竹之内環濠集落→夜都伎神社→西乗鞍古墳→東乗鞍古墳→杣之内火葬墓→小墓古墳→西山古墳→塚穴山古墳→内山永久寺→峰塚古墳→石上神社→布留遺跡(守目堂地区・杣之内地区・堂垣内地区・里中地区)
例会たより | |
「杣之内から布留の遺跡を歩いて」 暦の上では冬に入る肌寒い雨の朝を迎えたいH月の例会は「柚之内から布留の遺跡」の学習で、JR桜井線長柄駅に106名の会員が集まった。 先ず、松田館長の説明を受けた後、一行は東へ。なだらかな坂道を上り2・4km先の南北に続く山之辺の遺を通り過ぎた所にある竹之内環濠集落へ。 この環濠集落は数ある大和の環濠集落のうち最も高い所にあると言われ、北側に残る竹藪の茂りを見ながら辺りを確認し、0・5㎞北にある夜都伎神社、そして次に杣之内古墳群の一つである東乗鞍古墳へ。 南に開口された横穴式石室の前で館長の説明を受け、順次中に入る。石室は片袖形式で大型の花尚岩が使われていること、玄室の奥側に阿蘇溶結凝灰岩の石棺が1基、手前に二上山凝灰製の石棺の底石が1枚残っていることなど、今、教わった説明を思い出しながら各々に見入り、小さな開ロ部から遺うように出てくる。 次に向かった柚之内火葬墓は親里競技場内のラグビー場の横にあり、今日は奈良県高等学校の決勝戦で中に入れず、門前で説明を受け西乗鞍古墳へ。後円壇上で葺き石などの説明と小墓古墳の位置などを教わる。これら三つの古墳はいずれも前方後円墳であると教わった後、天理大学体育館横で昼食。 午後の学習は、先ず、すぐ近くにある全国最大の前方後方墳である西山古墳の説明を受け、ぬかるんだ馬場の横を通り塚穴山古墳、そして峰塚古墳へ。塚穴山古墳、峰塚古墳はいずれも円墳で、特に峰塚古墳は7世紀前半の築造と言われ、群集墳の築造がなされなくなる時期に、なおこのような整備された石室の古墳は珍しいと言われている。 懐中電灯頼りの石室内の見学を終えた後、一行は石上神宮へ。境内で宮司さんの話を聞いた後、布留遺跡の堂垣内地区、次に里中地区の説明を受け解散となる。 松田館長、どうも有難う御座いました。参加された皆さん、お疲れ様でした。 (鈴木 征三郎) | |
長柄駅 10時 | |
朝から雨模様。JR桜井線長柄駅に集合した会員は106人。松田館長に杣之内から布留の遺跡を案内いただく。 | |
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![]() | 小雨の中、竹之内環濠集落へ向かう。 |
竹之内環濠集落 | |
盆地束縁部の標高100m前後の高所に位置している竹之内環濠集落は、約1㎞南にある萱生環濠集落とともに盆地を見下ろす最も高い位置にある環濠集落の一つである。竹之内集落の環濠は1975年にかなりの部分を埋め立てられて成立時の全容を留めず、現在はその一部が残されているにすぎない。環濠集落は地侍が大和の村々を支配した南北朝以降の戦乱期に成立したとされる自衛の居館的な集落で、集落の周囲を濠と土塁で囲み、土塁には竹を植えることによって防衛性を高めた。濠は潅漑用としても利用されたが、竹之内集落の環濠はその北西側に、南北方向に約150mの長さの池として残り、北側には竹薮が茂りその面影を残す。集落内の通路は筋違いや袋小路状をなし、侵入した外敵の通り矢や視界を妨げるための工夫がみられる。 | |
残された環濠 | 集落の入り口 |
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夜都伎神社 | |
乙木集落から夜都伎神社へ | |
![]() | 夜都伎神社は乙木町の北方の数基の古墳がある宮山と呼ばれる丘陵上に鎮座する。式内夜都伎神社はもともと乙木集落の南東方の尾根上に立地していた十二神社であったが、社地を竹之内の三間塚池と交換したため、現在地にあった天見屋根命など春日四神を祀る春日神社の名称を夜都伎神社に変更し現在に至っている。乙木は興福寺大乗院領および春日社領で、春日神社に縁が深く神饌を献じる一方、春日からは社殿と鳥居を下付されている。本殿は明治に改築した春日造桧皮葺、集落の西にある二の鳥居も春日神社から移されたものである。 |
集落の西にある二の鳥居 | 明治に改築した春日造桧皮葺本殿 |
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東乗鞍古墳 | |
![]() | 西乗鞍古墳の東方約150mに位置する、全長約72m、後円部直径44m、前方部幅68m、高さは前方部、後円部ともに約10mの前方部を西に向けた前方後円墳である。西乗鞍古墳と同様にこの古墳も前方部の幅が後円部直径を上まわり大きく広がる。墳丘は二段で墳丘西側には幅約10m、深さ約2mの周濠が存在していることが確かめられている。後円部にはほぼ南に開口する片袖式の横穴式石室があり、玄室の長さ7.6m、幅2.4m、高さ3.3m、羨道の長さ7.0m、幅1.7m、高さ1.5mの規模である。玄室には2基の石棺が置かれていて、奥の石棺は阿蘇溶結凝灰岩製の古い型式の刳抜式家形石棺で、手前の石棺は二上山産の白石凝灰岩を使った組合式家形石棺の底石である。墳丘・石室・石棺などの型式から6世紀初頭前後の築造と考えられる。 |
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二上山産の白石凝灰岩を使った組合式家形石棺の底石 | 阿蘇溶結凝灰岩製の古い型式の刳抜式家形石棺 |
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杣之内火葬墓 | |
![]() 奈良時代の火葬墓で、墓の外形は復元すると直径11.2mの低い円丘状となる。円丘の内部は地山をやや掘り下げ、砂と粘土を互層に突き固めた、いわゆる掘り込み地業によっており、その上を低い墳丘状に盛り上げている。その中央部には長さ1.3m、幅1.4m、深さ0.9mのほぼ方形の土坑を穿ち、コウヤマキとスギ材を用いた木櫃を納めてあった。木櫃本体は部分しか残存していなかったが、内部から火葬骨とともに釵子と、その頭部を飾った鳩目形金具か出土したほか、木櫃と土坑の隙間には海獣葡萄鏡が副葬されていた。墓誌はなかったが、被葬者を正二位の石上家嗣と推定する見解があるが、家嗣は厚い仏教信者であり、出身地が山辺郡布留川の辺にあったことなどが根拠になっている。(今回は高校ラグビー決勝戦開催中のため球技場前で説明を聞く) | |
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西乗鞍古墳 | |
![]() | 全長約120m、後円部直径70m、前方部幅は後円部直径を上まわる90m、高さは前方部と後円部ともに約18mの前方部を南に向けた前方後円墳。墳丘は二段築成で東西のくびれ部に造り出しをもつ。埋葬施設に関する材料はないが横穴式石室の可能性が高い。墳丘の周りには周濠の痕跡が確認できるが、前方部南側と東側で実施した発掘調査では、さらにその外側を廻る浅い周濠が検出されている。墳丘からは須恵器甕片や円筒埴輪・朝顔形埴輪が採集されているほか、周濠から出土した円筒埴輪、家形埴輪、須恵器甕や杯、土師器甕などからみて古墳の築造は5世紀終末頃と考えられる。 |
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小墓古墳 | |
西乗鞍古墳の北西に位置する全長約80mの南西方向を向いた前方後円墳である。後円部は墳丘の削平が著しいが高さは約8m、前方部も墳頂部を中心に原形が損なわれていて、高さは後円部より低くなっている。墳丘は三段に築かれたと推定され、墳丘周囲には盾形周濠の存在が水田の畦畔として残る。1978年に後円部東側周濠の発掘調査が行われ、幅13m、深さ2.8mの規模であることが判明しているが、西側から南側にかけての周濠幅はより広い可能性がある。濠から多量の形象埴輪と木製品が検出されている。6世紀前半から中葉の造築とみられ、埋葬施設は横穴式石室の可能性が高い。 | ![]() |
布留遺跡守目堂地区 天理参考館西側 | |
![]() | イチョウ並木を抜けて天理大学で昼食。 雨もあがりはじめた。 天理大学の北側、天理参考館西側が布留遺跡守目堂地区。 |
![]() | 墳丘を削られて消失した5世紀代後半から6世紀の古墳群と掘立柱建物や土坑などの遺構が見つかっている。古墳群は円填5基、陪葬施設と見られる埴輪棺1、小石室1、土器棺1などからなり、馬形埴輪なども出土している。古墳の埋葬施設は存在しないが木棺直葬の可能性が高い。被葬者は5世紀中頃以降に隆盛する布留遺跡南岸の集落遺跡と関わりがあり、そのなかでも初期の墓地が守目堂地区の古墳群であったと考えられる。 溝や土坑からまとまった量の鉄滓や鞴羽口のほか、竪穴住居跡から鉄鉗などか出土しており、5~6世紀代には継続して鍛冶生産を行った工房の存在が明らかになっている。 |
西山古墳 | |
前方部を西に向けた全長183m、後方部幅90m、前方部幅72m、後方部の高さは15mの前方後方墳。東乗鞍古墳や西乗鞍古墳などとともに柚之内古墳群の核をなす。墳丘は三段築成でほぼ長方形の周濠をもち、その規模は東西255m、南北108m、周濠の幅は30m。前方後方墳としては全国最大。後方部の下段は方形であるが、中段は円形を呈して前方後円形になり、中段部分から上を計測すると全長は155m。墳丘上には礫が敷かれており、各段に埴輪が配列。埋葬施設はすでに盗掘を受けているが、墳頂付近で石室石材が採集されていて竪穴式石室と推定される。芝山産の玄武岩割り石を石室石材として利用。古墳の築造は4世紀終末から5世紀初頭とみられる。周濠の外側の堤上からは築造時に近い時期の埴輪棺のほか、5世紀代の石棺墓や6世紀代の小石室などが検出。 | ![]() |
塚穴山古墳 | |
![]() | 西山古墳の北側周濠、天理大学馬場を抜けて塚穴山古墳に向かう。直径約63mの墳丘つ大型円墳、幅約10mの濠と幅約15mの堤をあわせると古墳全体では直径約112m。近接する西山古墳の外堤の上に、塚穴山古墳の堤が重なっていることが確かめられている。封土や石室天上石を失っているが、石室は南に開口する横穴式石室で全長17.1m、玄室の長さ7.0m、幅3.1m、高さは3m以上ある。玄室と羨道の側壁はともに二ないし三段積みとし、玄室の全体の規模では及ばないが、東壁の大型石材は長さ5.8mの大きさで石舞台古墳の石材を上回る規模である。玄室の床面には板石が敷かれ、側壁にそって排水溝が設置されている。1964年に実施された発掘では、朱塗りの凝灰岩の破片が検出され、組み合わせ式石棺が安置されていたことがわかっている。被葬者については物部連家の有力者が候補に挙げられている。 |
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峰塚古墳へは石仏が目印 | |
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峯塚古墳 | |
![]() | 直径35m、高さ6mの円墳。墳丘は二段、墳丘上には砂岩系石材の切石を用いて敷き詰めたような葺石がみられる。埋葬施設は表面を整えた花岡岩の巨石切石を羨道一段、玄室二段に用いた横穴式石室である。玄室の長さ4.6m、幅2.7m、羨道の長さ6.5m、幅1.9mの規模で、同じく巨大な切石を用いた石室として知られる明日香村岩屋山古墳の石室とプランと構造ともに類似する。ただ規模は岩屋山古墳石室より小さく築造は7世紀中葉前後と考えられる。 |
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![]() | 2段目の墳丘 |
![]() | 砂岩系石材の切石を用いて敷き詰めたような葺石 |
石上神宮 | |
![]() | 『延喜式』にみえる石上坐布都御魂神社である。記紀によれば主神の布都御魂は神武束征の際に、建甕雷神が所持した「平国之剣」であり、国家鎮護の神とされ宮中に奉斎され、崇神天皇七年物部の祖である伊香色雄命によって、鏡、剣、玉など十種の神宝とともに、高庭と呼ばれる現在の禁足地に祀られたのが神社の創始とされる。『日本書紀』記載の垂仁天皇39年、五十□敷命に命じて茅渟の川上宮で剣千口を作らせ神庫におさめたなど、神宮には武器の保管に関する記事が多い。武器庫の管理は五十□敷命から物部連十千根に命じられ、以降管理は物部連が掌握することになり、時代が下って天武天皇3年には忍壁皇子を使わして神宝を磨かせたことも伝わる。武器庫には五十□敷命が作らせた千口の剣のほか八尺瓊勾玉・百済王が献じた七支刀・高句麗が献納したとされる鉄盾などをはじめ多くの神宝が納められていたが、盗難や戦乱によって多くが散逸した。現在まで伝世されてきた宝物のひとつに七支刀がある。 |
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布留川 | |
![]() 古墳時代になると布留遺跡および周辺では発見される遺跡や遺構が飛躍的に増加する。後述するように布留遺跡では布留川の両岸の発掘調査で、刀装具・紡織具・農耕具・建築材・楽器などの多種類の木製品や、滑石・碧玉・水晶・ガラスなど玉類製作工房跡のほか、鍛冶生産を行ったとみられる遺構も確認されている。また潅漑用の大規模な溝や、大型掘立柱建物を中心とした支配層の居館とみられる遺構なども検出されている。市街地南方には西山古墳や西乗鞍古墳を盟主とした、おもに中期から後期に盛期をむかえる古墳群が形成されている ほか、周辺の丘陵部からは古代から中世にかけての墳墓も発見されている。 | |
布留遺跡布留堂垣内地区 | |
![]() | 1939年に初めて発掘調査された一帯で、出土した縄文土器は「天理式」と命名された。遺跡は布留川がつくる扇状地の奥まった北岸に広がり、1983年には縄文時代と古墳時代の遺物包含層と遺構を検出している。縄文時代中期終末から後期初頭の遺構には、直径が約3mの石組み炉を中央にもつ楕円形の住居跡があり、住居に接した場所に壁体状のものが焼けた塊が集中する遺構が検出されている。ほかに直径1~2m前後の規模の貯蔵穴を含む土坑が数基検出されていて、その中の1基からは硬玉製大珠が出土している。狭い範囲に居住空間と、祭祀ないしは埋葬空間が接近して存在したとみなされる事例である。「布留式」の標識遺跡でもあるこの地区からは、一辺が7mの古墳時代前期の竪穴住居跡2基と、中期の竪穴住居跡3基を検出している。ほかに掘立柱建物、井戸、土坑、流路などがあるが、中期の流路からは高坏や小型壷など土師器や初期須恵器に混じって小型鍬先形鉄製品、滑石製勾玉、管玉、臼玉、碧玉製管玉、水晶製丸玉、ガラス製小玉など祭祀に関わる遺物が一括して出土している。 |
布留遺跡杣之内地区 天理参考館東側煙突あたり | |
![]() | 布留川南岸に広がる古墳時代中期から後期の遺跡である。掘立柱建物跡十数棟、竪穴住居跡、土坑、大溝、外郭をめぐる護岸施設のほか、これにともなう倉庫跡などが検出されている。掘立住建物が建造された中心時期は5世紀中頃から後半である。土坑からは滑石製や緑泥片岩製の石製品が出土し、祭祀に関わる遺構とみられる。検出された溝の中でも5世紀終末頃に掘削され、平安時代前期に埋没した幅15m、深さ2mの最も大きい規模の溝は、布留川から引水するもので『日本書紀』履中紀の「石上溝」ではないかとする見方がある。溝の中からは土師器、須恵器などの土器類、奈良三彩、鉄滓、馬歯、馬骨などが出土している。この大溝の東側では、5世紀終末から6世紀前半の柱筋を揃えた掘立柱建物群や竪穴住居跡群が検出された。竪穴住居内から鉄鉗、滑石製の臼玉とその原材料、ガラス製勾玉などが出土し、鉄製品や玉製品を作る工房かあったと考えられている。 |
布留遺跡三島里中地区 | |
![]() | 布留堂垣内地区の西方、天理教本部西側。古墳時代中期から後期にかけての幅約10mの流路が検出されている。ここからは特に刀剣装具、紡織具、農具、容器、楽器、建築材をはじめとする木製品が多数出土し注目された。楽器にはヒノキ材で製作された琴があり、1枚板の共鳴板を持たない型式である。長さ45cm、厚さ1.2cmで一端に6本の糸を掛ける突起があり、他方に糸をまとめる穴があけられている。同時に琴柱も出土している。刀剣装具類には刀鞘、剣鞘の鞘口や鞘尻、把、把頭などがある。鞘には不要になったものを切断したものなどがあり、武器製作の場がこの付近にあったことを物語っている。 |