勾玉、神柴田の可能性がある柵で囲まれた水田跡と、城上郡の郡衛の可能性が指摘されている古代の掘立柱建物も検出。


写真 大三輪中学校前の芝遺跡説明板
   遺跡の中心はもっと西
 
仏教伝来地碑
初瀬川を挟んで金屋と対岸には初瀬川と栗原川によって形成された扇状地が広がり、その東奥に東西方向の細長い谷が延びている。扇状地の部分が磯城の地域で、谷の部分が初瀬の地域。この両地域には飛鳥時代以前の多くの宮が置かれたことが『古事記』や『日本書紀』によってわかる。磯城の地には周辺が崇神天皇の磯城端簸宮や欽明天皇の磯城嶋金利宮の推定地がある。

写真 初瀬川河畔の仏教伝来地碑
 
脇本遺跡
雄略天皇の泊瀬朝倉宮の有力な候補地が脇本遺跡。
脇本遺跡は縄文時代から古代の複合遺跡。
弥生時代後期後半から古墳時代初頭の集落跡としては竪穴住居、掘立柱建物大型上坑、溝など多数の遺構と銅鐸片をはじめ、銅製品、銅滓、上製鋳型外枠、砥石、鉄製品などの鋳造関係の遺物が出土。その後、5世紀後半に整地がおこなわれ、建物群が建てられ、5世紀末から6世紀前半に竪穴住居が、六世紀後半には掘立柱建物群や石組溝、石敷、石垣が、7世紀後半にも掘立住列がみられるという変遷をたどる。5世紀末から6世紀後半の建物群の主軸は大きく振っているが、三輸山を意識したものかもしれない。7世紀後半の遺構が正方位を指向しているのも注目される。


写真 中央建物付近が脇本遺跡