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田能遺跡→猪名寺廃寺→園田大塚山古墳→南清水古墳→岡院の石棺→御園古墳→柏木古墳→御願塚古墳

例会だより
 梅雨入りはしたが、薄曇りの日が続く、初夏の尼崎市の遺跡を、今春に赴任された北井先生にご案内いただく。永い友史会の歴史でここを訪れるのは初めてとのこと。弥生時代の集落遺跡、田能遺跡のある猪名川の堤防に立つ。北に六甲、北摂津の山並みがうっすらと望める。「青い山脈」は確か終戦直後のこの山並みがモデル。当時は南には田園が広がり、多数の古墳が一望できただろう。今日は、墓や神社として開発を運良くまぬがれた古墳を市街地を縫って巡る。平成17年7月例会で訪ねた猪名川左岸の豊中市桜塚古墳群は、一世代に一古墳築造され、鉄製甲冑が副葬された武人の勢力。一方、右岸の尼崎市猪名野古墳群では一世代に規模の異なる古墳がまとまって築造され、甲冑の副葬がないとのこと。どのような勢力だったのか想像が膨らむ。法隆寺式伽藍を持つ猪名寺廃寺を訪ねた後、古墳群の中では新しい古墳、園田大塚山古墳から巡る。全長45mの6世紀前半の前方後円墳で戦後の土採りで削平され、新幹線脇の公園に1/2の規模で復元されている。すぐ南の南清水古墳は同規模の後続する帆立貝式前方後円墳。墳丘だけ残り墳頂には素盞鳴神社が鎮座。御園古墳は工場敷地に割り込むように墓地として残る。出土した縄かけ突起付の組合せ石棺を墳丘上で見学。5世紀中頃築造の柏木古墳も墓地に転用され墳形定かならず。北側に後続して築かれた、周濠に囲まれた美しい帆立貝式古墳、御願塚古墳を訪ねたあと、稲野駅で解散。北井先生、初めての例会お疲れ様でした。今後もよろしくお願いいたします。(下尾茂敏)
 
阪急園田駅
阪急園田駅に集合。

すぐに猪名川河川跡に作られた猪名川公園に向かい北井先生の説明を聞く。本日の参加者は170人。

 尼崎市北東部に位置する田能遺跡から猪名野古墳群にかけて歩く。友史会の長い歴史にあって尼崎市内の遺跡・古墳をまわるのは今回が初めて。
 
猪名川公園
 尼崎市東部を流れる猪名川は丹波高地に発し、現在の川西市南部で大阪平野に流れ出て、神崎川と合流し、大阪湾へとそそぐ約42kmの川。今回歩く場所はこの猪名川の下流域の右岸にあたる。
 対岸の豊中市域には全長80m以上の前方後円墳である大石塚古墳や全長55mの前方後円墳である御獅子塚古墳など36基の古墳からなる北摂津地域有数の古墳時代中期の桜塚古墳群が築造されている。桜塚古墳群は調査が進み、鉄製品が多量に出土し、特に甲冑などの武器、武具類の保有量やその内容が注目されている。
 今回歩く猪名川右岸の猪名野古墳群も桜塚古墳群と同じ頃に築造された古墳時代中期の古墳群。桜塚古墳群同様、早くからの開発により破壊が進み、多くの古墳が消滅し、残されている古墳も築造時の姿をとどめるものが少ない。これらの古墳群は古市古墳群、百舌鳥古墳群の築造に連動するように成立し、築造されましたが、両者には大きな違いがみられる。桜塚古墳群は一世代一古墳築造されるのに対し、猪名野古墳群では規模の異なる古墳がまとまって築造。また、桜塚古墳群では鉄製の甲楳を中心とした武器の副葬がみられ、軍事に深く関わった勢力と考えられるが、猪名野古墳群では鉄製の甲冑は出土していない。猪名川をはさみ、両地域に在した勢力の違いが鮮明に表れている。6世紀前半に百舌鳥古参群で築造が停止し、古市古墳群で古墳の規模の相対的な縮小が始まると、両古墳群も築造を停止。 
 今回は高度経済成長期の開発に翻弄されながらも保存された田能遺跡と古墳時代中期の巨大な古墳群猪名野古墳群を中心に見て回わる。
 
猪名川堤防
猪名川河川跡に沿って北上。
園田競馬場脇から猪名川堤防に出る。
 
田能遺跡
 田能遺跡も昭和46年以来37年ぶりの見学。田能遺跡が破壊の危機を免れ、史跡公園として整備・公開されたのが今から38年前の昭和45年。前回訪れたのは開館の翌年。

 田能遺跡は昭和40年9月の配水場の建設工事で見つかった弥生時代全期間にわたる集落跡で、国の史跡。
 調査は工事と併行して、考古学関係者だけでなく市民や地元の学校の生徒など多くの方々が参加して、約一年間かけて行われた。当初、遺跡は破壊される予定だったが、「田能遺跡を守る会」や「田能遺跡保存後援会」が発足し、市民による署名活動や展示会などで重要性と保存を訴えた結果、計画変更が行われ、一部が保存された。

集落の規模は東西115m、南北150m以上と推定。
初めて弥生時代の木棺材が遺存、方形周溝墓の2基の木棺墓から左腕に白銅製鋼を着装した成人男性と632個以上の碧玉製管玉を着装した男性を発見、子どもが土器棺に埋葬されていた
、近畿地方で初めて銅剣の鋳型が出土など多くの考古学的発見があった。。

展示品と解説ビデオを見た後、中庭で学芸員の方の解説を聞く。
 
尼崎農業公園
花菖蒲とバラが満開の尼崎農業公園抜けて猪名寺廃寺へ向かう。
 
猪名寺廃寺
 猪名寺廃寺は伊丹台地の南端部に築かれた法隆寺式の伽藍配置をもつ白鳳時代の寺院跡。昭和27年と33年に発掘調査が行われ、川原寺式の軒瓦、鴎尾などが出土。寺域は東西81.21m、南北48.48m。幅5.45mの回廊がめぐり中に塔・金堂などの主要伽藍を配置。塔の基壇は東西11.21m、南北17.15m。金堂の基壇は東西30.30m、南北13.64mで、講堂は中世の基壇しか確認されていない。奈良時代の瓦、白鳳時代の鴎尾などが出土することからこの場所に講堂があったと考えられている。塔と金堂の基壇は凝灰岩製の壇上積み基壇と考えられ、版築の工法で築造。猪名寺廃寺はこの地域における中核的な寺院。
 主な出土遺物は、軒瓦や鴎尾の他、二彩土器片や経石、瓦灯、銅鈴。また、中期から後期の弥生土器や須恵器、滑石製臼玉、円形の牙製品、滑石製紡錘車、円筒埴輪、馬形埴輪などの形象埴輪も出土。
 現在、塔の心柱礎石が残る。この心礎は長径2.5m、短径1.89mの花尚岩製で、上面には直径0.74m、深さ0.18mの円形凹式柱座がくり込まれている。この規模から高さ約30mの三重塔であったと推定。また、上面には直径0.12m、深さ0.12~0.13mの孔があけられており、舎利孔と考えられている。
 
園田大塚山古墳
別名、天狗塚古墳とも呼ばれる全長約45m、後円部径約24m、周囲に幅7m、深さ70cm以上の濠を巡らした前方後円墳。昭和初期の土取りで墳丘は破壊されたが、当時の記録によると墳丘高は前方部が約5m、後円部が約3.6m。主体部は後円部の中央付近に木棺を直葬した粘土槨で、その南寄り地点に第二槨として木炭層をもった竪穴式土壙。粘土槨からは変形神獣文五鈴鏡、管玉、蜻蛉玉、鉄刀などが、竪穴式土壙からは鞍金具・鐙金具・轡金具・杏葉・雲珠・辻金具・飾り金具・絞具などの馬具、鉄鋸・鉄斧・刀子・鉄鎌などの工具、鉄鏃・鉄刀・鉄槍などの武器が出土。この他、墳丘上・周濠内から円筒埴輪、蓋形埴輪、人物埴輪らしき破片。築造時期は6世紀前半頃。現在は約2分1の大きさで公園内に復原されている。
 
南清水古墳
園田大塚山古墳の南に位置し、西面する帆立貝形前方後円墳。現在、墳頂部に素還鳴神社の社殿が建立。墳丘規模は、全長約46m、後円部径約40m、高さ約3m、前方部長約12m、高さ約1.5m。北側に幅約14mの周濠跡が円形に遺存してたが、現在は宅地化。時期は6世紀中頃と推定。
 
前方部 宅地化された周濠の痕跡
 
岡院の石棺
 昭和38年に現在地に移設されるまで用水路に石橋としてかけられ、硯橋とよばれていた。現在は、内面を上にした状態で周囲をコンクリート台に固定されているため、表面を見ることはできない。法量は、長さ191.7cm、幅81.2cm、最大厚約30cm。石材は兵庫県高砂市付近で産出する竜出石。内面は、最大長辺140.2cm、最小短辺52cmの浅い刳り抜き。また、内面には一面に朱の痕跡が。現在、尼崎市内で最古の石棺と考えられるが、どの古墳に伴ったものか明らかではない。
 
御園古墳
 岡院の石棺から西へ250mほど行ったところにある。現在、墳丘は墓地として利用されているため大きく改変され、墳形ははっきりしない、西面する前方後円墳と推定。現状規模は、東西の全長約60m、後円部が径約30m、高さ約3m、前方部は最大幅約30m、高さ約2.5m。提瓶や横瓶、把手付椀などの須恵器や円筒埴輪、家形・盾形などの形象埴輪などの他に、鏡・玉・剣などの出土が伝えられているが、二口の直刀(うち一口は環頭太刀)以外は所在不明。これらの遺物、石棺などから6世紀中頃の築造と考えられる。
 
後円部 後円部から前方部を望む
 昭和8年の墓地整理の際に発見された泥質堆積岩製の組み合わせ式の石棺が墳丘土に残されている。出土位置は墳丘の西部と伝えられている。平らに加工された厚さ20cmほどの切石からなる組み合わせ式の家形石棺。蓋石には両辺に縄懸け突起。発見当時は2枚残っていたが、現在は一枚のみで、他の一枚は破砕され断片として石棺内に残る。法量は長さ2.15m、幅1.2m、高さ1.1m。
 
柏木古墳
御園古墳の北西約1.2㎞のところに位置する柏木古墳は墳丘全体を墓地として利用されているため、御園古墳同様大きく改変。墳丘の調査がなされていないため内部施設や外表施設については不明。阪神・淡路大震災による被災住宅の震災復興事業にともなって墳丘隣接地の調査が行われ、幅約11mの周濠が確認。周濠は円弧を描くことから現存する墳丘を円墳とすると墳丘の直径を約55m。また、周濠内から円筒埴輪や朝顔形埴輪、家・盾・蓋などの形象埴輪が出土。これらの遺物から古墳時代中期前半の築造と考えられる。猪名野古墳群の中心を占める古墳の一つ。
 
御願塚古墳
柏木古墳の北約700mのところに位置する帆立貝形前方後円墳。墳丘規模は全長52m、後円部径39m、後円部高7m。前方部長13m、前方部幅19m、前方部高2m。墳丘の周囲には幅7~11m、深さ1m程度の馬蹄形の周濠が巡る。その周囲に埴輪の樹立された外堤がめぐり、さらにその外側にも周濠があ二重の周濠をもった古墳。墳丘は未調査のため内部施設、外表施設は不明。出土遺物は周濠内から円筒埴輪、家形埴輪・蓋形埴輪と考えられる形象埴輪片などが多数出土。これらの埴輪から古墳時代中期後半に築造で柏木古墳出土埴輪に比べ、須恵質の埴輪が多いことから柏木古墳より後に築造。
 
前方部から造り出し 墳丘に立つ南神社