yushikai.jpg

新堂寺合葬古墳→阿弥陀谷廃寺→中山瓦窯→八幡神社(中山町)→八幡神社(押熊町)→伝押熊皇子墓→押熊瓦窯→石のカラト古墳→音如ケ谷瓦窯→歌姫西瓦窯→市坂瓦窯→歌姫瓦窯→JR平城山駅

7月例会だより
梅雨が明けて4日、奈良地方は今年一番の猛暑日となった。その暑さにもめげず朝10時近鉄菖蒲池駅に集合、大西先生のご案内のもと、奈良山丘陵の瓦窯群を歩いた。
 阿弥陀谷廃寺は、駅から舗装された住宅街の傾斜地を登ること15分ほど現敷島公民館に礎石が残るだけであるが、平城京の最初の頃よりの山林寺院の典型例の一つとして、奈良時代の同様な性格を持つ寺院を考える上で重要な位置を占めるということであった。
 そこから、ひたすら北へ歩き、中山瓦窯のあった場所へ辿り着いた、窯跡は周囲の石垣で個人の宅地となっており詳細はわからなかったが、瓦窯は秋篠川の流域で平城京や奈良大寺への運搬に好位置であったと思われる。
 中山の八幡神社を経て、押熊の八幡神社に着く。宮司さんの歓迎を受けて神社由緒のパンフレットを用意していただき、また、神社内の資料館では、懐かしい農機具が整然と展示されてあり、幼い頃の農家での有様を彷彿とさせるものであった。昼食後、祭神の誉田和気命の母・神宮皇后と戦った押熊王子の墓が神社の4、50メートル近くにあるのは、感慨ひとしおであった。
 昼食後、押熊瓦窯の模型を見て、裏山で場所を確認、さらに東へ行き、石のカラト古墳を瓦窯に携わった士師氏の有力者の墓ではなかろうかと想像して、音如ケ谷・歌姫西・歌姫の瓦窯を見学する。
これらの瓦窯群は、平城京や奈良の諸大寺に供給する瓦生産地として、造られたとのこと。奈良時代前半の登窯から、平窯さらにドストル式と窯の変遷を確認する意味でも有意義なものであった。また、需要地(平城京・奈良諸大寺)への運搬は、西では秋篠川であろうが、東では牛車かリヤカーに類したものあったろうかと想像が広がる。
 大西先生、ありがとうございました。みなさまおつかれさまでした。  (大塚 昭夫)
 
近鉄菖蒲池駅
朝から快晴。近鉄菖蒲池に集まった会員は138人。
今日は大西先生に平城山(ならやま)の瓦窯を案内いただく。
奈良県と京都府の境にあたる奈良山丘陵は標高が最高でも136m程度であるが起伏に富んでいる。平城京遷都後の奈良時代には、総数40箇所ともいわれる瓦窯が営まれる。これらの窯は全て平城宮や京、寺院の瓦を生産した窯であり、藤原京の時代には各地に散在していた瓦生産地に対して、平城京北部に生産を集中させるという、宮都における瓦生体制の変遷を如実に物語っている。
現在西から得所瓦窯、乾谷瓦窯、押熊瓦窯、中山瓦窯、奈良山51・52瓦窯、山陵瓦窯、歌姫西瓦窯、音如ケ谷瓦窯、歌姫瓦窯、市坂瓦窯、五領池東瓦窯、瀬後谷瓦窯、梅谷瓦窯が知られている。
窯が作られた順序としては、大きくは西から東へというながれがあるが、東端の梅谷瓦窯は奈良時代の初頭の窯がある。構造の点では登窯から平窯という流れはあるがロストル式平窯の導入もあるので一概にはいえない。立地の点ではやはり運搬を重視したようで、川や主要交通路に面することは指摘できる。
 
新堂寺合葬古墳
近鉄西大寺駅から菖蒲池にかけての近鉄線の北側の丘陵斜面には、古墳や横穴が点在している。新堂寺合葬古墳はこの丘陵の南側斜面に位置し、1辺6.6mほどの掘り込みの中から、亀甲式陶棺が2基東西に並んで出土した。棺内では金環2個、鉄製刀子1個などがみられ、周辺では須恵器10点以上確認された。他に陶棺の栓もあり、古墳時代後期後半(6世紀末~7世紀初頭)の時期と考えられる。小規模な墳丘もあったようであるが、不明である。
正面住宅地付近に存在したが消滅。
 
阿弥陀谷廃寺
 1970年と1977年に奈良県立橿原考古学研究所による調査が行われている。方位に即した礎石建物が2棟分検室出された。礎石に赤変した部分や焼土の被覆があり、建物は火災により廃絶したものとみられている。奈良時代前半から平安時代の瓦の出土があり、なかに平城宮所用瓦と同笵のものも含まれている。また飛鳥の橘寺や川原寺と同じ図像の方形三尊塼仏が出土した(博物館常設展示)。小規模の堂宇で構成された山林修行にかかわる寺とみられている。
鎌倉時代の『西大寺領之図』では、西大寺の北西、秋篠寺の西方の山中に西大寺末寺である瑜伽山寺跡を北に、阿弥陀山寺跡を南に記している。絵図と現地のとの比定から瑜伽山寺である可能性が強い。また創建時期は西大寺に先行することから、東大寺周辺でもみられるように、このような山林寺院が平城京の初期の頃より周辺に存在しその後大寺院に吸収されていくという変遷が伺える。阿弥陀谷廃寺は、奈良時代の山林寺院の典型な例の一つであり、同様な性格をもつ寺院を考える上で重要な位置を占めると考えられる

正面左住宅付近の斜面に存在したが、消滅。東側の公民館に礎石が保存されている。
 
中山瓦窯
なかやま会館北側住宅の庭、秋篠川に面する東西丘陵の西南斜面に10基の窯が築かれている。有段、無段登窯、平窯と様々な構造の窯があり、全体が検出された無段登窯の5号窯では長さ6.1m、幅2.2mある。それぞれの窯は同時に存在したのではなく、有段登窯、無段登窯、平窯の順に造られたと考えられている。出土した軒丸瓦は9種類、軒平瓦は5種類、鬼瓦、螻羽瓦などがあり、時期は奈良時代初頭から前半(第1~Ⅱ期)に限られていて、平城宮に供給された。
 
八幡神社(中山町)
 
八幡神社(押熊町)
鳥居脇の池には蓮の花がひらく。
仲哀天皇の皇子である押熊皇子の墓と伝承されている直径15mの円墳。
 
押熊瓦窯
神功6丁目緑地南斜面に押熊瓦窯が残る。
平窯が6基確認されている。瓦は平城宮に供給され、奈良時代前半から中頃の時期(第Ⅱ-2~Ⅳ-1期)である。
北側斜面には歌姫西瓦窯を参考に瓦窯が再現されている。
 
石のカラト古墳
奈良山丘陵に単独で立地する終末期古墳である。墳形は上円下方墳で、上円部径9.7m、下方部1辺13.8m、高さ2.9m以上。墳丘には全面葺石と敷石を施していた。
内部主体は凝灰岩切石の横口式石槨で、規模は長さ2.6m、幅1.03m、高さ1.165m。石槨内は家形で壁面漆喰はない。盗掘のため出土遺物はわずかであるが、大刀装具として鞘尻金具、責金具があり共に銀製である。他に金製玉・銀製玉、琥珀玉、金箔、漆片がある。また墳丘に関って出土した土器の時期は奈良時代前半であるが、古墳の築造時期を直接に示すかは明らかではない。
 
音如ケ谷瓦窯
近鉄高の原駅で小休止。岐路に着く会員も。約半数の会員が音如ケ谷瓦窯に向かう。
ロストル式平窯が2基ずつ、2時期操業していた。
瓦は法華寺阿弥陀浄土院に供給され、奈良時代中頃~後半の時期である(第Ⅲ~Ⅳ期)。
窯の前面では作業小屋などと考えられる小規模な掘立柱建物が確認されている。
 
音乗谷古墳
音如ケ谷瓦窯西側丘陵上にある6世紀前半の古墳。
全長約22mの帆立貝形古墳で石室を主体部に持ち、多くの形象埴輪が出土している。
 
歌姫西瓦窯
平窯が5基確認されている。1号窯は登窯風の長大なもの、2・3・4号窯は分焔柱を持つ構造である。瓦は平城宮に供給され、奈良時代前半から中頃の時期である(第Ⅱ期)。また周辺では7世紀前半~中頃の須恵器窯が4基確認されている。窯を築く土壌が以前からあった可能性が伺える点で重要である。
 
猛暑の中、国道24号線に向かって田圃のあぜ道を進む。
 
市坂瓦窯
            
五領池脇国道24号線上から望む。
谷をはさんで8基の窯が東西に並び、調査された2基はロストル式平窯である。平城宮に供給した奈良時代後半(第Ⅳ期)の窯で、丘陵上の上人ヶ平遺跡では大規模な瓦製作工房が明らかになっている。現在公園に整備中。
 
瀬後谷瓦窯
市坂瓦窯のすぐ南側、土肌の崖の奥に5基の窯があり、平城京内の宅地などに供給した奈良時代前半(第Ⅱ期)のものである。
 
歌姫瓦窯
右側の高まりに5基の窯が知られているが、構造、時期の詳細は明らかではない。
ここからJR平城山駅に向かい解散。