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大山古墳→百舌鳥陵山古墳→大仙公園(堺市立博物館)→いたすけ古墳→御廟山古墳→土師シサンザイ古墳

JR百舌鳥駅
 大阪北部には大雨洪水警報が発令される中、JR百舌鳥駅に集合した会員は189人。今日は、河内平野に築かれた大型古墳を訪ねる例会の3回目として、千賀先生に百舌鳥古墳群を案内いただく。
 収塚古墳(写真下)北側の公園で先生の話を聞く。
 
収塚古墳
 「古市古墳群と百舌鳥古墳群の7代の大王墓は、最初の津堂城山古墳から、仲ツ山-百舌鳥陵山-誉田御廟山-大山-土師ニサンザイ-岡ミサンザイ古墳まで、古市と百舌鳥のあいだを交互に移動して築かれた。
 百舌鳥陵山古墳(5世紀前半)とそれに続く大山古墳(5世紀中葉)ともに、 海からの眺めを意識して、この丘陵地が選ばれ、古墳を大きく見せるように、側面を大阪湾側に向けている。ただし、5世紀後半に下る土師ニサンザイ古墳は、東の離れたところに前方部を西に向けて築かれていて、このときに古墳の選地の原則が大きく変化したことを感じさせる。たとえば、大王墓によって政権の威容を誇示する必要があった時期と、その意識が薄れた時期との違い。その時代背景として、5世紀を通じて百済に援軍を送った高旬麗との戦いに、5世紀後半(476年)には、百済の都漢城の陥落で一応の決着がつくことも要因のひとつ。外に向かっての誇示よりも内部の力の充実に重点が置かれるようになったと考えられ、大王墓の規模が大山古墳のあとは200m級に縮小するのも、同じ事情」
 
大山古墳
南東角周濠
大山古墳(大仙陵古墳)を反時計回りに一周する。

墳丘は、長さ486m、後円部径249mに対して、前方部の幅は305mと広くなり、それぞれの高さは35mと33mでほぼ同じ。
 周囲に三重の周濠が巡るが、外濠は明治32年から35年の修陵工事によって現在の姿。後円部側では、周囲の帆立貝形古墳や円墳が外濠に取り込まれているため、当初の外濠は全周していなかったと考えるのか自然。
 会報の表紙にこの古墳の形象埴輪が示されている。巫女、力士の脚部に、飾り馬、白鳥もあり、人物埴輪を中心とする埴輪群像が伴う。円筒埴輪の特徴は、5世紀中葉、人物埴輪群像を成立させた契機となった大型古墳。

 江戸時代には、墳丘は桜の名所で、濠をわたって墳丘のなかへ自由に出入りできた。宝暦7年(1757)の『全堺詳志』の「陵墓部 仁徳帝陵」に「御廟ハ北峯ニアリ、石ノ唐櫃アリ、石ノ蓋長サー丈五寸、幅五尺五寸、厚凡ハ寸」とある。「石ノ唐櫃」は石棺とみられ、すでに盗掘にあったようで、「空櫃なり」と記す。その長さ318センチ、幅168センチ、厚さ24センチの蓋石は、墳丘の外へ運び出されたようで、竪穴式石室内に長持形石棺をおさめた埋葬施設であったと考えられる。
 前方部にも埋葬施設が知られているが、それは墳丘の上面ではなく前方部端の斜面。明治五年(1872)の堺県令税所篤による発掘で、そのようすは絵図で記録されていて、竪穴式石室内に長持形石棺が納められていた。その蓋石は丸く盛り上がった形で、丸みのある石を積んだ石室とともに、時期の下る特徴。出土品は、「総体銅鍍金」の眉庇付冑と横矧板鋲留短甲、鉄刀剣、さらにガラス器の「瑠璃色の壷の如きもの」と「白色の皿の如きもの」がある。ガラス器は、新沢126号墳のものとは色が逆だが、同じ組み合わせになっていることは注目できる。つまり、126号墳ではコーヒーカンのようにして副葬されていたが、このような器種による組み合わせが、製作地ないしは中継地で成立していたことを、この二つの例から連想させる。

 このほかにも、ボストン美術館には、「仁徳陵出土」とする細線式獣帯鏡と環頭大刀・三環鈴・馬鐸が所蔵。
北西後円部周濠から
前方部正面
 
塚廻古墳
 東周濠外のほぽ中央に位置する塚廻古墳は、径約35mの円墳。明治45年に調査され、長さ3m、幅54cmの木板か残っていて、その上から二面の鏡と勾玉などの玉、鉄刀剣などが出土。木棺直葬の施設。
 写真下、舗装路面の色の変わった部分から周濠が発掘された。帆立貝式の可能性が高い。
 
永山古墳
宮内庁指定陪塚と号飛地。
中央環状線をはさんだ北西部にある2段築成の前方後円墳。長さ約104m、後円部径約63m、高さ9m、前方部幅約67m、高さ8mで、主軸は大山古墳と同じ南西向き。西部のくびれ部には造出し。周濠には釣堀。
 
丸保山古墳
宮内庁指定陪塚へ号飛地。
大山古墳後円部の西側に近接して築かれた南向きの前方後円墳。 墳丘は全長約87m、後円部径約67m、前方部幅約40m。前方部は、削平。
 
銅亀山古墳
宮内庁指定陪塚に号飛地。
大山古墳南西角に築かれた一辺26m、高さ4.6mの2段築成の方墳。周濠の有無は不明。下段は南側が造り出し状に張り出し、長方形。
 
狐山古墳
宮内庁指定陪塚は号飛地。
大山古墳南西角、道を挟んで南側に築かれた径23m、高さ4mの円墳。周濠の有無は不明。現状は、墳丘の裾が削られ方墳状、墳丘は高く残る。
 
孫太夫山古墳
宮内庁指定陪塚い号飛地。(前方部より)
大山古墳から道を挟んで南側に築かれた墳丘長56m、後円部径48m、前方部幅30mの西向きの帆立貝形の前方後円墳。古墳の名は所有者であった中筋村庄屋の南孫太夫に由来。今ある周濠と前方部の一部は大仙公園の整備に先立ち実施された試掘調査の成果に基づき復元されたもの。
 
竜佐山古墳
宮内庁指定陪塚ろ号飛地。
大山古墳から道を挟んで南側、孫太夫山古墳西側に築かれた墳丘長67m、後円部径55m、高さ7m、前方部幅30mの前方部が西を向く帆立貝形の前方後円墳。
 今の周濠は孫太夫山古墳と同じく大仙公園整備に先立ち実施された試掘調査の成果に基づき復元されたもの。
 
百舌鳥陵山古墳
百舌鳥陵山古墳(上石津ミサンザイ古墳)は、長さ365m、後円部径205m、前方部幅237mの墳丘に、周濠が巡る。出土埴輪には黒斑があり、窖窯焼成以前のものであり、5世紀前半、つまりこの古墳群で最初の大型古墳。
 
七観音古墳
百舌鳥陵山古墳周囲には、小さな古墳が10基ほど伴っていたが、今では後円部の北側に、七観音古墳と寺山南山古墳が残るのみ。
七観音古墳は履中陵古墳の北側、大仙公園の南入口に保存されている。直径25m程の円墳で碧玉製の琴柱形石製品が出土したといわれている。
 
七観山古墳
 径約50mの墳丘に周濠か巡る大円墳であったが、戦争中に防空壕が掘られ、昭和27年の土取り工事、病院建設で消滅。その際の調査で、墳丘上の埴輪列による方形区画と、その下の3つの副葬品埋納施設を確認。鉄製武器が大量に納められていた。鉄鏃と馬具の第1槨、5領以上の甲冑を並べた第2槨、鉄刀剣ばかりの第3槨があり、大型古墳に隣接して築かれた陪塚の特徴。鉄製馬具は金官加耶からもたらされたもので、輪鐙・環板轡・三環鈴・鞍などがある。短甲の腰に着けられた帯にともなう金銅製龍文帯金具は、服飾用の装身具の新羅製品が、列島では武装時の装身具として使用されたことのわかる貴重な例。これらと、革綴短甲・柳葉式鉄鏃など、陵山古墳と同じ5世紀前半に属する特徴。現在病院移転後国有地化され、再現。本物は2段築成で墳頂部はもっと広かったと推定。
 
グワショウ坊古墳
大仙公園南端に2基の古墳が並ぶ。東側が、グワショウ坊古墳。2段築成の直径約58mの大形の円墳。
周囲には濠がめぐり、葺石と埴輪がある。主体部の構造や副葬品は不明。
 
旗塚古墳
ワショウ坊古墳の西側が旗塚古墳。
2段築成の全長約56m、後円部径約45m、高さ約3.9m、前方部幅約18mの、帆立貝形前方後円墳。
主体部の構造や副葬品は不明。葺石と埴輪があり、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほかに盾・蓋(きぬがさ)などの形象埴輪も出土。
 
堺市博物館
季節外れの桜??

周辺で昼食後、堺市博物館を見学。
遠くに雷鳴が聞こえ雲行きが怪しくなってきた。
 
いたすけ古墳
阪和線の線路沿いにいたすけ古墳がある。墳丘長146m、後円部径90m、前方部幅99m、南側に造り出しがつく。南側の周濠に残る橋は、昭和30年にこの古墳を破壊して宅地化する計画のときに架けられたものだ。研究者を中心にした、保存を訴えた市民運動によって保護され、国の史跡に指定されている。その時に墳丘から掘り出された街角付冑の埴輪が、今では堺市の文化財保護のシンボル。この埴輪は、首から下も続くもので、顔の部分に円孔が開けられていて、人物を表現しない甲冑形埴輪の冑の部分。
 この古墳のように前方部を西に向ける古墳は、古墳群の南部にまとまって見られる
 
善右ヱ門山古墳
いたすけ古墳周濠北側に接するように築かれた5世紀中頃の2段築成の辺30m以上の方墳。円筒埴輪が巡る。
 
御廟山古墳
御廟山古墳も前方部を西に向ける古墳の一つで、墳丘長186m、後円部径95m、前方部幅119mで、南のくびれ部にのみ造り出しがつく。幅広い周濠が巡るが、昭和40年代までは後円部の北側に鈎の手状に周濠が張り出す。
 後円部の東側にあったカトンボ山古墳は、径50メートルの円墳であったと推定されるが、昭和24年の土取り工事によって消滅。その際多くの滑石製模遺品が出土。子持勾玉4、勾玉725、斧6、鎌13、刀子160、剣1、双孔円板1、臼玉約2万、いずれも祭祀遺跡に伴うのが一般的な遺物。このほかに、位至三公鏡と無文小銃、鉄刀剣・鉾・鏃・刀子・斧なども出土。人体埋葬を示す資料はなく、主墳の御廟山古墳の被葬者が行なった神まつり関連の品々をここに納めた?。
 
百舌鳥八幡
御廟山古墳後円部に隣接して百舌鳥八幡神社がある。
祭神は、応神天皇、 配祀は、神功皇后、仲哀天皇、 住吉大神、春日大神。
所伝によれば、神功皇后が三韓征討の帰路、この百舌鳥の地に立ち寄り、万代までもこの処に鎮って、天下泰平民万人を守ろうという御誓願を立てた。八幡大神の宣託をうけて欽明天皇の時代に、この地を万代(もず)と称し、ここに神社を創建。
社前の巨木楠樹は樹齢約800年で、府の天然記念物。
応神天皇を祭る八幡神社が隣接することから御廟山古墳が応神天皇陵とする説もある。

雷が激しく土砂降り。土師ニサンザイ古墳はあきらめここで雨をよけながら話を聞く。
最も南東に離れた位置にある土師ニサンザイ古墳は、墳丘長290m、後円部径156m、前方部幅226mの、古墳群中で3番目の大きな古墳である。周囲に整美な周濠が巡ることでよく知られているが、二重目の周濠も伴う。後円部に比べて前方部幅が大きく開く特徴から、5世紀後半ごろまで下ると考えられる。

雨足が衰えるのを待ち解散。